第十章 轗軻不遇
袖山明誠と名乗る男と相対したその日の夜。直斗は、いまだ強い動揺を覚えていた。
何なんだ。あの男は。
自室の学習机に座り、頭を抱える。
妹の無実を証明し、いじめを止めさせるために敵地へと赴いたが、まさかの逆襲である。
男の目的はわからない。しかし、袖山明誠は直斗の心を見透かすような言動を取ってきた。それこそ、こちらが『ロビン・フッド』であると白日の下に晒すレベルで。
一体、何者だろう。どうしてわざわざ刑事のような尋問をしてきたのか。こちらは終始、しどろもどろになり、まともな弁明すらできなかった。
彼が話術に長け、相手の本音を引き出すレトリックを行使できる老獪な人間だということはわかった。しかし、逆に、袖山の思考が一切読めないのは、とてつもなく不気味であった。
極めて嫌な予感がする。地中の奥底で、大地震を引き起こす岩盤のズレが生じているかのような――。
もうあの男と、このまま関らないでおければいいのだが……。
とはいえ、目下、本当の懸念は、妹の春香についてだ。
袖山の『尋問』のあと、遠月教諭と話をしたが、まさに暖簾に腕押しの状態であった。いくら直斗が妹の無実を訴えても、聞く耳を持たなかったし、いじめを止めさせるよう頼んでも、「検討する」の一点張りで、具体的なプランなどは聞かせてもらえなかった。
まるで政治家の答弁だ。とても信頼なんてできなかった。
このままでは、妹を救えないかもしれない。直斗は不安にとらわれる。妹は今も暗いままだ。
春香の悲しげに沈む表情が、脳裏をよぎった。妹のあんな顔はもう見たくない。兄として、どうにかしなければ。
直斗は椅子から立ち上がった。
今、自分が取ることができる方法は限られている。そのうち一つを明日、試そうと思った。
翌日。直斗は学校にて、ルカへ相談を打診した。彼は、喜んで応じてくれた。
昼休み、校舎裏でルカと対面する。最近、あまり接する機会がなかったためか、彼の表情は晴れやかだった。よほど嬉しいらしく、西洋の彫刻のように整った容貌が、光輝いて見えた。
直斗は、単刀直入に事情を伝える。妹の春香のことやいじめのこと。そして、袖山という男について。
事情を聞いたルカは、それまでのご機嫌な様相から一変して、深刻な面持ちになる。
「まさか、春香ちゃんが……。そんな事態に陥っていたんですね」
ルカは悩ましげにうな垂れる。
そして顔を上げると、ルカは申し訳なさそうに謝罪した。
「気づかなくてすみません。僕としたことが……。あなたの妹様のことなのに」
目の前の吸血鬼は、まるで自身が直斗の従者のような風情で言う。この異世界人は、こちらの『血』を欲している。ゆえに従属しているのだが、春香に対する心配は本物のようだ。
「お前は悪くないよ。それより、何か対処しないと……。良いアイディアないか?」
直斗の質問に、ルカは顎に手を当てた。
「父上や母上に相談はしたんですか?」
直斗は首を振った。
「してない。なんだか言い出せなくて」
いじめというセンシティブな内容のものは、中々親に相談しづらいのが子供心である。仮にそれが、妹の問題であっても。
春香も同じ気持ちを抱いているらしく、親に相談する旨を訊いたら、異常なほど拒否を示した。
「しかし、大人が介入するのが最も解決への近道だと思いますよ」
ルカは至極真っ当な意見を言う。異世界人であろうと、基本的な価値観は人類と共通らしい。
「そうだけどな」
直斗は渋る。ルカの言い分は正しいが、やはり二の足を踏んでしまう。妹が望んでいるのならば、すぐにでも伝えるのだが。
それに、状況がより複雑化しているため、相談が難しい現状もある。妹を信じているが、犯人ではない証拠がない点も、厄介な事実であった。
「とりあえず、今は俺が対処してみるよ」
直斗が考えを言うと、ルカは首肯した。
「わかりました。僕も可能な限り協力します」
