第15話 セイ別
「はーい、みんな~。そろそろ入場の準備するよー」
先生の号令を合図に、各自着替えを済ませた幼児は教室の端に集まり始める。
並び順は背丈で決まる。人間の序列基準は曖昧だ。
つばのついた帽子をかぶった幼児らは、いつもより騒がしく先生の指示を待っていた。
普段とは一風変わった気もそぞろな空気。
「浮かれているな」
わたしより二ミリだけ背丈の低い、腐れ縁の幼馴染は前を向いたまま話しかけてきた。
「地に足はついてる」
両足で跳びながら入場を今か今かと心待ちにしている小坊主よりかは冷静なつもりだ。
「感情を表に出していないだけだろう?」
「それは……サヤカにも言えること」
「か、勝手に言わせておけば……」
「赤はね……人間の血の色なんだよ」
「は?」
振り向いたサヤカに、ナヤカは頭に巻かれた布切れを指差した。
「今日の、チーム分けの話」
「私は青だ」
「サヤカは知ってるはず。人間の血を体内に取り込む瞬間の快楽を」
「……快楽と感じた覚えはない。あの頃の記憶は曖昧になりつつある」
「人間から見て、蚊は発情する生物と捉えられてるみたい……だよ」
「そんな一般常識、とうの昔から知っている。私を同期扱いするなよ?」
一般常識かは置いといて。
「おおかた合ってるよね。人間から見た、わたしたちへの認識」
「さてな。そういう輩はいたかもしれないが……」
「言の葉を吹き込んでまで、手に入れようとしたのは初めて見たよ」
「……なっ」
少女の後ろ姿は見事に固まり、石のように動かなくなった。
「反論は?」
「……ふ、吹き込んだのはそちらもだろう。何を企んでいるのか知らないが」
「わたしはガチじゃない。サヤカよりかは用意周到かもしれないけど」
そう言った後、サヤカはチラッと後ろを振り向いて、またすぐに戻った。
「貴様とは現状に対する認識の齟齬があるらしい。潰されるべきは貴様だったな」
頬と耳を紅く染めたサヤカは捨て台詞のように吐くと、それ以降口を聞かなくなった。
血縁の赤。
発情の赤。
出血の赤。
赤は、わたしを正解に導いてくれるのだろうか。
「…………」
※ ※ ※
少女は個室に入るとポケットから手鏡を取り出した。
汗ばんだ前髪を右手でかきあげると、折り畳み式のくしで分け目を整えていく。
大人の女性を目指す少女にとって、これは必要なこと。
たとえ、それが女子トイレの個室の中でやることであっても、必要なことだった。
瞬間、身体の全身が強張るような感覚に苛まれる。
「でさ、うちのママが――」
何人かが会話をしながら、扉を強く押しのけて、女子トイレに集団で入ってきていた。
考えられるのは、第一種目が終わったタイミングということ。
個人のタイヤ跳びの次は、全体のケンケンパ体操。早く行かないと。
「サヤカちゃんはどう思う?」
ポーチに荷物を手早く入れ、個室から出る準備をし、後は便器のレバーを押すだけ。
……だったけど。
レバーに手をかけた途端、興味深い名前が耳に入ってきて、あたしの手は止まった。
「……ん? 悪い。何の話だったか?」
「ママったらね、みきのために新しいカセットを二つも買ってくれたの~!」
「ゲームの話?」
「そう。一つがね、お料理するゲームで……もう一つがいま世界で大流行してて手に入れるのが難しい、ちょーカッコイイ男子とお出かけしちゃうゲーム!」
「フィクションは辞めておいた方がいい。あれは人をダメにする妄想劇だ」
「やる前からいろいろ想像しちゃって……みきもうヤバいかも~」
「羨ましいなぁ……みきちゃん。ゆかも気になってるやつなのそれ!」
「みきが終わったら貸してあげる! ゆかちゃんには特別だからね」
「すべて作者の妄想だ。現実を見ろ、現実を」
少女は自分が意図せずにして耳を塞いでいた。
決して二人の会話に同調することなく、反発するような態度を取っていた星石サヤカに対して、いつあの勝ち気な二人が声を荒げるのか、怖くて怖くてたまらなかった。
あのときと同じように……。
「仲間なサヤカちゃんにも貸してあげる! 特別だからね~」
「サヤカちゃん、あのアニメ見てたよね? サヤカちゃんがゆかたちと同じアニメ好きなのもう知ってるんだから~」
けれど、二人が顔を赤くすることはなかった。
それどころか、二人はさらに好意的になって、星石サヤカに対して接触を続けてきた。
「それは……そうだが……」
「サヤカちゃんは分かってるよねー。みきたちとも話が合うし、作品への理解度高いし」
「ほんと、ゆかたちと会うべくして会った親友だよね。毎日楽しすぎる」
入園して間もない新人なはずの星石サヤカは、女子の間で逆らってはいけないと言われる猛獣二人の機嫌を簡単には損なわないほどに取り入れられた親しい仲になっていた。
それはライオンと虎を飼い慣らすウサギのように。
完璧な姉に人の想いを無下にする最低な妹。よくできた姉妹だと誰かは言うかな。
「サヤカちゃんの妹もアニメ見てるのー?」
話は自分の都合のいいように進んでいった。
「……ナヤカは……妹は、アニメ見ないよ。興味ないと思う」
「エー? うそ、なんで? 絶対見た方がいいよ!」
「うんうん。サヤカちゃんからもそう言ってるでしょ?」
「私からは別に……。ナヤカはつまらない人間だから」
……⁉
姉妹がいない自分からしたらサヤカの言葉は衝撃的だった。
妹をつまらない人間呼ばわりって、姉妹って仲が悪いモノなのかな?
