第24話
「そんな訳で、この間のことは許してくれる? やり過ぎたって反省してるの」
「ああうん。大丈夫です」
真澄は咲和に微笑みかけてそう言うと、彼女はホッとしたようだった。隣で「どうだか」と稜は呟いているけれど。
すると、咲和はにっこり笑う。
「稜? あなた普段はこんなに大人しくないよね? 真澄さんに話してもいいんだよ?」
「ば……っ! ……話したら同じことお前の彼氏にしてやるからな」
咲和の挑発に稜は一瞬乗りかけたが、すぐに声を抑えた。真澄は彼が以前に咲和と電話で話していた時を思い出して、普段からこんなやり取りをしているのかな、とか思う。
「あら、私とけんちゃんの間に隠しごとはないから」
お好きにどーぞ、と言う咲和は、おそらくちょっとやそっとのことでは動じないらしい。稜は強いと思っていたけれど、咲和には別の強さを感じる。これは逆らわない方が良い相手だ。
「……いつもこんな感じなの?」
若干咲和の強さに引きつつ、真澄は尋ねてみると、稜は「言った通りだろ?」と呆れ顔だ。それでも咲和は、必要だからこうなった、と言っている。
「私は途中から車椅子になったから余計にそう感じるんだけど、危害を加える人って相手を選んでるのよ」
でもね、私みたいに大声上げると、逃げてく人が多い、と咲和は笑いながら言った。真澄は彼女の発言に、稜がスーパーでされていた差別以上のことを想像してしまい、言葉が出なくなる。
見えないから……わからないからと人権を無視された人たちがいる。以前稜がそう言っていたのを思い出した。
「あ、真澄さん? そんな深刻な話じゃないよ? 男女車椅子でいたら『邪魔だ』って女の私だけ蹴られたりって話で……」
もちろん追い返したけど、とやっぱり彼女は笑う。真澄がその立場なら、すぐに謝ってその場から逃げるだろう。
「危なっかしいんだよ。大きな事件に発展したらどーすんだ」
稜は呆れたように言った。それでも咲和は、悪いのは相手だからと引かない。どうしてか、真澄には正論という文字が書いてある巨大ハンマーを、振り回す咲和の姿が見えた。
「咲和さん、稜は心配してるだけですよ」
「……わかってるわよ」
多分、そのやり方が咲和の自分の守り方なのだろう。真澄がすぐに謝って、曖昧な笑顔で逃げるのと同じように。そして多分稜は、そんな咲和を放っておけないのだと思う。
正直妬けるけれど、優しいからこそだと思うことにした。
その後食事を終えると、咲和は「またねー」と伝票を持って去ってしまった。呼び止めようと真澄は立ち上がったが、稜に止められる。
「この間のお詫びだってさ」
「え、でもあれは……」
良いから受け取っときな、と言う稜に、真澄は渋々頷いた。けれど稜にはそれじゃ伝わらないと気付いて、うん、と返す。
「じゃ、俺らも帰るか」
稜の言葉に真澄もうん、と言い、二人で店を出た。すると彼は、寄りたいところがあると言う。道路を歩きながら、二人きりになれた嬉しさと、照れくささが真澄を落ち着かなくさせた。
「やっぱり夏は日が長いね」
店を出た途端にまとわりつく空気に、真澄はTシャツで胸元を仰ぐ。日はすっかり落ちたようだけれど、まだ気温は日中の名残があった。
「俺は夜道が苦手だけど……」
咲和と話している時とは違う優しい声。その声色の違いに気付いてしまい、真澄の胸が心地よく締めつけられる。
「真澄と夜を散歩するのは好き」
「……っ」
真澄の身体がカッと熱くなった。照れて笑いそうになる顔を、息を詰めてやり過ごし、こっそり深呼吸をする。
「よく言えるよね、そういうの」
「ん? だから環境の違いだって。言わないと伝わらない世界だから……あ、真澄は嫌か?」
そう言う稜には、少しも照れはない。やっぱりさらりと言えてしまうのは、性格も大きく関係するのでは、と真澄は思うのだ。
「嫌というか……恥ずかしい」
「あー……まあ、そっか」
それが普通だよな、と稜は遠い目をする。
「人に頼れない、できないことを無理やりやろうとする障がい者も多くいるからなぁ。もうちょっと、お互い歩み寄れたら良いのにって思う」
いくら物理的に不便でも、人が助けてくれたら快適に過ごせる、と稜は言った。
「確かに。僕も全盲の人を道案内した時、どう介助していいのかわからなかった。稜とは勝手が違ってたから」
でも、健常者はその差さえ知らないのだ。助け方すらわからない。だから声をかけたり、聞いたりすることは大切なのだと思う。
そんな話をしているうちに、家に着いてしまった。確か寄りたいところがあると言っていたな、と真澄は稜に聞いてみる。
「稜、寄りたいところってどこだったの?」
「いつも行く遠い方のスーパー。途中で歩道橋があるだろ?」
そこだよ、と言われ、どうしてまた歩道橋なんかに? と思う。でも、散歩の時間が増えたので良いか、と再び歩き出した。
やがて目的地に着くと、稜は踊り場まで上って、と言う。言われた通り上ると、稜は手すりを掴んだ。
「真澄、ここ」
「何? あ、点字か」
稜が示したのは、踊り場に出る直前にある点字だ。読んでみてと言われたので読んでみる。
