70 恋をした

 ちかり、と太陽が瞬いた。


 鼻から目へ。


 すこん、と音でもしたように、視界が一気に彩られた。

 前を歩く元と詞島さんの姿がやけにくっきりと見えた。

 電柱にポスターが貼られていること、塀の向こうの木に実がなっていることに、地面の皹から芽を伸ばした草に気づく。

 目線を上げれば、雲の浮かぶ青空は地平の濃紺から中天にある太陽付近の水色へのグラデーションをしていて、太陽の明るさと雲の白さで複雑な色をしていること、何羽か鳥が飛んでいることにも気づいた。


 さあ、と風が耳を撫でる。


 目から、耳へ。


 プールの中から外に飛び出した時のように、全ての音が一斉に輪郭を主張し始めた。

 自分の歩く音に合わせてくれる足音を改めて認識する。

 ゆっくりとした呼吸音、鞄が体に触れる際に立てる音、明らかに自分のものよりも軽い足音が、自分よりも早目のテンポで隣から鳴っていることに気づいた。


 ちり、と腕の産毛が動いた気がする。

 

 耳から、肌へ。


 左手、左腕。

 大木さんに近い側の腕が、空気越しに暖かさを感じた。

 前から吹いてくる秋に向かって涼しさを含みはじめた風、顔に感じる未だ強いはずの陽光よりも、自分の隣にいる女の子の体温が、不思議とはっきり感じられた。


 目で、耳で、肌で。

 全ての感覚にくっつけられたフィルムを剥がしたような鮮明さ。

 初めて見る世界に、またひとつ、ドクンと胸が跳ねた。

 

 街中でかかる音楽たちは、常日頃から愛を謳っている。

 ウェブ広告でも、愛の素晴らしさを下品なまでに宣伝している。

 はっきりいうと、俺はそれらに諦めのような拒否反応があった。

 言われれば言われるほど斜に構え、愛だの何だのをワイドショーの離婚報道を理由に否定し、それでも何となく彼女は欲しい。

 否定しながら、やっぱり実はすごいものなんじゃないか。

 俺が思うより、やっぱりいいものなんじゃないか。


 そう思いながらも、実際にデータとして見せられる離婚率だとか、慰謝料だとか、酸っぱくあって欲しくないそんな気持ちと裏腹に、負け惜しみで言った葡萄の酸っぱさを肯定し続けるような数値に、悔しさと諦めを感じていた。

 そんなふらふらとした俺の中の標。

 一六年続けたそんな生き方の傾きが、今変わったような気がした。


 鼻から感じる匂いに、嬉しさを感じた。

 視界の色の鮮やかさに、眩しさを感じた。

 耳に聞こえる音の多さに、楽しさを感じた。

 肌が伝える感触に、温かさを感じた。

 心の中で一呼吸、覚悟を決める。

 隣を見た。


 昨日までと何も変わらない、クラスの違う同い年の女子。

 嫌いなものはオクラで、好きなものは甘い物。

 美少女系のソシャゲが好きで、小物にはバレないようなシンボル付きのものを紛れ込ませていて、気づくと嬉しそうに布教し始める。

 動物園に行けばペンギンと猫科の動物の前から動かないし、好きなものは食事の真ん中に半分食べ、残り半分は最後に食べる。

 付き合いを始めてから分かった大木さんの姿が一気に蘇ってくる。

 数秒前とは全然違う、クラスが違うだけの同い年の女の子。

 いつから意識し出したんだろうか、もうわからないくらいに気付けば大木さんとのことをしっかりと覚えていたことに、気付かされた。

 

 喉が鳴る。

 吸った空気が肺から飛び出したがっている。

 伝えたいと、聞いてくれと、形のない何かが体の中で動く。

 声が意味だけではなく、意思を持った気がした。

 行ってしまえと背を押す形の心と裏腹に、今まで生き続けて、バカを見た理性が最後の抵抗をしてくる。

 

 俺なんかが口に出していいのか?

