70 八月八日


「え、綾杜君どうしたの? 腕が……」


 八月八日の今日も、山中で鍛錬たんれんを続けていた夢叶の前に、何時いつもとは異なる姿で綾杜が出現あらわれた。愕然ぎょっとしながら慌てて駆け寄った夢叶に、少し気まずそうな顔を作る。


「骨折した」

「どうして? 昨日までは何でも無かったのに」

「夏休みに入ってから話しただろ。習得したい妖術があるから、俺も個人的に鍛錬を始めたって……それでまあ、油断したせいでやっちまった。自分の管理を怠ったせいだ」


 ばつが悪そうな顔で視線を逸らした横顔を、金色の双眸が心配そうに見つめる。利き腕である綾杜の右腕は、白い三角巾によって包まれ固定されていた。詳細を聞くと、手当ては夢叶の祖父である叶貫ときがしてくれたらしく、重症ではないが暫くは無理はしないようにと言われたらしい。


「そんな深刻そうな顔をするな。伝染うつるだろ。そもそも俺は夢叶と違って自然治癒する能力もあるし、大袈裟に心配する必要はねぇよ……まぁ双子の彼奴あいつらが知ったら、寧ろ俺を揶揄うだろうけどな」


 鼻先で軽い笑みをこぼした綾杜に、「本心はその逆だよ。杏ちゃんも杏吏君も優しい子だから」と首を振れば、「素直じゃない早熟餓鬼ませがきだからな」と吐息をこぼしながら笑みを浮かべた。


「でも綾杜君、今は安静にして休まないと駄目だよ」

「あぁ。でもこの後野暮用があってな。そのついでに夢叶の様子を見に来た。まぁ用が済んだら今日は大人しくしてるつもりだから、それ以上心配するな」


 消えない不安を見かねた綾杜が、自由のきく左腕を大きく持ち上げる。無造作に夢叶の頭を撫でる仕草に、「もう」と吐息をこぼした。


「もうすぐ慎が夢叶の鍛錬を見に来てくれるはずだから、お前もほどほどに頑張れよ」


 そう言うと綾杜は山を下り始めた。「私のことはついでだって言ってたのに……」と小声で呟いた夢叶が眉尻を下げる。こぼれた小さな笑みは蒼々あおあおとした青空へと溶けていくのだった。


「この二ヶ月で随分と上達したね。閃耀せんようがだいぶ様になっているよ」

「慎君たちが丁寧に指導してくれたお陰だよ。本当にありがとう」


 あれから暫しの時間が経った昼下がり。夢叶は慎に見てもらいながら鍛錬に励んでいた。脹脛ふくらはぎまでまくられたジャージの裾やTシャツの袖からは、白い肌が露わになっており、容赦ない陽射しを受け続けている。薄物の涼しげな着物を身に纏う慎は、はげしい陽をものともせずに、何時いつもと変わらない穏やかな表情を浮かべていた。

 すう、はあと呼吸を整える夢叶に慎がペットボトルを渡す。渇いた喉を潤すそれは新鮮な果実のように甘酸っぱく、火照ほてった体内にエネルギーを補給してくれた。


「杏ちゃんと杏吏君、今頃ウォータースライダーとかに乗ってはしゃいでるかな」とペットボトルの口から離した夢叶が笑みをこぼす。「そうだね。杏が、怖がりな杏吏を引っ張って、忙しなく連れ回してるかもね」と想像を膨らませた慎がくすと微笑んだ。


 珍しくこの場に居ない杏と杏吏は、大型プールが併設されている娯楽施設テーマパークに家族皆んなで出掛けている。日頃から鍛錬に熱心に付き添ってくれるお礼として、慎が入場券と二泊三日の旅館を予約し贈物プレゼントしたのだ。ちなみに夢叶は杏と杏吏が欲しいと言っていた動物妖怪図鑑セットを。綾杜は和菓子を贈物プレゼントしている。