「お、……ど、り……あれ?」
そこに書いてあったのは【おどりぱ】だった。状況からして【おどりば】と書かれるのが正しいけれど、何度読んでも、見ても、最後の一文字は【ぱ】だ。
「稜、これ……」
「ああ。もちろんこの歩道橋の管理者に伝えたよ。……一年前に」
真澄は言葉が出なかった。一年前に伝えたのに、間違ったまま放置されているのだ。
もちろん、今すぐ直さなくても命に関わらないかもしれない。けれど稜が言いたいのは多分、そういうことではなくて……。
稜は苦笑する。
「これを頼りに歩道橋を利用する人は、社会的弱者で、少数派なんだって、思い知らされた」
詳しく聞けば、手すり点字の位置はJIS規格で定められていて、ここはそれからも外れているらしい。そして、そういう点字は残念ながら多いのだとか。
「作り直す費用だったり、専門家に確認してもらったり、色々と手間がかかることも事実だけど、後回しにされるとな……」
悔しい、と稜は呟いた。かける言葉がなくて、真澄は稜を呼ぶと、彼は笑顔に戻る。
「俺の悔しかった想いを真澄と共有することで、ちょっと和らぐ気がする」
ありがとう、と彼は言った。真澄こそ、稜には精神的、金銭的に支えられているのでお互い様だと思う。
「……今度こそ帰ろう」
「うん……」
稜の手が真澄の肩を叩き、そこから肘の辺りまで肌を辿る。歩き出すのかと思って真澄は前を向くと、その腕を引かれて稜の方へ向かされた。
唐突のことで驚いて彼を見ると、顔がすぐそばにあってさらに驚く。そしてその稜の目と、視線が合った。
(あ……)
彼の目は、今までに見たことがない色をしていた。真剣で静かなのに、激しい感情を湛えているような、そんな――……。
「り、稜っ、ここ階段っ」
危ないから、と顔を背けると、稜は数秒そのままの体勢で止まったあと、小さくため息をついて離れてくれた。改めて肩を掴んできたので、今度こそ歩き出す。
(い、今のは……)
稜のあんな表情、初めて見た、と真澄は大きく動く心臓を宥めるように息を吐き出す。彼が何をしようとしたかなんて、さすがに経験がない真澄でもわかった。
(そりゃあ一応……り、両想いな訳だし、稜だって前に、そういう欲求は普通にあるって言ってたし……)
だからって、キスをしたかったのか、と尋ねられる程、真澄は慣れていない。どうしたらいいのかわからず、ただ無言で家までの道を歩く。
「……ごめん」
すると稜から、小さく謝る声がした。真澄は前を向いたまま、ううん、と言う。
「びっくりしただけっ。っていうか、やっぱ稜、そういうことに慣れてるんじゃん」
僕は初心者だから、と言い訳がましく言って虚しくなってきた。そもそも、聞かれてもいないのに一人で喋ってしまい、恥ずかしくなる。
「……いや、決して慣れてる訳じゃあ……」
歯切れが悪い稜に、真澄は努めて明るく振る舞うしかない。拒否されたと思われたのなら、傷付けたのは真澄だからだ。
「いや、僕こそごめん。ちょっといきなりで心の準備が……」
「そ、そうだよな。散々人に自分の意思を伝えろって言っておきながら、聞かなかったのはまずかったと思う……」
ほんとごめん、と言う稜は、今更ながらそう思ったとでもいうように狼狽えている。いつも理性的に見える彼だけれど、先程は普段から口にしていることすら忘れるほど、衝動的に動いていたのだとしたら……。
「あ、う、うん! 大丈夫! ただ、階段はやっぱり危ないし外だし……っ」
真澄はぶわっと全身が熱くなった。稜がそこまで強い欲情を自分に向けていると知って、嫌と思うどころか、照れている自分にびっくりする。だから多分、恋人のスキンシップくらいはできるんじゃないかと思った。そんなことを考えていることにも驚きだけれど。
(だ、だって、ハグ……くらいはした、訳だし)
どうしよう、と心臓が落ち着かなく動く。家に帰ったらもちろん仕事はするけれど、外ではなくなるし二人きりだ。稜のことだから、次の機会をそれとなく待っているはず。
(僕は、どうしたいんだろう?)
何せ経験がないから想像もできない。一度、稜がきっかけで身体が熱くなったことはあるけれど、彼をそういう対象として見ていたかというと疑問がある。そもそも人と触れ合いたいなんて思ったことはなく、稜と両想いになったあとのことなど考えてもいなかった。
(重くならないように、とは考えたけど……)
例えば自分からはあまり連絡しないとか、自分の要求を押し付けないとか、無茶なお願いはしない、とか。真澄が考えるお付き合いには、スキンシップは含まれていなかった。これは普通の大学生の考え方なのだろうか?
真澄は内心頭を抱えた。相談できる友達もいなければ、参考にできる経験もない。こういう時、人を避けて生きてきたことが仇になったな、と感じる。
それなら、経験者である稜に聞いてみるのはどうだろう? 自分の考えが普通なのか、わかるかもしれない。
よし、と真澄は拳を握った。
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