「なんでなんで? あんなに面白いのに? なんで?」
「あ、みきちゃん。ゆか分かったよ、なんで、妹があんなのとつるんでるのか」
「あんなのって……ああ、男子とばっか絡んでるあれね」
心臓が途端に締め付けられるような発作を起こす。
前にも感じた覚えがある息苦しさ。
「結局おんなじなんだよ。おんなじ。サヤカちゃんの妹も」
「みきたちには分からない、ブスたちの話だよね~」
思い出されるのは、古傷が疼く過去の痛み。
『男子とばっかつるんでさ、調子に乗んないでよねー』
ある日突然、冷や水を頭から被されたような、そんな感覚。
頭を冷やされて、もうどうでもよくなって、あきらめるが選択肢に浮かぶようになった
きっかけの一日……。
ブシャァ!
瞬間、プールに人が飛び込んだ後に起こる強い水しぶきの音が自分の脳を起こした。
加害者にとっては定かではない息を吞むかのような緊張感のある沈黙がしばらく流れた後、次に出てきた言葉は、最低絶交最悪といった拒絶を示す悪口の数々だった。
聞き耳を立てる限り、加害者は音では何の反応も示さないまま、じきにトイレの出入り扉を蹴り飛ばす二つの足音が聞こえ、次第に声は遠くなっていった。
これ、どうしよう。
出るにも出られないし、何が起こったのか、この扉の隙間から一度様子を伺おう……
「あんたたちはもう用済みだ。私にとっては不必要な存在。意義もないし意味もない」
星石サヤカは濡れていた。
肩まである黒髪はべったりと背中に張り付いて光沢を纏って、シャツは下着が透けて見えるくらいまでぐっしょり、とまるで豪雨を独り占めしたようなびしょ濡れ具合だった。
つまり、バケツを頭から被ったのは勝ち気な二人ではなく、星石サヤカ本人だった。
「大丈夫……?」
思わず、声を掛けてしまった。
自分と同じ境遇……いや、それ以上にひどい境遇を受けた彼女に対して同情したのか。
突然個室から出てきた幼女に、水が滔々と床に滴るサヤカは訝しげに眉をひそめた。
「貴公は……赤組か」
「え、うん、赤組だけど……。そっちは大丈夫?」
「私は青組でこっちは大丈夫だ。これは私自身が被ったからな」
「え……?」
「気にするな。大したことではない。少し涼しいくらいだ」
扉越しに見ていたサヤカとは別人のような清々しくも穏やかな表情を見せた。
「もう秋だけど……」
「まだ残暑が残っている。四季があるか本に誠か疑いたくなるわ」
「へぇ……そう」
「それに、侮辱に季節など関係あるものか。私は友人を貶されたことの方が許せない」
「でもどうして、バケツなんかを被って……」
地面には放り捨てられた後のバケツと、一面濡れた形跡のある地面の跡。
たしかに濡れた跡はサヤカを囲むように円状になっており、真上からかけないと形成することのできない跡だけど。
「問題は起こしたくない。だから、怒りを抑えるために自分にかけた」
「えぇ……何やってんのぉ?」
気の配るような返答もできないほど、サヤカは意味不明なことをしてた。
サヤカは水一杯に入ったバケツを自ら被ったと言うのだ。誰も信じないようなことだ。
「友人をバカにされて何もせずいられるか。私には譲れないモノがあるのだ」
「さっきと言ってること違う! ナヤカはつまらない人間だって……」
サヤカは思案のポーズを取って、絞り出すように口にする。
「それは……時と場合によるぞ」
「はっきりしないよ!」
「私だってはっきりしてないぞ。それに、はっきりしない方がいい時だってある」
「どういうこと~⁉ 友達はなんでも言い合える仲じゃないとダメでしょ?」
「私に友達はいない。だから、私に聞くな」
「言ってること、意味わかんな~い」
地団駄を踏んでる隙にサヤカはトイレを後にしようと、扉を開ける。
「あ、ちょっと!」
「この後は全体だろう。ナヤカのお友達さんもさっさと校庭に来いよ」
「由里は……ナヤカちゃんの友達じゃない。由里がいつもと同じで勘違いしてただけ」
って聞いてないし。
サヤカは由里の言葉を聞く前に女子トイレを後にしていた。
言いたいこと言って先行くなんて、自分勝手な人。
「けど、悪い奴じゃないんだぞ。アイツ」
戻ってきたら戻ってきたで自分勝手。
それだけ言うと、サヤカはまたその場を颯爽と後にした。
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