72 禁忌の掟参



「どうやらその様子だと、人間が妖術可能なことは知っているみたいだね。もしかして綾杜君にでも聞いたのかな。

 ——僕と風間先生はね、禁忌きんきおきていちを妖狐とちぎり、妖術が扱える人間になったんだ。そしてその術を鍛え続けた結果、高度なものへと昇華した……並大抵の妖狐には負けないくらいにね。実際、綾杜君も大したこと無かったよ。妖攻ようこうから夢叶ちゃんをまもったあの晩を見た限りでは、もう少し期待していたんだけどね」


 唇に薄らと刻まれた笑みは、何処か風間に似ていて。淡泊あっさりと告白した椿に夢叶は、酷く胸が締め付けられた。白薔薇のつるに囚われている両手首を小刻みに震わせながら、唇に小さな透き間を作る。


「綾杜君は弱く無い、強い人だよ……それに、卑怯なやり方で私をここへ連れてくるような真似はしない」

「あは、何それ。卑怯とか卑怯じゃないとか、そんなきれいごとはどうだっていいよ。ていうか、卑怯で冷酷な男と付き合ってた君に言われたくないかな」


 吐き捨てるような薄笑いが、夢叶の心胸こころに突き刺さる。茫然ぼんやりと浮かんだ銀髪の男に、胸の奥が切ない音を立てた。


「さて、今遊馬君が色々と話したけど、此処までで何か不明な点はあるかな?」


 緩く腕を組んだ風間が、首を傾げる動作を見せる。円眼鏡の奥で怪しく光る涅色くりいろの三日月には、此方こちらの内側を見透かしているような妙な余裕があった。強張る表情をかくせないまま、夢叶が恐る恐る口を開く。


「禁忌の掟壱というのは……」と呟くと、「やっぱり、詳しい内容については聞いて無いんだね」と椿が言った。爽やかでは無い笑みを浮かべる男へ視線を投げた風間が、再び彼女へ顔を戻しては口角を持ち上げる。


「へえ、そうか。渦中かちゅうの人物でるにもかかわらず、肝心なことが無知だなんて恐ろしいねぇ……まあでも、本来であれば吉祥きっしょうにその記述が載っていたんだけどね」


 え、という顔を作ると同時に、風間から借りたうつくしい吉祥きっしょうの書物が夢叶の脳裏に出現あらわれる。はげしい鍛錬の合間を縫いながら眼を通したそれに、「禁」の頭文字さえ載っていた記憶は無い。それにもかかわらず風間は、「本来であれば載っていた」と言う。


「まさか……妖術か何かで、風間先生がその記述を消したんですか」


 微かに双眸を揺らした夢叶が問い掛けると、「お、良い線だねぇ……と言いたいところだけど全くのはずれだよ」と、可笑しそうに首を横に振った。


「まあ貸したのは他でもない僕だし、何も知らない君はそう推測するよね。でも残念ながら僕では無い。君に禁忌の掟を知られたくないと誰よりも思っていたのは他でもない——神明希人じんあきと君なんだから」


 唐突に出現あらわれた名前に、夢叶の鼓動が強い音を立てる。小さな波紋すら無かった湖面に、突如音もなく月面が落下するような、そんな衝撃を覚えた。夢叶の身体が硬直する。静かに瞠目する金色の奥で、柔らかな銀糸を持つ男の後ろ姿が浮かんだ。


「禁忌の掟は全部でさんまでるんだけどね。それらは本来であれば吉祥の最終頁に載っていたんだよ。神君は妖術でその頁を上手く消し、代わりにそれっぽい白紙の裏表紙へと変えた。君に知られたくない一心でね」

「どうして……」


 自分に知られたくないのか。

 静かに積み重なる緊張が、容赦なく内側を揺らしていく。するとそんな胸中などお見通しだとでも言うかのようにして、風間が薄らと弧を描いた。


「その理由は考えるまでも無いよ。でもどうやら君は何も知らないみたいだからね——とりあえず先ずは、禁忌の掟壱について教えてあげる」と口にした束の間。組んでいた腕を解放させた風間が、徐に指先をそらへと向けた。天に咲く一本の白薔薇がしゅるりと下降すると、近づいた指先の間で淡い光が弾ける。白である筈の薔薇からはあか洋墨インクのようなものが流れ出し、白宙はくちゅうを滑るようにするすると文字を綴り始めた。