それから、リコは眉根を寄せた。
「気になるのは、その袖山とかいう男ですね」
直斗は頷いた。
「嫌な感じの奴だったよ。色んな意味で」
直斗は袖山の容貌を脳裏に想起させる。体躯の良い軍人のような厳しい男。消費者金融の社長だと言っていたが、債権者への取立ても万事こなしそうなほどの圧と迫力があった。案外、そっちの方面から成り上がったのかもしれない。
そして、最も危惧すべきは、驚くべき推察能力。魔法でも使っているのかと思うくらい、直斗の思考を読んできていた。
「とりあえず、そっちのほうも探ってみます。何かあったら連絡しますね」
ルカは、真剣な顔付きでそう言った。
袖山明誠は、愛車のマスタングコンバーチブルを運転しながら、木更津にある清見台地区を目指していた。
目黒からなので、少しだけかかるが、目と鼻の先だ。
マスタングコンバーチブルの車内では、グリーグの『ペール・ギュント』がスピーカーを通して流れている。壮大な物語の第一組曲、第四曲にあたる楽曲だ。
曲名は『山の魔王の宮殿にて』。
権力欲しさに魔王の娘に結婚を迫るペール・ギュントが、魔王から出された恐ろしい条件にビビって逃げだし、命からがら脱出する、というシーンを奏でたものである。
コミカルでありつつ、奥底に恐怖を秘めるオーケストラ楽曲であった。
『山の魔王の宮殿にて』を聴きながら、袖山は、やがて清見台地区にある春日小学校へ到着した。
エキゾースト音の響きと共に、来客用の駐車場へ乗り入れ、バックで愛車を停める。他に車は停まっていなかった。現在の来客は袖山のみらしい。
袖山はエンジンを停止させ、車を降りた。すでに出迎えはきており、中年のスーツ姿の女が、恭しく頭を下げた。
「お待ちしておりました。袖山様」
重役へ応対するような女の態度に、袖山は気分が良くなった。
「袖山様、先日は我が校への寄付、ありがとうございました」
再び女は頭を下げる。袖山は、満足して頷いた。
女が今しがた言ったように、袖山は春日小学校に多額の寄付を行っていた。『標的』がこの小学校にいると知った直後、即座に行動に移したのだ。
事を進めるのに、有利であるためだ。
今日は袖山の寄付に対し、学校側が感謝の意を伝えようと、招待をしてくれた。それを快く受け入れたのだ。もっとも、校長に対し、そうなるよう袖山が誘導したのだが……。
いずれにしろ、袖山のように、生徒の保護者でもない中年男性が、容易く校内に入るのは難しかった。やはり、何かしらの姦計を企てる必要があったのだ。
すでにこうして侵入している以上、袖山の謀略は功を奏したことになる。
袖山は、女に案内されながら、校舎に続くアスファルトの上を歩く。ちょうど休み時間らしく、遠くから小学生たちの楽しげな歓声が聞こえてきた。下品で、知性を感じさせない動物園のような騒音。
とても不快だが、柔和な物腰は崩さない。案内役の女と会話をしながら、周囲をうかがう。
目当てである篠崎春香も、この校舎のどこかにいるのだろう。休み時間の騒々しい中、何を思っているのか。さすがに、いじめられているので、はしゃいでいるとは思えないが。
袖山は、女と共に、校長室を目指しながら、脳内でこれから先のプランを何度もリピートさせた。
全ては俺の手の平の上。万時順調に進んでいると、強い予感があった。
袖山は、多額の寄付者として、一通りの挨拶と歓待を受けた。校長からは特に感謝の意が述べられ、記念品すら贈呈された。
そのあとで、校内の案内も行われる。興味はなかったが、袖山は笑顔で応対した。
ある程度、諸事を済ませたところで、ちょっとした時間ができた。
その隙を狙い、袖山は遠月を呼び出す。遠月は、従者のごとく、即座にやってきた。
袖山は指示を行う。
「篠崎春香と面会したい。場を作れ」
急な申し出にもかかわらず、遠月は、反論など一切せず、おどおどと首肯した。
時刻はちょうど昼休みに当たる。篠崎春香も自由時間のはずだ。