 ふと、「綾杜君大丈夫かな……」と木陰の片隅に視線を落とした夢叶に、「大丈夫だよ」と慎が答えた。迷いのないそれに安堵すると、新鮮な風がさあっと駆けていく。木々を染める鮮やかな緑が、気持ちよさそうに踊った。その間に「骨折だけで良かったよ」と呟かれたそれは、自然を撫でる風に攫われてしまったのか、夢叶に届くことはなく。聞き取れずに首を傾げた彼女に、慎が優しく微笑んだ。


「何でもないよ。そういえば綾杜が、夢叶ちゃんが作ったきつね丼が美味しかったって気に入ってたよ」と、ふとおもい出した様子で慎が柔らかく言う。

「本当? 九条葱くじょうねぎ厚揚あつあげで作るきつね丼、私もお気に入りだから嬉しいな」と口角を持ち上げると「俺もいつか食べてみたいな」と蒼々あおあおと輝くそらへオッドアイを向ける。


「何時でも作るよ。今度皆んなで一緒に食べようね」


 そう言って夢叶も鮮やかな蒼を見上げては笑顔を浮かべた。乳白色と淡緑色のオッドアイが夢叶を映しては、静かに微笑む。綿毛がふわと飛ぶみたいな微笑みだった。


「夢叶ちゃん、俺と仲良くしてくれて本当にありがとう。これからも杏や杏吏、綾杜たち皆んなと仲良くしてもらえると嬉しい」

「こちらこそだよ。仲良くしてくれて本当にありがとう。鍛錬は大変だけど皆んなと過ごす時間が大好きだよ」


 陽だまりみたいな優しい笑顔に、「俺も」と柔らかな音を紡いだ慎が同意する。それからも休憩がてら談笑を続けていると、「ちょっと所用がるから抜けるね。三十分から一時間くらいで戻るから、夢叶ちゃんは休んでて」と涼やかな表情で言い残しては、慎がその場を後にした。


 それから一人になった夢叶は山を下り、祖父の家からあまり離れていない墓場に足を運んだ。夢叶がまった墓石の側面には、年月日と共に、「月雪吉良つきゆききら」「月雪寧々つきゆきねね」の名前が刻印されており、夢叶がそっとてのひらを合わせる。

 八月八日。それは十二年前に亡くなった両親の命日であった。交通事故で亡くなったと聞いている夢叶に、事故当時の記憶や両親の記憶は一切無い。その原因は事故の衝動ショックと云われている。これまでの十ニ年間、いつかおもい出せる日が来るかもしれないと何度も期待した。然し時間が経過した現在いまも、些細な出来事さえ憶い出すことが叶わずにいる。


 夢叶がゆっくりと瞼を開ける。視界が明瞭になると同時に、せみとんびらの声がより判然はっきりと聞こえるのを感じた。

 墓石の花瓶に立てられている花に視線がまる。彩り豊かなそれは、花弁が上品に重なっており、清らかで優美である。花の状態を見る限り今日訪ねて来てくれたのだろう——この花たちは毎月八日に必ず供えられている。だがそれを贈ってくれる人物を夢叶は見たことが無い。いつか本人にお礼が言いたいと想い続けているのだが、その望みはまだ叶っていなかった。


 ——が護る。傷つけさせない。

 ——を舐めないでほしいな。


 花に意識が向く中、ふと墓石のすぐ近くにある林の中から声が聞こえてきた。会話の内容は判然はっきりとはわからない。だが聞き覚えのある声に、夢叶が微かに金色の眼を瞠る。小さく唾を呑んでは、林の方へと足を近付けていく——刹那、林の中がぴかっと光り、どさっと何かが倒れる音がした。吃驚びっくりした様子のからすたちが、「唖々ああ! 唖々ああ!」と警報の如く叫びを上げながらばさばさとそらへ飛び立っていく。


 夢叶の背筋に嫌な緊張が走った。鬱蒼うっそうとした濃い緑が立ち並ぶ草木を両手で懸命に掻き分け、募る焦りから一向ひたすらに足を動かす。束の間、眼前に広がったその光景に、夢叶が声を震わせた。「あやと、くん……?」


