赤い花を愛でたのに、後ろを見ずに去ったのに(18 椿)
切らした煙草を買いに出た帰り道、目の前にぼたりと何かが降ってきて、足を止めた。
弱弱しい夕日と湿った夜が滲むアスファルトの上には、赤い花がごろりと落ちていた。
赤々とした花弁と中央の濃い黄色から、椿だろうと見当をつける。
見上げるとコンクリの無骨な塀の上から花と艶やかな緑の葉を生やした枝が突き出していた。
ぼろりと目の前で一輪が枝から降る。寄り添うように落ちた二輪の花は枝に咲いていたときと変わらず、凛とした花の姿を保っている。
ざらついた路上と夕闇の中でも、花はただ烈しい赤色のまま咲いている。
自分でも珍しいとは思うが、スマホを抜いて構える。微かなシャッター音は風に紛れて消えた。
写真を撮ったのは、兄にも見せてやろうと思ったからだ。こんな都会の道端で、お手本のような『風情ある光景』に出会えたことが何となく嬉しかった。俳句と短歌の区別が日によって曖昧になるような俺でも、美しいものを愛でたり讃えたりする程度の感性はある。
いいものを見たと俺は花の傍らを通り過ぎ、帰路を急いだ。
***
「生け花を髪に挿すと、母が早く死ぬってのは聞いたことある」
帰路で見かけた椿の話に対して、
以前から薄々思ってはいたが、出してくる話題の種類が風流というより悪趣味に振れている気がしてならない。話の腰を折るわけでも要点を外しているわけでもないが、何となく不穏な気配を帯びた話ばかりが出力される傾向がある。生首という存在自体が猟奇の色を帯びているからというせいもあるのかもしれないが、いかんせん俺には比較すべき他の生首についての知識がない。
「椿の花が綺麗でしたって話をして、その嫌小話を出すの」
「嫌小話っていうか俗信だった気がするんだよな。結構派生もあるぞ、風呂場だかで頭洗ってる最中に花の落ちる情景を想像すると、お化けが出る」
「それあれじゃん、風呂場でだるまさん」
「言われればそうだな。あれも息が長い怪談だけど……」
生産性のない雑談をしながら、買い足した煙草を台所で吸っている。
兄もどこからか調達したらしく、シンクの縁に器用にバランスを取って煙を上げている。
兄は一度派手に煙を吐いてから、俺の方を見上げた。
「でもさ、早かないか」
「何が」
「椿、あれ冬の花じゃなかったっけ」
「そうなの?」
「冬椿とか落椿、冬から春あたりの季語だった気がする」
どこでそんな知識を仕入れてくるのだろう。俳句を詠む生首というのもなかなかの代物のように思える。句会だなんだと生首が集まって句を詠む風景を想像しても、風流なのか悪趣味なのかの境目が俺にはよく分からなかった。
兄は灰をシンクに落としながら、微かに眉間に皺を寄せている。
「十一月でも……まあそろそろったら気の早いのは咲くだろうけど、今年暖かいからな。落ちるのも早い気がするんだよな」
ぐらぐらとシンクに落ちないぎりぎりで頭を揺らしながら、兄は続けた。
「あとお前の話で気になったのはさ、このアパートの近所にそんな立派な椿の木植えてるところなんてあったかってとこなんだよな」
「そこ疑うの?」
「だってお前ここに住んで三年だろ。それで今年初めて見たの?」
「今年植えたんじゃないの」
「まあそれなら……いいかもしんないけどさ」
俺が嘘をついたとでも言いたいのだろうか。ただそれならここまで歯切れの悪い物言いをするとも思えない。兄の趣味は悪いかもしれないが、そこまで性根がねじ曲がっているとも思いたくない。
「でも俺写真撮ったよ。つうか兄さんに見せようと思ってたんだよ」
「あ、そうだったのか。写真撮ってんなら話が早いな」
明るい兄の声を聞きながら、片手でスマホを操作しつつアルバムを起動する。
最新の位置にあるサムネイルに、女の首が二つ写っている。
べっとりと赤い唇は鎌の刃のように歪められ、真っ黒い目はそれぞれにこちらを見ていた。
咄嗟に画面を床に向けた。
見せるのも言及するのも恐ろしく、どうにか取り落とさずに済んだ煙草を必死で吹かす。
兄は口元からゆるゆると煙を上げながら、雑談を続けた。
「そういやさ、椿の花を嫌がる人ってたまにいるんだよな。ご年配の方だと結構見る」
「……どういう理屈で」
「不吉だから。花がまるごと落ちるから、首が落ちるみたいで嫌なんだって」
道理が通るようで納得がいかないことを言われて、俺は兄の顔を見る。
兄は咥え煙草のまま、横目だけをこちらに向けた。
何も言わない。咥えた煙草の先端は、ただ赤々と燃えている。
吐かれた煙が換気扇に吸い込まれるのを見ながら、俺は急いで画像を削除した。
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