やがて、遠月から呼び出された篠崎春香はやってきた。場所は面会室。遠月はすでに退室しており、二人っきりで相対する形となる。
篠崎春香は、以前目にした時よりも、随分と暗い雰囲気を纏っているように見えた。先入観でないのならば、袖山の策略により引き起こされたいじめが相当堪えている証だろう。
袖山は、心の奥底でほくそ笑んだ。万事順調である。
至誠通天という吉田松陰の言葉を思い出す。人は純粋に事を成せば、必ず報われるものなのだ。
「こんにちわ。ごめんな。わざわざ呼び出して」
袖山は可能な限り、穏やか表情を形作った。
もとより、自身が他者に圧力を与える容貌の持ち主であることは百も承知だ。
仕事柄、その特徴は有利に働くが、今は相手が女子小学生である。ましてや、兄同様、見るからに気が弱そうな性格の持ち主であるため、より強い願慮は必要であろう。
そうしなければ、有益な情報を引き出すのは困難になってしまう。
面会室の入り口で、硬直したままの春香は、怪訝な顔でこちらをじっと見つめていた。以前と同じく、JENNIのブランド服を着ている。白いスカートに、ピンクのブラウス。服装自体は、特に変わったところはない。
瞳の奥に動揺が見えた。どうして自分は呼び出されたんだろう。そう心の声が聞こえてくる。
「まずは座りなさい」
袖山は優しげに囁き、部屋の中央にある面談用の椅子を指し示した。
春香は、最初、警戒したように無言で面会用の椅子と机を凝視していたが、やがて、袖山の柔らかい物腰に影響を受けたのか、おずおずと椅子へと歩み寄り、腰掛けた。
袖山も、机を挟んで正面に置いてある椅子に座る。子供も使用するために設計された椅子らしく、大柄な自分だと随分と窮屈に感じられた。
「緊張しなくていいからね。ただ話を聞きたいだけなんだ」
袖山は微笑みながら、猫なで声で言う。手振り身振りも忘れない。意図的に、大げさに見えるよう行った。下手に分別するよりも、オーバーなアクションのほうが、人は警戒心が解きほぐれるのだ。
案の定、春香は警戒レベルを下げたようだ。全身から力が抜けたのを、袖山は読み取った。
「あの……、何で私は呼び出されたんですか?」
春香は、鈴の音のような可愛らしい声で尋ねてくる。そこには、非難の色は込められておらず、単純な疑問のみが存在していた。
本来なら、昼休みを潰され、憤慨しているところだが、教室にいたくない事情でもあるのだろう。表情はむしろ軟化している。
袖山は、手をひらひらと振った。コミカルな動きになるよう心がける。
「ああ、特に問題があったわけじゃないんだ。ただ君のお兄さんについて、お話を訊きたくて呼んだんだよ」
春香はキョトンとなる。
「お兄ちゃん? 直斗お兄ちゃんのこと?」
春香は首を捻る。心底不思議そうだ。当然だろう。寝耳に水の話だからだ。
「ああ。そうだよ。実は直斗君は、俺の知り合いが経営する高校の生徒でね。今度うちの会社が主催するイベントがあって、中心に動き回る代表者が欲しいんだ。それで、直斗君が候補に上がっているんだよ。だから、今日、たまたま小学校を訪れたついでに、妹である君に、直斗君がどんな人か訊こうと思っただけなんだ」
袖山はわざと、矢継ぎ早に言う。出任せを口に出す場合、相手の思考をオーバーフローさせると、信じやすくなる。そして、なおかつ、疑惑は薄くなるのだ。
黙って聞いていた春香は、やはり、曖昧な表情を浮かべた。目論見どおり、完全に理解できていないらしい。
そこで、さらに袖山は付け加えた。
「お兄ちゃんのことを教えてくれたら、君が今陥っている状況、お金を盗んだという疑惑も俺が晴らしてやるってことかな」
春香の顔が明るくなる。
「本当?」
「本当だよ。君が犯人じゃないことくらい、俺にはわかる。VIP待遇の俺の手にかかれば、簡単に解決してやれるさ」
