暗いところに何かいる
水瀬蛍
第1話 家にいる
僕の家は築50年が過ぎたボロアパートだ。駅から近くコンビニも歩いていける距離にあるので好立地な筈なのだが周りに人気がない。
車も通らないので住むには快適だ。
隣人のトモリくんの家に酒を片手に押し掛けると、仕事帰りらしいトモリくんは疲れた様子の顔をぎゅっとしかめながらも僕を追い出しはしなかった。
トモリくんは僕の隣の部屋に住んでいる男の人だ。職業を直接聞いたことはないがいつもスーツを着ているので恐らくサラリーマンだろう。いつも喪服みたい黒いスーツを着ている上にくまが目立つ顔はいつも不機嫌そうなので毎日葬式帰りに見える。
顔は不機嫌で、口も悪いがトモリくんは優しかった。
僕が持ってきた酒を二人で開け、他愛ない話をしている時にふと浮かんだ疑問を口にした。
「ねぇトモリくん。どうしてうちのアパートには人気がないんだろう」
ごくり、と酒を嚥下したトモリくんが口を開く。
「事故物件だから」
「え?!」
「事故物件なんだよ、ここ」
知らなかったのかと言われ頷く。初耳だった。
「事故物件って、一体何が……」
「それは教えない。お前こういうことに関してはうざいし」
思わず身を乗り出した僕の鼻をトモリくんはぴしゃりと叩いた。
僕は昔からオカルトが大好きだった。そして一度気になると確かめなくては満足できない性格なためよく心霊スポット等にも行っていた。
それで何度かひどい目にあっているのだが、それでも好奇心というものは消えない。
「何があったか聞くだけ。変なことはしないから。小説がちょっと行き詰まってて、それで」
「お前の小説はいつも行き詰まってるだろ」
切って捨てる様な物言いにぐうの音も出ない。
僕は売れない小説家だ。自分で売れないと言うのは謙遜に聞こえるかもしれないが、実際に全然売れていない。学生の時に文学賞に応募した小説が偶々賞をとり、とんとん拍子でプロになったのだが、そこからは駄目だった。
そして売れないとなると筆も進まない。いつ契約を切られるかわからない焦りと闘っている内に僕の中からアイデアが消えていってしまった。
なので、今は兎に角ネタが欲しい。
僕は顔に力を込めてトモリくんを見ながら懇願すると、今度はあっさりと承諾された。
「もう終わったことだから話しても問題ないだろ」
「ほんと? いいの?」
「ああ。ただ小説とかにはおこすなよ。メモもやめろ」
僕が了承すると、トモリくんは話し始めた。
ここで何があったのか。
それは、十年以上前のこと。
一人の女が一階の一番奥に入居した。女の素性はわからない。分かっているのは性別。年齢は恐らく二十代以上。それだけ。何のためなのかはわからないが、女が入居するときに使っていた名前は偽名だった。それ以前に入居時に提出した書類全て偽物だった。
入居時のやりとりは全て不動産を介し行われ、大家さんは女に会っていないので顔を覚えている人間もいない。
女を案内した不動産屋の人間はここで事件があった後に失踪した。何でかは知らない。女と直接会ったせいか、それとも別の理由かわからないが、何かしら障りが出たんだろう。
それは今はいい。本人の行方がわからないから何とも言えない。
女が入居してからこのアパートでおかしな事が起こり始めた。
このおかしなことを経験したのは当時アパートの二階、外階段を上がってすぐの部屋に住んでいた学生だ。
これは、学生が体験した一部だ。
最初は家鳴りなどの小さな事だった。
みし、みし、と家が軋む。最初にその音を聞いた時には古いアパートだから家鳴りぐらいするだろうと別段気にしなかった。
ここは駅からも近く便利が良いのに家賃が安いので古さなど目を瞑れる。そう思って住み続けた。
ある日、人の気配を感じた。
部屋の外に誰かいる。そんな気配を感じた。恐る恐るドアスコープを覗いてみるが誰もいなかったので、気のせいだと思うことにした。
ある日、外で物音が聞こえた。