 俺なんかが手を出していいのか?

 女のせいでぐちゃぐちゃになった恋愛を見た。

 男のせいでボロボロになった恋愛を見た。

 あいつらでも駄目だった。

 じゃぁ俺なんかじゃもっと駄目じゃないか?

 

 足を掴む賢しらな思考に、声が止まる。

 胸を内から圧す声に、視界が少し歪む。

 

 俺が勝ってるのはなんだ?

 俺と古賀で、何が違う?

 最後の一歩、最後の踏ん切りがつかない。

 やっぱり、何も言わずにこのままの方がいいんじゃないか?

 いつもやってきた、見切りをつける、諦めること。

 いつも通りの習性が登ってきた言葉を無理矢理に腹に落とそうとした時、耳の奥から声がした。

 

「いい男だと思うよ、俺は。」

 

 会話の中から出てきた、軽い言葉。

 元が覚えているかすらわからない一言。

 それを呼び水に、今までの付き合いの中で言われてきた言葉が蘇ってくる。

 俺を羨む言葉、俺を認める言葉、俺を褒めてくれる言葉。

 部活の友人、先輩、クラスのやつ、元。そして古賀。

 なんでもない言葉は俺が俺のままで、ちゃんと価値あることを信じさせてくれる。

 悪い部分は間違いなく山盛りだ。ただ、そうじゃない部分だって俺にはあった。

 誇れる部分があった、胸を張れる部分があった、小さなことだとしても、自慢できる俺がいた。

 かっこいいダチがいる、頼れるダチがいる、褒めてくれる人がいる。

 ふっと、鼻から息が漏れる。少し肩の力が抜けた。

 恵まれてるな、俺は。

 なら、俺は。

 

「大木さん。」


 告白なんて、緊張しすぎて吃るだろ。

 いやいや、絶対声掠れてるって。

 笑いながら、昔に友達と語ったことが思い出される。

 しかし、俺の口には微かな震えもなかった。

 立ち止まり、名を呼ぶ俺に、一歩だけ先に行った大木さんが振り返る。

 視界の奥には元も詞島さんもいるだろうに、なぜだろう、この瞬間、俺の目には大木さん以外は背景にしか写らなかった。


「好きだ、付き合ってくれないか。」


 キョトンとした顔で俺を見る彼女に、全身全霊の普通の声を届けた。

 言葉に、後悔はなかった。

 告白をさせてこそ。相手の好意を確定させてからこそ。

 きっと一日前にはそう思っていた。

 だけど、仕方がないだろう。

 鼓膜の横に心臓があるかのように心音がうるさい。

 顔だけサウナに入ったみたいに頬が熱い。

 嬉しさなのか恥ずかしさなのか唇の端が無意識に上がりそうになる。

 それでも、精一杯カッコつけて、恥ずかしさにそらしそうになる目を、大木さんの伊達メガネ越しの瞳から逸らさない。

 体が勝手に動き、手をポケットに入れそうになるが、堪える。

 なんちゃって、なんて口走りそうになる口を堪える。

 歯を抜いた時の痛みを我慢するより、

 好きなゲームを我慢するより、

 今までのどんな我慢よりも我慢して、俺は精一杯カッコつけて見せた。


「言い合うのが楽しかったし、一緒にいるのが楽しかった。

 知らないことの話も、知ってる話も、君とするのが一番楽しい。

 一緒にいたい。」


 脳内でぐるぐる回る良いセリフ、臭いセリフ、決め台詞。

 それらを使うこともなく、口からは大木さんに向けての言葉が考える間も無く流れ出る。


「俺と、付き合ってくれ。」


 筒井秀人、十六歳。

 ロマンチックでも何でもない道路で、初めての告白。

 空は青くて、木々は緑。

 風は微風で、花粉はなし。

 世界は美しく、目の前の大木桃だいすきなひとは、それよりもっと綺麗に見えた。

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