当たり前だが、毛頭、便宜を図るつもりはなかった。主張も根も葉もないものである。
しかし、この純粋な少女は、あっさりと信じ込んだようだ。どうして自分が直斗の妹だと判明したのかの疑問は、一切浮かばなかったようだ。
「わかった。お兄ちゃんのこと、ちゃんと教えるから」
春香はこくりと首肯する。すでに袖山のことを信じきった風情だ。
袖山は、心の中で快哉をあげる。やはり小学生など、懐柔するのは容易い。ましてや、いじめられて追いつめられている現状、助け舟には何の疑惑も抱かずに乗り込むのだろう。
袖山の会社の負債者も似たようなものだった。借金の減額やリスケジュールを提案しただけで、こちらの奴隷に成り下がるのだから。
ヴィクトル・ユーゴーの言葉を思い出す。彼は、著書『レ・ミゼラブル』でこう述べていた。
債権者は残酷な主人よりも悪い。主人は身体を剥奪するだけであるが、債権者は体面を破壊し、威信を破滅すると。
弱みを持つ人間が、いかに脆いかを物語っていた。
「じゃあ、最初は簡単なものから……」
袖山は質問を開始する。
有り体に言えば、得た篠崎直斗の実情は、まさに『平凡』そのものだった。
成績も凡庸。特に秀でる教科はなく、かといって、ボンクラでもない。
部活はやっておらず、帰宅部。塾には通っていない。
彼女はおらず、特にこれといって大きな趣味があるわけでもない――。
あまりにも特徴がなさ過ぎて、聞いているこちら側が飽きてくるくらいだった。本当に、そのような男が、何かしら特別視される人間なのだろうか?
しかし、異世界人に好かれる特徴を持ち合わせているのは確かである。もう少し、突っ込んでみよう。
「お兄さん、異世界からの転校生と知り合いだよね?」
「うん。レイラさんとルカさん」
「どうして、二人がお兄さんの知り合いになったのかわかるかな?」
「どういうこと?」
「異世界人二人は、お兄さんのことなんて言ってた?」
春香は、眉根を寄せ、うーんと唸る。
「よく覚えてないけど、素敵な人って言ってた」
「素敵な人?」
異世界人云々に関らず、あんな地味なクソガキを素敵だと思う人種がいること自体、信じられないが……。
「うん。お兄ちゃんからとても良い匂いがするんだって」
「……良い匂い?」
自身のこめかみがピクリと反応したことを、袖山は自覚した。今の証言はとても重要だ。
とはいえ、良い匂いとは、どういうことだろう。篠崎直斗と『面談』した際は、特に何も感じなかったし、袖山の『才能』を介した行動の推察からも、特に掴めなかった。
しかし、特徴的な証言である。そこに意味があるはずだ。
それに彼は、異世界人から好意を寄せられる根拠に全く心当たりはないと断言した。だが、やはり、それは嘘だったのだ。あるじゃないか。異世界人を惚れさせる一つの理由が。
そして、それを隠そうとした。なぜなら、他者に知られると都合が悪い部分があるから。
都合が悪いということは、そこには己を脅かすリスクが存在しているということだ。病巣のように、自身を蝕む『何か』が。
さあ、それは一体、どんなものだろうか。
袖山は言及した。
「良い匂いって、具体的にはどんなものなんだい?」
異世界人二人が、吸血鬼であることを念頭に置きながら、訊く。
「そこまではわかんないよ。でも、レイラさんはそう言ってたよ。ルカさんも同じようなこと言ってた」
「……なるほど」
詳細は知らないらしい。無理もないと思う。既知の仲とはいえ、所詮は好意を向けた相手の妹である。軽々しく全容を話す真似は、異世界人でもやらないのだろう。
だが、篠崎春香の先ほどの証言は、充分留意に値するものだ。
袖山は再び質問する。少し引っ掛かっていたことを。
「お兄ちゃん、ちょっと前に貧血だったよね? 何か心当たりある?」
「貧血?」
「ふらついたり、具合が悪そうな行動取ってなかった?」
春香は、俯き、思案する仕草を取った。