 特徴であるうつくしい桃色の髪には、真っ赤な鮮血がへばり付いている。頭部や腹部から流れる多量の出血は、地面に歪な血溜まりを描いていた。俯伏うつぶせに倒れている綾杜の呼吸は酷く浅く、骨折したばかりの右腕は、通常では無い方向へと折れ曲がっている。

 途端に青褪め駆け寄った夢叶が、深手を負った身体に両手をかざそうとする。と、「やめろ……」と地面から掠れ声が響いた。その言葉に綾杜の身体へ伸ばし掛けていた手がぴたとまる。


 ——逃げる術を体得する間。そして夢叶を狙う奴の問題が無事に解決するまで、花夢癒はなむゆを扱うことを禁止する。

 ——自分の信念を取るか、他の生命いのちを救うのかよく考えて選べ。前者を選ぶからには後者は捨てろ――その覚悟が無ければ教えることはできない。

 ——条件を必ずまもる。だからどうか、私に逃げる術を教えて下さい。


 以前綾杜との間で交わされた約束が脳裏を過ぎる。ぎゅっと眼を瞑った夢叶は、苦悶の表情を浮かべながらも、中途半端に伸ばしていた手を戻した。全身が真っ二つに引き裂かれるような感覚が夢叶を襲う。


「……それで、いい。再生には時間が掛かるが、生命いのちに関わるほどじゃない……だからそんな、ひよわな顔をするな」

「綾杜君っ……」


 大怪我を負っているにも拘らず気遣いを見せる姿に、夢叶の心胸こころが更に軋んだ。眼頭めがしらに込み上がる熱を何とか振り払っては、「今すぐ誰か呼んでくる」と急ごうとする——と、背後で枝をぱきっと踏む音が聞こえた。


「悪いけどそれはさせないよ」


 息を呑んだ夢叶が勢いよく振り返ると、服や身体にある血を拭っている一人の男が立っていた。短髪の黒髪や整った面貌は何時いつもと変わらない。だが今の彼に、常日頃の爽やかさは欠片かけらも無い。恐ろしいほどの静けさだけが漂っている。口内から水分がうしなわれていく感覚を覚えた夢叶が、「椿君……」と震える声をこぼす。


「桃也君、いや、綾杜君の言う通りだよ。生命いのちに関わるような怪我は負わせていない」

「どうしてっ……友達なのに、ファミレスで一緒に笑いながら過ごしたのに……」

「……友達か。友達だったらこんなに酷いことはしないよ。ごめんね夢叶ちゃん。酷いついでに君はこのまま、僕に連れ去られてもらうよ」


 血を拭った手を椿が夢叶へと差し出す。どうやらそれらは、すべて返り血のようだ。椿の身体に怪我などは一切見られない。今の椿には、以前明希人に深手を負わされた姿は微塵も感じられない。夢叶はじりと身を後退させては、綾杜を庇うように両腕を広げた。

 今この場で閃耀せんようを使い、一時的に遠くへ逃げ、誰かを呼ぶこともできないことは無い。だが大怪我を負った綾杜をこの場に一人残す選択肢は夢叶には無かった。そして「連れ去られてもらう」という言葉が引っ掛かった夢叶は、少なくとも今自分は、椿に酷いことはされないのではないか、という一種の期待が胸を掠め、この場を動けずにいた。


「大人しく従う……だからその代わり、綾杜君にこれ以上酷いことはしないって約束して」

わかった。理性的な判断をしてくれて助かるよ。綾杜君のことはちゃんと約束しよう——じゃあ大人しく、此方こっちへ来てもらおうか」


 後ろ髪が引かれる思いで立ち上がると、痛々しい綾杜の右手が、彼女のジャージの裾を僅かに掴んだ。その指先は何かを訴えるように微かに震えている。


「大丈夫だよ……ちゃんと帰ってくる。約束する。だから綾杜君は自分の身体を一番に考えて大切にして」と言うと、力をうしなったように、その指先が離れた。足先から消えた微弱なそれに、夢叶が一瞬動きをめる。然し振り返ることなく、強く唇を引き結んだ。