ぱたん、だか、ばたん、だか何かを運ぶような音だ。入居しているのは学生だけではないので、誰かがアパートの外で何かしているのだろうと気にしなかった。……ただ、音が聞こえてきたのが深夜だったのは多少気にした。
ある日、外で足音がした。
これも深夜だった。アパートの前を歩き回るような音。誰かが帰ってきたのかと思ったが、それにしてはアパートに入る様子がない。ただただアパートの前を歩き回っているだけのようで、何をしているのか気になったが、少し気味が悪かったので見に行かなかった。
ある日、階段を上がって来る音がした。
とん、とん、とん、と階段を上がる音で目を覚ました。寝惚けた頭で別の入居者だろうと思ったが、すぐに二階に住んでいるのは自分だけだと気が付いた。深夜に鳴り響く足音に少し怖くなりイヤホンを耳に突っ込んで眠った。インターホンがなったかは、わからなかった。
ある日、ノックの音が聞こえた。
こん。こん。
それも深夜だった。誰か訪ねてくる予定はない。時刻は深夜の二時でそんな時間に訪ねてくる相手はいない。もう一度ノックが聞こえた瞬間イヤホンを耳に突っ込み布団に潜った。
だんだんと異変は酷くなり始めたが、彼は誰にも相談ができなかった。大家に相談しようかと思ったが苦情と取られたくなかった。アパートに住み始めて一年以上たっていてこんなこと一度もなかったので、原因がアパートにあるとは思っていなかった。友人にはオカルトチックなことを言うのは憚られた。
だから、気のせいだと思うことにした。
しかし、事態は更に酷くなり、気のせいなどでは収まらなくなった。
ある日から、女の笑い声や呪文のような言葉が聞こえ始める。
ある日から、空室の筈の隣室からの足音が聞こえ始める。
ある日から、深夜に扉を激しくノックされ、扉を開けようとして来た。
ある日から、歯軋りのような音が聞こえ始めた。
ぎちぎちぎち、と気味の悪い音が部屋中に響く。
大家にそれとなく聞いてみたが、大家には聞こえていなかった。
ある日、何かの気配を感じた。
学生が目を覚ますと「それ」が見ていた。「それ」は窓に張り付き部屋の中をじろじろと見て、何かを探しているようだった。
俺を探しているんだ。
そう思い、その晩は起きていると悟られないように布団の中で震えながら過ごし、朝が来た途端家を出て、その後すぐに引っ越した。
学生曰く「それ」が何だったのかは分からない。
ただ途轍もなく恐ろしいものだったらしい。
事件が起きたのは、学生が家を出た次の日だった。
生臭さと鉄が混じったような異臭を感じた大家が、女が借りている部屋を訪ねると中で女が無惨に死んでいた。
大家曰く、最初はトマトか何かをぶちまけたと思ったらしい。しかしすぐに臭いで、それがトマトではなく女の血肉だと気がつき、呆然としたまま何とか警察を呼んだ。
女の死因は分からなかった。女の体は原型を留めておらずどうやって殺されたかなどわかるはずもなかった。
これが事件の詳細。
「それで、その女の人は一体なんで死んじゃったの?」
とんでもない話を耳にした興奮と、それが自分が住んでいるアパートで起きたことへの不安感を覚えながら聞くとトモリくんはあっさりと首を傾げた。
「さあ」
「さあって……わからないの?」
「そりゃそうだろ。これは俺が入居するは前の話だし、当事者の女は死んでんだから」
「確かにそうだけど……」
まるで謎だけ提示されて答えがないようだ。
答えもなければほとんどヒントもない状態だが、何か考察できないかと頭を捻る。
「うーん、その女の人そのものが幽霊だったとか?」
「肉片がある幽霊がいるか? 人間だったのは間違いない。普通の人間かどうかはわからないが」
「どういうこと?」
「……たまにいるんだよ、普通じゃないのが。女もそれだった可能性はある」
「ふうん、普通じゃないから怪異を呼び寄せてしまった、ってこと?」
「それか、女が怪異をわざわざ呼んだか」
その時、外から妙な音が聞こえてきた気がした。
何かが軋むような音。
普段なら古い家だから些細な音など気にしないのに話を聞いた後だと過剰に反応してしまう。