「うーん。言われてみれば、そんな感じだったような」
「君のお兄ちゃん、怪我してた?」
春香は首を振る。
「そんなことなかったと思う」
「これまで貧血気味だったことあった?」
これにも、春香は首を振った。
「ううん。なかったよ」
篠崎直斗は、吸血鬼から好意を寄せられ、行動を共にしている。考えられる原因としては、血液を提供したというものだ。
脳裏にイメージが湧く。シェリダン・レ・ファニュの小説『カミーラ』のように、首筋に噛み付く吸血鬼の姿が。
しかし、その線は薄いような気がした。以前確認した、二人の様子を何度も頭の中でリピートしても、損得関係といったステークホルダーのような印象は全くなかった。ただ、ルカのほうが好意を寄せているような、変わった挙動のみを確認している。
それに、貧血の原因が血液の提供ならば、これまでも幾度となく同じ真似をしているはずである。つまり、貧血に見舞われる現象が何度か発生しているということだ。その場合、妹の目に必ず留まるはずだ。
しかし、これまでそのような症状はないという。まさか血の提供が、たった一度きりというわけでもあるまい。
ようするに、貧血の原因は他にあるのだ。
新しい情報が、次々に蓄積されていく。今回は特に、有益な情報ばかりだ。
そして、最後に袖山は本命の質問を行う。この質問こそが、今日春香との『面談』設けた目的なのだ。
「春香ちゃん。君、何か隠してるよね?」
「え?」
「家族に言えない何かがあるんだろ?」
「その、お金が盗まれた話はお母さんたちには言ってないです」
「そっちじゃなくて、もっと前から何か隠し事あるよね?」
春香は口をつぐんだ。なぜわかったのだろう、という表情を浮かべている。ビンゴだ。やはりこの少女は、腹に一物抱えている。
「そのことについて、教えてくれないかな? もちろん誰にも言わないよ。君に降りかかっている問題を解決する糸口にもなるだろうし」
春香は逡巡しているようで、JENNIの白いスカートの裾を弄っていた。
「焦らなくていいからね。ゆっくりでかまわないから」
袖山は、債権者を懐柔させる時に使う口調で、春香を諭した。そして自分がすでに、目の前の少女を、債権者同様、ただの『獲物』としてしか見ていない事実に気がつき、思わず苦笑する。
おっと、いけない。これでは怪訝に思われてしまう。結構いい塩梅なのに。
幸い、春香は袖山のアクションに気を向けていなかった。俯いて、思案している。袖山は真顔になり、春香を見つめる。
その直後、春香は顔を上げた。どこか決心したような表情だ。
「わかった。教えるね」
春香の言葉に、袖山は破顔する。ようやく、真実が聞けるのだ。
「うん。頼むよ」
春香は言う。袖山は耳を傾けた。
「私ね、お兄ちゃんの部屋で見つけたの」
「見つけた? 何を?」
まさか、エロ本でも発見したのだろうか。もしもそんなお笑いのオチのような内容だったら、このガキを蹴り上げるかもしれない。
春香は答える。その内容は、少し不可解なものだった。
「緑色のコートだよ」
「はあ? コート?」
いまいちピンとこなかった。大して特筆する点ではなさそうだが……。この少女は、なぜ、兄の部屋で見つけたそれを、特別視したのか。
袖山が怪訝な面持ちでいると、春香が注釈した。
「ほら、あの『ロビン・フッド』が着ていた緑色のコート、あれとそっくりなものが、お兄ちゃんの部屋のクローゼットにあったんだ」
袖山ははっとする。テレビ越しに観た、アレーナ・ディ・ヴェローナの光景が脳裏に蘇る。
決戦場に乱入し、敵性勢力の異世界人たちを葬り去ったのが彼(正確には男かどうかもわかっていない)だ。その時に着用していたのが、緑色のコートに黒いズボン。まさに中世イングランドの伝説に登場する『ロビン・フッド』の出で立ちだった。
その者のお陰で、異世界人側は敗退し、結果、人類は救われることとなった(異世界人たちの侵略のため、大きな打撃を受けていた袖山の会社も、結果、救われている)。