 ——禁忌のおきていち

 人間は妖装ようそうを介し、妖狐と契りを結ぶことで、その妖狐が扱える妖術を再現コピーすることができる。

 契りを結べるのは最大三回まで。それ以上はできない。再現コピーした妖術は、そこから更に精度を高めることができる――但し、互いに代償を支払う。妖狐は本来の寿命を真っ当することができなくなり、人間は取り戻すことのできない大きな代価を支払うことになる。


 整然と続く文章に、夢叶は声も無く眸を揺らした。羅列られつされたこれらが正しいのなら、眼の前に居る二人は大きな対価を支払ってまでして、妖術を操れる人間になることを選んだ、ということになる。


 ——神明希人が、人殺しだからだよ。

 ——生命いのちを救う君が人を殺める男の恋人だなんて、そんなの間違ってる。


 以前神秘の森で、椿が苦しそうに話してくれた光景がおもい出される。あの時の椿のオッドアイは、明希人への深い憎悪に満ちていた。そのはげしい想いの先に禁忌の掟壱を契ったのなら——と膨らむ推察に、心臓が真っ二つに張り裂けそうになる。そんな彼女の表情を観察していた風間が話を進めた。


「僕達が禁忌の掟壱を契ったのは十二年前。遊馬君が契った理由は君の想像通りだよ。神君が彼の両親に酷いことをしなければ、現在いまの遊馬君は居なかっただろうね」

「風間先生は一体どうして……」

「僕はね、逢いたい人が居るからだよ」


 ——恋愛ってきれいだけど、人を愚かにもするよね。愛が深いと、哀しみも寂しさも深いものになる——でも、それでもまた逢いたいなんて想ったりしちゃうんだから、本当に愚かだよ。


 静かに金色の眸が見開かれると同時に、以前大学の研究室で聞いた話が脳裏を過ぎる。その時偶然眼にした一枚の写真が、夢叶の中でそっと微笑みを浮かべた。


 凝然じっと耳を傾けていた椿が僅かに視線を落とす。徐に後頭部を後ろへ逸らした風間が、白いそらに浮かぶ薔薇を円眼鏡に映した。白い地面に座り両手足を固定されている夢叶に、眼鏡の奥に潜む涅色くりいろがどんな心情でそれを捉えているのかはわからない。

 少ししてゆるりと紅文字へ視線を戻しては、「さ、次は理由の核心であるさんについて教えてあげよう」と風間が言った。刹那、紅文字らは混ざり合うように互いを絡ませ、新たな文章を白宙へと綴り始める。淡々と走るそれを追うごとに、金色の眸がより大きくまっていく。


 ——禁忌の掟さん

 九尾の狐が扱う妖攻具ようこうぐには、他の妖狐には無い特別な数字が出現あらわれる。尚、数字は千からまんまでり、その最上級である「まん」と描かれた数字の妖攻具で「花夢癒はなむゆ」を扱える妖狐を殺めると、特異な能力ちからが発動する——既に死亡している妖狐、及び人間一人だけを一日だけ蘇らせることができる。


 声を失くしたように夢叶がただそれを見つめる中、同じく文章を追っていた椿が微かに眉を顰めた。


(明希人君の妖攻具ようこうぐの数字はまん。つまり風間先生は蘇らせたい人が居るから、明希人君の鉄扇で私を……)


 押し寄せる切迫感に、夢叶の鼓動がぶるりと震えた。血の気が失せるようにみるみる青褪あおざめていく。

 くすりと笑みを浮かべた風間は、白宙に並ぶ紅文字へと指先を伸ばした。雨が上がるようにして、そらに咲く白薔薇へと紅い洋墨インクが舞い上がっては、重なる花弁はなびらがそれらを吸収していく。然し何事も無かった様子で、薔薇は白いままでった。異様な沈黙が空間を支配する中、何かを思案した夢叶がゆっくりと口を開く。


「……じゃあまさか、現在いま風間先生は明希人君の鉄扇を待っているんですか。そもそも九尾の狐ではない風間先生が明希人君の鉄扇を手にしたところで、数字は消えるんじゃ……」

「お、数字については一応知識があるみたいだね。でもその心配は無用だよ。九尾の狐を殺すとね、ほんの一時的にだけど殺した者にも同じ数字が与えられるんだ。僅かな刻とはいえ、その間に君を殺すことには何の造作も無い——それから神君の鉄扇を持っているかどうかについてだけどね、僕の手元には無いよ。現在いまはまだ、ね」