びくりと体を跳ねさせ音の出所を探ろうと耳を澄ますと、また音が聞こえてきた。
ぎち、ぎち、ぎち。
歯軋りのような音だ。
そう思った途端、さっと顔から血の気が引いた。
先ほどトモリくんから聞いた学生が体験した怖い話の中には、歯軋りのような音が聞こえてきたというくだりがあったからだ。
話を聞いた後だから別の音が歯軋りの音に聞こえてしまっている可能性はある。しかし、僕はそれが歯軋り以外の音には聞こえなくなってしまっている。
また、音がした。
そして、その音がどこから聞こえてきているのか気が付いた。
窓の外だ。
カーテンで外の様子は見えない分、頭の中で嫌な想像が広がっていく。
学生が目にしたという「それ」が窓に張り付き、部屋の中を覗き込んでいる。そして、「それ」は僕らのことを見つけようとギョロギョロした目を――。
「大家は奇妙な音を聞いていなかった」
トモリくんの声にはっとした。
窓の外には何の気配もない。さっきの目がギョロギョロした化け物は僕の想像に過ぎない。
「学生だけが奇妙な音を聞き、それの標的になっていたのなら、逃げ出した後に女が殺された理由は想像できる」
「な、なに?」
「餌が逃げたから、空腹に耐えかねたそれが女を食った。それか食べものを提供すると約束したのに餌がいなくなったから、約束を破った女を食った。そんなところだろ」
学生が餌食にならなくて良かったと喜ぶべきところだろうか、僕は自分の顔がひきつるのを感じた。
「女が何でそんなことをしたのか、女を食ったものが何だったのかは謎のままだな」
「そっか……」
トモリくんの話を聞きながらあることがずっと気になっていた。
「あのさ、女の人を食べたそれは一体どこに行ったの?」
満腹になり消えた、もしくはどこかへ行ったのなら良い。そうでなかったとしたら――。
トモリくんはふっと口許を歪めて笑った。
「さあ、案外まだ近くにいるのかもな」
その言葉に、ぎち、ぎち、と再び歯軋りのような音が聞こえてきた気がしてぞっとした。
しかし、窓の外を見ても何の気配もない。カーテンの向こうは沈黙している。何もいないことにほっと安堵の息を吐くと、トモリくんが肩を震わせている事に気が付いた。
「か、からかったな」
「まさか本気にするとは」
「だって、トモリくんが本気っぽく言うから……」
「じゃなくて、ここで起きた怪異のこと。全部本当のことだと思ったんだろ?」
トモリくんがにやりと笑った。
「ま、まさか、全部、うそ?」
トモリくんがくっくっと声を殺して笑うので、からかわれただけという事を察した。本気だと信じていた自分が恥ずかしくなった。
「ひどい! あんまりだ!」
「悪い、まじで信じるとは思わなかった」
「だってリアルだったんだもん」
そうだ、あまりにもリアルだった。僕なんかよりもよっぽど小説家に向いている。
「じゃあ事故物件っていうのも?」
「そんなこと俺が知るわけないだろ。お前と入居日そんなに違わないんだから」
確かにそうだ。
トモリくんが入居したのは僕の三ヶ月前だと聞いている。トモリくんが十年前にあった事件の詳細を知っているわけがなかった。
どうやら本当にからかわれたらしい。
はぁと大きくため息を吐くと、飲みかけの酒に手を伸ばす。トモリくんの話に夢中で殆ど手をつけていないので、まだたっぷりと残っている。
酔いがすっかり覚めてしまったので、頭を切り替えたくぐっと酒を飲んだ。その時、不意に視界の端に何か映った。
あれは、なんだろう。
大きくて、丸っぽい、まるで歯のような――。「それ」が窓の外に張り付いてこちらを見ている。
僕はさっと視線を外した。
窓の外に何かがいた気がしたが、きっと気のせいだ。だってトモリくんは全て嘘だと言っていた。
きっとがぶ飲みしたから酔いが回ったのだろう。そうに違いない。
だから、きっと今聞こえている歯軋りの音も気のせいだろう。
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