まさに、八面六臂の活躍であり、原典である『ロビン・フッド』を超える存在たらしめたのだ。
それ以降『ロビン・フッド』の名称は、中世イングランドの英雄ではなく、アレーナ・ディ・ヴェローナで乱入した人物のことを指す代名詞となった。
その人物のシンボルとなったのが、まさに緑色のコートである。
「そうか? しかし、なんでそれが気になるんだ?」
『ロビン・フッド』が人類最大の英雄として克明に記憶されたのち、『ロビン・フッド』の衣装も流行の兆しをみせた。なにせ、簡単な服なのだ。いくつも模造品が生まれ、ブティックやアパレルショップをはじめ、様々な店舗で取り扱いがされるようになった。
最盛期からは失速したとはいえ、今でも『緑のコート』は人気を博している。
直斗も同じような理由でそのコートを持っていることが予想された。あるいは、そもそも、『ロビン・フッド』の真似事などの目的ではなく、ただのファッションとして購入している可能性もあった。
袖山の疑問に、春香は眉根を寄せる。
「お兄ちゃんは持ってたコートが、ちょっと変なことになってて」
そう言い、春香は黙る。
袖山は腕を組み、先を促した。
「変って、どう変なんだ?」
春香は言う。
「血とか泥で汚れてたんだ。最初はコートを着たまま転んだとか思ってたけど、お兄ちゃん怪我なかったし、なんであんなものがクローゼットの中にあったのか不思議に思ってたんだ」
はじめはそれの意味することが、理解できなかった。しかし、やがて氷解する一つの事実。
ただの下らない憶測。だが、考慮するべき事案だ。
「そのコートを発見したのはいつ頃?」
春香は、少しだけ悩んだあと、答える。
「二週間くらい前かな?」
二週間というと、ちょうどレイラ・ソル・アイルパーチが行方不明になった時期か。そして、大田山の事件に加え、扶桑高校襲撃事件の直前でもある。
「……一つ関係ない質問をいいかな? アレーナ・ディ・ヴェローナで異世界人との決闘があった時、君はお兄ちゃんと一緒にいたのかな?」
春香は不機嫌そうに、頬を膨らませた。
「それが違うんだよ。お兄ちゃん、友達のところに行くって言って、出かけたんだ」
「でかけた?」
「うん。突然、いなくなっちゃったよ」
アレーナ・ディ・ヴェローナでの決闘の時、篠崎直斗は、家にはいなかった――。一つの事実が、袖山の脳みそに蓄積される。
袖山は訊いた。
「そのことを誰かに話した?」
「ちょっと前にレイラさんがうちにきた時、話したよ。同じような質問されたから……。ねえ、なんで皆そんなこと訊くんだろ?」
不思議そうに首を捻る春香を無視し、袖山は、押し黙る。腕を組んだまま、思考を巡らせた。
一つずつの『点』は下らない戯言に過ぎなかった。だが、点と点が繋がった時、それは途方もない大きな真実が見えてくる。あたかも、政治家が企てた汚職事件のように、真っ黒い影が、背後にそびえているのだ。
パズルのピースが、かちりと音を立てて嵌った気がした。これは、ひょっとすると、あり得るかもしれない。DC会議の目指すものが、中島が提言した目標が、早くも実現する可能性が目の前に出現したのだ。
もう充分だろう。この少女からは、何もでてこないはず。
なおも、不思議そうにこちらを見つめている春香に、袖山は手でハエを払うような動作を行う。
「もう戻っていいよ」
あっさりと面談の打ち切りと宣言した袖山に、春香は面食らう。
「あの、私へのいじめはどうなるんですか……」
袖山は、春香の質問を無視し、考察を巡らせる。
あくまでも状況証拠でしかない。しかし、それぞれの事実が、光点のように輝き、繋がりを見せるのだ。星座のごとく。
袖山は、一つの事実に確信をもった。
その日の夜、袖山明誠は、目黒のマンションのリビングにて、ロッキングチェアに深く腰掛け、瞑目していた。
