Can't break away from your spell(22 呪文)

 恋人と別れた夜、友人を喪った夜、取り返しのつかない過ちを犯した夜──数多くの嘆きと憂いに満ちた夜の中で、一等普遍的かつ手軽な幽愁を味わえるのは水曜日の夜だろう。


 週初めのなけなしの気力はすり減っているのに、週末はまだ遠い。二日しか経っていないのに二日も残っている。行くも帰るもただただ辛い。

 そんな怠さのかたまりのような夜に夕食を済ませ、皿を洗い、台所を片付け風呂にも入り髪まで乾かした。これはそれなりに褒められてしかるべき行状ではないだろうか。

 日常の雑務という苦役を片付けた報酬のように煙草に火を点ける。換気扇に吸い込まれていく煙はいつものように薄暗い台所の中で一際白い。


「えらいな、家事あらかた済んでるなんて。もう寝るだけだろ」


 いつの間にかシンクの縁には生首が乗っていた。

 口元には火の点いた煙草がある。いつもながら手も足もないのにどうやって煙草を点けているのかというのは気にはなるが、何となく聞くのをためらってしまう。ひどく個人的プライベートかつ私的プライバシーな気がするからだ。兄のそういったところに踏み込むには、それなりの覚悟がいる。


「どうよ大学」

「ん、普通。単位も取れてるし、いいことも悪いことも何にもないよ」

「そうか」


 会話の切れ間に煙が上がる。換気扇の照明がじりじりと微かな音を立てている。


「『 "ポップ、オップ、月並派、大いに結構"』から始まるんだよ」

「は?」

「世界一長い絵画のタイトル。聞いたことないか」


 当たり前に知らなかったので、素直に首を振る。

 兄は細い煙を燻らせながら続けた。


「待て、俺も全部は覚えてなくって……『ミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空は、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである』で、タイトル」

「全部じゃないのそれ」

「後半。昔知り合いに教えられて、そいつは全部覚えてたんだよな。よくこんな呪文みたいなの覚えてんなって呆れたんだ」


 笑声交じりに煙を吐いて、兄は右目だけをきつく細めた。

 この生首は出所も使い道も分からないようなことをよく知っているが、一体これまでどういう生き方をしてきたのだろう。

 雑談として口に出すには重た過ぎるだろう。喉につかえたものの代わりに煙を吐き出す。

 煙草の煙で溜息や愚痴を誤魔化せると知ったのはいつだったか。シンクの縁に乗ったまま、兄も咥え煙草から煙を燻らせている。換気扇に飲まれる前の煙──自分の吸っているものとは違う──が、鼻先を掠めた。

 兄の煙草の匂いも最近覚えた。父が吸っていたものと同じだ。煙草の銘柄は分かるのに兄の名前は知らないのだなと思った途端に、胸に煙が詰まったような気がして何度か咳き込んだ。

 兄は咳き込む俺に視線を向けてから、


「ところでお前ね、戸締りとかちゃんとした方がいいよ」

「してるよ」


 生首連中には易々と侵入されているのが不思議ではあるが、きちんと鍵はかけている。在宅時でもチェーンまで掛けているくらいには臆病だ。その気になればけ破られるようなドアかもしれないが、できることぐらいは尽くしておきたいという小市民じみた習慣のせいもある。

 兄は一瞬だけ目を伏せてから、すぐにいつもの世間話のような調子で続けた。


「うん、それならいい。最近廊下にいるからな、ぶつぶつうるさいの」

「いるの? うるさいのが?」

「掃除の人とか管理業者とかって可能性もあるかもしれないけどな。ただほら、そう思うにも確証がないから」


 予想だにしなかった告白に、灰を叩いた煙草を指で挟んだままでしばらく立ち尽くす。


「侵入者なら……シンプルに変質者って可能性の方が大きくない?」

「最初は俺もそう思ったんだけど、でもちょっと違うなって」


 兄は一度短く息をついてから、


「だって今お前何にも聞こえないだろ?」


 俺へと向けられていた視線が、ゆっくり背後のドアへと移る。

 煙草を咥え直して、首だけを向ける。

 何も聞こえない。

 換気扇の唸りと自分の息遣い、居間で点けっぱなしにしてきたテレビの嬌声。それ以外は何も、聞こえなかった。


「ま、聞こえないなら気にならないだろ。じゃあいい。悪かったな余計なこと言って」

「うん……」


 聞こえないとはいえ、そんな訳の分からないものが扉一枚隔てた向こうにいるというのはそれなりに恐ろしい──しかも何事かを呟いているというなら尚更だ。

 兄は明らかに顔色を失くした俺の方を見上げてから、


「言っといてなんだけど、大丈夫なんだよ。今聞こえてないって言うなら、これ以上は直に会いでもしなけりゃ問題ない。呪文だって正しく届かなかったらただの雑音なんだから」

「そもそも呪文なの、ぶつぶつ言ってるやつ」

「呪文つうか呪詛つうか……まあ、相手に聞こえない悪口なんて意味ないからな。聞こえなくて見えないものなんかないのと同じだろ。じゃああれだ、無価値だろそんなもん」


 いくら呪詛を、呪言を連ねようと対象に届かなければ意味がない。

 出さずに戸棚にしまった恋文が読まれないのと同じだ。どれほど言葉を尽くして窮状を訴えようが、適切な窓口に提出しなければ手続きは一向に進まない。まずは正しく認識され事象として成立することで、全ては始まるということだろう。聞こえない悪口と見えない敵意に何ができるというのか──兄の言う通りだ。

 ただそう主張する生首自身が兄だという一言だけで俺の元に転がり込んだのだということを思うと複雑な気分になる。あの乱暴な主張が最適かつ適切なものとして処理される状況というのはどういったものなのか。自分のこととはいえ、まともに考えると目眩がしそうになる。


 溜息交じりに吐き出した煙はすぐに換気扇に吸い込まれていった。


 兄の口元に咥えられた煙草が僅かに燃え進む。灰を器用にシンクに落としながら、黒い目が確かに俺を捉えた。


「だからな、怖がらなくていい。兄ちゃんがいるうちは、あいつら何にもできやしないんだから」


 この話はここまでだと、そう区切るように紫煙を吐いて、兄は口の右端だけを吊り上げてみせた。

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