 恐ろしい事実と妙な含みを持たせた口調に、夢叶の眉間に深い皺が生まれる。かくせない感情を円眼鏡に映した男は、飄々とした態度を崩すこと無く淡泊あっさりと言った——「もうじき此処へ神君が来る」


 金色の双眸が強く見開く。息を呑む音は微かに震えていた。


「ごめんね。君に謝らないといけないことがあるんだ。先刻さっきまで君が意識を失っていた様子、実はスマホで撮影させてもらったんだ。そして妖術で加工した映像を遊馬君のスマホから神君へ送ったんだよ。月雪さんを救いたかったら、此処を探して来いってね——映画やドラマでよく見るような展開ってやつだよ」


 驚きと苦しさから顔を歪めた夢叶に向かって、椿がすっとその画面を突きつける。そこには今と同様、白薔薇の蔓に手足が縛られている自身の姿がった——だが異なるのは、映像の中に居る自分は縛られた箇所から血を流しており、口からも紅色を垂らしている。それを視界に入れた途端、夢叶は酷く眉根を寄せ、封じられている両手を堪えきれない様子でぷるぷると震わせた。


「酷い、こんなこと……そもそも私は、もう明希人君の恋人じゃないです。それに明希人君なら、この映像が罠だって冷静な眼で疑うはずです」


 うんうん、と風間がうなずいては続ける。


「そうだねぇ。神君は賢いから、この映像が偽造フェイクなことにもちろん気付くだろうね。でも月雪さんに危機が迫っている、若しくは陥っている可能性がほんの僅かでもあると考えられる以上、彼は必ず此処へ来るよ——だって神君は、心胸こころの底から君を想っているんだから」


 そう言った彼の表情は捉え処の無い笑みではなく、寧ろ優しいものであった。虚を衝かれるように、金色の眸が波打つ。束の間、風間の顔ばせは何処吹く風の如く、へらりとしたおもてへと瞬時に変身した。


「そうだ。書き忘れていたけど、禁忌の掟参を叶えるためには条件があってね。『花夢癒はなむゆを扱う妖狐は、三日以内に、瀕死状態の人間を二人以上回復させる能力が必要』とあるんだ——花夢癒は身体に負担が掛かる妖術だからねぇ。同時に何人も救えないし、君自身が体力を回復をする期間が必要になる。

 だからその条件を通過クリアできる能力や体力が無いと、鉄扇で君を殺めたところで禁忌の掟参を叶えることはできないんだよ。君は今年で二十歳になるし、そろそろそこまでの能力が身に付いたかなぁと思って、四月に思い切って試してみたんだ——遊馬君の妖術で大学生二人を転落させてね。そしたら君は見事に、その能力が備わっていることを証明してくれた」


 ばらばらに離れていた謎々パズル欠片ピースがじわじわと繋がっていく感覚に、胸が急速に冷えていくを感じた。まさか大学生二人の転落の根幹に自身が深く関わっているとは——拳の中で爪を食い込ませた夢叶が、険しい表情で奥歯を噛み締める。


「……自分の願望のために、誰かの生命いのちを危険に晒すなんて最低です」

「正論だね。そんなことはもちろん始めからわかっているよ。でもね、叶えられるかもしれないという可能性を僅かでも見出せた時、人間は脆く愚かになる。犠牲を払ってでも、他者を傷つけると解っていても、手を伸ばさずにはいられなくなる。

 それははたから見れば酷くみにくいのかもしれない。でも僕は其処そこに、人間らしさのようなものを感じるんだよ」


 言い終えるや否や風間は、下へ垂れている手で何かを払うような仕草を見せた。すると、夢叶の眼前にある白い地面から、円椅子まるいすのような白円柱がふっと出現あらわれる。その側面には白薔薇と蔓が交錯していた。夢叶が静かに驚く中、風間が椅子代わりにするみたいに腰を掛け、ゆったりと細い脚を組む。


「さて、神君が到着する前に、あの日のことについても話さないとね」と呟かれたそれに、「あの日……?」と夢叶が訝しげに眉を顰めた。そんな彼女へ二つの涅色くりいろ凝然じっと注がれると、


葛木麻子かつらぎまこさんが死んだあの日のことだよ」と風間は静かにそう言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る