スピーカーからはグリーグの『ペール・ギュントの帰郷』が流れている。放蕩を繰り返したペール・ギュントが、故郷へと帰ってくる話。やがて、ペール・ギュントは、幼馴染のソルヴェイグに抱かれながら、子守唄を聞きつつ、息絶えるのだ。
袖山は、目を瞑ったまま、脳裏で映像を展開させる。
DC会議のシーンから、異世界人の吸血鬼と歩く篠崎直斗の姿。その直斗が、袖山のオフィスにて、動揺を見せる光景。直斗の妹である篠崎春香の証言。
複雑に絡み合った糸が解けて、光点と光点が結ばれていく。見えてくるのは、血のように赤く輝く死兆星だ。
袖山はロッキングチェアに身を沈めたまま、目を開く。そして、眼前に視線を向けた。
袖山の前には、ガラステーブルが置かれてあった。その上にはノートパソコンが一台。
画面にはテキストエディタが開かれ、すでに文面が書き込まれてある。
内容は篠崎直斗について。
吸血鬼に好かれる一人の少年。ロビン・フッドのコート。異世界人たちに襲撃された学校の生徒であったこと。吸血鬼が証言した『良い匂い』について。そして、貧血。アレーナ・ディ・ヴェローナでの決戦当日、行方知らずだったこと。それらを彼が執拗に隠匿する理由。大田山の事件。
いくつものキーワードが、目まぐるしく、幻想のように視界内を回る。やがて導き出される結論。
篠崎直斗が『ロビン・フッド』の可能性。
全ては状況証拠や憶測に過ぎない。しかし、充分に考察に値する材料が揃っている。
もっと突っ込んで考えてみよう。
仮に篠崎直斗が『ロビン・フッド』であったならば、こちらにとって、とても好都合だ。なぜなら、十二分に『刺せる』からだ。
『袖山金融』で会話した限り、少なくともあの少年の思考レベルは、一般の男子高校生と変わりはなかった。
金融の世界で、サバイバルゲームのように、切った張ったを繰り返した袖山の敵ではないのだ。
いくら、篠崎直斗が超人のような力を持つ者だとしても、篭絡は造作もなかった。まさに、赤子の手を捻るようなものである。
袖山は、体を起こし、全ての情報をエディタに入力していく。
このノートパソコンは、クラウドにも繋がっているため、いつでもワンタッチでネットへデータを流すことが可能だ。DC会議共通のワークスペースも確保してあり、そこにアップロードすることもできる。
――もっとも、そのつもりは毛頭ないが。連中に情報を渡してたまるか。
袖山は入力を続けながら、思考を巡らせる。これから自分が取るべき道は一つ。篠崎直斗が『ロビン・フッド』であるという『決定的な証拠』を得ることだ。
そして、それは決して難しいことではなかった。方法はいくらでもある。監視を付ける、雇ったチンピラをけしかける。あるいは、また確保してある債権者を使うことも可能だ。
すでに勝ちは見えているのだ。『決定的な証拠』を確保さえすれば、あとは、それをネタに、煮るなり焼くなり好き放題できる。世界最高の戦力を、こちらの手中に収めることが可能なのだ。袖山の奴隷と化している債権者のように。
『ペール・ギュントの帰郷』が部屋内に響き渡る中、袖山はほくそ笑んだ。
先んじて正解だった。DC会議の連中を出し抜けるのだ。特にあの青二才の御神龍司。いけ好かないエリート坊やの鼻を明かせると思うと、今からでも射精に至るほどの愉悦が沸き起こる。
とはいえ……。
エディターへの書き込みが終わり、保存を実行する。そこで少し考え、袖山はいくつか操作を行った。
全ての作業を終え、ノートパソコンを閉じた時だ。
物音がした。玄関のほうからだ。同時に、人の気配も感じる。ここは、二十階建てのマンションの最上階に当たる部屋だ。近くの部屋の住人ではない限り、まずは他者が訪れることはない場所である。
時刻は深夜に近い。来客などあるはずもないし、近隣の部屋の人間も、この部屋を訪問する必然性はない。