「あ、そうだ夢叶ちゃん。は此処に置いていってね」

「何言って……」

「何って、そんなの銀の髪飾かみかざりに決まってるでしょう。とぼけたふりしても駄目だよ。あの晩みたいに妖装ようそうを介して綾杜君を呼ばれるのは厄介だからね……右ポケットに入ってるそれ、今すぐ地面に放ってもらおうか」


 ジャージの右ポケットに膨らむそれを指摘した椿が、何時になく冷ややかな眼差しを流す。妙な威圧を発する声色と表情に唾を呑んだ夢叶が、ポケットから取り出した銀の髪飾を素直に地面へ落とした。鈍い音を立てて転がったそれは、負傷した綾杜の傍へ着地する。夢叶は恐る恐る椿へと歩み寄った。


「じゃあ行こうか」

「何処へ?」

「君が知りたいことは、そこへ行けばすべわかるよ」


 明確なようで曖昧な言葉を述べた椿が、金色の双眸をかくすように片手をかざす。空いているもう片方の手で親指から中指を静かにこすり付けた刹那。夢叶の身体はふわっと浮上し、舞い上がった風が金糸の髪を靡かせた。視界が急に暗くなり、夢叶の意識が遠くなっていく。不思議な感覚へ身を委ねる中、夢叶の耳朶を飾るイヤーカフが微かに煌めくのだった——。



 あれから一体、どのくらいの時間が経過したのだろうか。


 覚束無い感覚で、茫然ぼんやりとした意識のまま瞼を持ち上げていくと、自分が何処かに座っているのがわかる。ふと、明るくも暗くも無い白が金色の眸に映った。ゆっくりと上まで睫毛を持ち上げると、眼の前には白い景色が広がっている。そらも地面も白い。果てしない白が広がるそこはまるで、昼夜や時間といった概念が存在しないかのようで。眩しくも無ければ風も無い、無機質な世界が広がっている。


 視界の隅で何かを捉えた夢叶は、徐に顔を持ち上げそらを見た。よく見ると、そらから白薔薇の花が下へ向かって所々に咲いている。この空間があまりに無機質なせいだろうか。夢叶はその白薔薇をうつくしいとは素直に想えなかった。寧ろ何故か虚しく、そして哀しく感じられた。


「眼が醒めたみたいだね」


 突然聞こえた声に、すぐさま顔を正面へ向ける。そこには何時いつから居たのか椿が立っていた。眼を瞠った夢叶が身体を動かそうとすると、手首と足首が天から降りる白薔薇のつるに巻かれ固定されており、少しも身動きが取れない。強く巻かれてはいないため苦しくは無いものの、下手に動けば蔓にある棘が肌を突き刺す恐れがあった。じわりと逸る鼓動が警鐘を鳴らす。


「此処は一体何処なの……?」

「妖術で造り出した特別な空間だよ。もちろん綾杜君は回復したら急いで君を探すだろうけど、容易には見つけられないし、見つけたとしても此処へ簡単に侵入することは出来ない——まあ、この空間を造り出したのは僕じゃないんだけど」

「じゃあ一体誰が……」


 口角を持ち上げ淡々と話す椿に、戸惑いの声を上げた夢叶が双眸を揺らすと——「月雪さん、僕だよ」。


 聞き覚えのある声に、思わず顔を右へ逸らす——パーマがあてられた栗色の髪に、トレードマークの金縁円眼鏡。その奥から覗く涅色くりいろの眸——どっどっどっ、心臓がひやりとした汗を流した。


「風間、先生……」


 小さな声が白い空間に響く。

 飄々と夢叶の正面にやって来た男は、その名前を呼ばれた瞬間、くすりと口角を持ち上げた。


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