気のせいかと思った矢先、再び物音。『ペール・ギュントの帰郷』に混ざり、人の足音のような音が聞こえた。そして、気配がさらに濃くなる。
同時に、袖山の全身に粟のような鳥肌が生じた。得体の知れない化け物が、自身のテリトリー内に侵入してきたような、重圧のある恐怖。
すでに『何か』が、部屋の中に侵入したことを確信した。
そう。ここはマンションの最上階。なおかつ、最新の防犯システムを備えた、オートロックの建物だ。アルセーヌ・ルパンでも侵入は難しいはず。
『通常』の人間ならば。
袖山は、ロッキングチェアから立ち上がると、リモコンでスピーカーを停止させた。それから、近くのキャビネットを開け、中からある物を取り出す。金属でできた黒い物体。重厚で、手にしっくりくる造りのもの。
それは、グロッグ17と呼ばれる銃で、オーストリアのグロッグ社が開発した、九ミリパラベラムを使用する自動拳銃だ。
これは、DC会議のメンバーでもある李天佑から購入した密輸入品であった。李天佑は、チャイニーズ・マフィアである『上海幇』や『新義安』と繋がりを持つ人物だ。銃の密輸など、お手のものである。
袖山は、グロッグの安全装置を解除し、ウィーバースタンスで構えながら、音がした玄関へと慎重に向かう。
仮に侵入者がいた場合、躊躇わずに射殺するつもりだ。完全な防音が施されているマンションのため、銃声が隣室に届くことはないし、死体も警察に発覚しないよう、安全に処理できるツテなどいくらでもあった。
袖山はリビングを出て、廊下へ足を踏み入れる。廊下は、電灯が点いたままであるため、視界は良好だ。知悉した構造なので、どこが死角で、どこが危険ポイントなのか、手に取るようにわかる。
カッティングパイを行いながら、慎重に進む。やがて、玄関へと辿り着き、ある程度安全を確保したところで、袖山は眉根を寄せた。
何もいない。人も、そうではない存在も確認できなかった。
気のせいなのか。袖山は首を捻る。神経が昂ぶっていたために、勘違いをしたのかもしれない。
袖山が銃を下ろした時だった。風圧を感じた。突如、強風に見舞われたような感覚襲われる。
気がつくと、袖山は背後に吹き飛んでいた。そして、それまで自分がいたリビングへと転がっていき、ロッキングチェアとガラステーブルを弾き飛ばす。やがて、それらの残骸と共に、床へと倒れた。
仰向けに倒れたまま、袖山は嘔吐した。吐き出したのは、血の塊。どういうわけか、袖山は自身が致命傷を負ったことを自覚した。
「先走りすぎたわね。袖山明誠」
声がする。女の声だ。リビングの入り口からである。しかし、耳鳴りがして、声が若者なのか、年寄りなのかすら、判明しない。加えて、目も霞み、姿がよく確認できなかった。
この女が、自分に攻撃を加えたらしい。大の大人を容易く吹き飛ばすほどの攻撃を。
もしかすると、この女は……。
「もう少し、謙虚に動くべきだったね。まあ、もう遅いけど」
女の声は愉快そうに笑う。すでに、体が動かず、声も出せなかった。手元にあった銃も、どこかに飛んでいってしまっている。
どうやら、俺は死ぬらしい。なんてことだ。せっかく、世界と、果ては異世界すら牛耳るチャンスが訪れたというのに。
そこで、激しい音がした。金属を壁に叩きつけるような音。霞んだ目が、かろうじて捉える。どうやら女は、床に転がっていたノートパソコンを破壊したらしい。
一体なぜ? それは、証拠隠滅に他ならないだろう。だが、その行動で、女についていくつかわかったことがあった。
しかし、それを誰かに伝える術がなかった。重要なヒントを得たが、もうどうしようもない。
やがて、袖山の視界が暗闇に覆われ始める。体の感覚が凍ったように失せ、思考が鈍くなっていく。
落下するような感覚と共に、袖山の意識は完全に消失した。
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