bye bye black Lake
「何色が好き?」
「黒」
「何故?」
「奇麗だから。想像してみて,針葉樹に囲まれた湖と,その上を滑る流線型のカヌーを。どう?」
「あなたって……」
気付けば目の前の浴槽にはなみなみと湯がたまっていた。体を洗浄する目的なら今や湯船に浸かる必要はないのだが,心の健康を保つ方法として入浴は一般的である。ゆっくりと湯船に入ると湯が少しこぼれて,やがて落ち着いた。
もしあの日,L の問いに「黒」と答えていたならば,彼女は何と答えただろうか。いま L に同じ質問をしたら何と答えるだろうか。
私はそうやって答えのない問いを自分に課し続け,わからない自分を装いつづけている。湯船に顔を沈めると,薄青色の水は勢いよくあふれ,無色透明な滝となって排水溝へと消えていく。足し湯。おいだき。黄と赤のランプが点灯する。
「こんばんは,R,体調は大丈夫?」
L が先程同様ホログラムで現れた。彼女は椅子に座り,机の上に積み重ねられた何かしらの荷物の奥から私を見つめてきた。
「おかげさまで。お風呂なんて久しぶりに入ったから,長湯しちゃった。Lは大丈夫?いますごく忙しいんじゃない?」
「ふふん,ハチャメチャに忙しいよ。でも今日の最大の功労者は R だから」
「そうかな。ねぇ……」
L にとって学問は,追い求めるべき深淵であり,目的だった。少なくとも,高等教育機関で再会した時点ではそうだった。彼女はいつも魅惑的なほどに鋭い黒さの眼で,私のほうを見やっていた。だけれども,今の彼女にとって研究は手段なのだ。
「いや,なんでもない」
それから他愛もない世間話を少し続けて,通話は切れた。
「L ,今は何の勉強をしているの?」
「量子光学っていって,光の性質について研究する学問なんだけど,こういうのRも興味あるんじゃない?」
「そうなの?私はあまり数学は得意じゃないんだけど……」
「光は波と粒子両方の性質をもっているの。それで,その波の方向が一方向に定まった光を偏光といってね……」
学生時代,L は頻繁に私のもとを訪ね,レポート作成を期日までに終えられるように自身を監視することを求めてきた。そしてその度に関係ない話をして時間を浪費したものだった。
「その,量子光学はどんなことに役立つの?」
「レーザー」
「うん。……うん?」
彼女にとって,それが役に立つかどうかは二の次であり,おもしろいかどうかが評価基準だった。それが変わったのは,私が課程を終えて先に卒業し,就職することが決まったタイミングだと思う。
「 L ,今は何の勉強をしているの?」
「人体デジタルツインっていう技術。もうすぐ実用化される転移装置を改良するのにきっと役立つと思って!」
「へー。あの L が真面目に勉強しているなんて,感心しちゃうな」
「なに?馬鹿にしてるの?私だってやるときはやるの。目標ができたときは突っ走るタイプだから」
「ふふっ。知ってる」
Lの瞳は私の目をまっすぐに捉えていた。初めて見る,澄んだ瞳だった。
「ソフォモアの時に論文仕上げておいて良かったじゃない」
「だからっ!」
広義の科学者として,彼女が人体デジタルツインという技術を使うことで何をできるのかは分かった,でも,わからないふりをした。
「……R ,卒業しても連絡を絶やさないでね。独りで勉強するのはつまらないから」
「……うん,もちろん」
私は彼女の寂しさを埋められるほど頻繁には連絡したり会いに行ったりすることができないと考えていた。そして Lもそれは理解していただろう。
「じゃあ,またね」
「うん,ばいばい」
31日,神無月,22XX年,物理・数理学者 L が発展させた人体デジタルツイン技術を導入し,従来より安全かつ効率的な転移を可能にしたテレポーテーション装置「Runsfert」の実験成功が発表された。人体デジタルツインの導入にとっての最大の壁である生体プライバシーに関する議論は,L のプライバシー保護に関する具体的な提案のおかげで鎮静化された。
一方でこの日は人類にとって初めての,完全に生体情報の同一な存在,スワンプパーソン*誕生の日でもあった。スワンプパーソン,被験者 R’ は世間から秘匿され,研究所内でもごく一部の者を除きその存在を知ることは許されなかった。彼/女らにとっての議論の争点は,”whether R' is conscious"(R’に自我があるかどうか) だった。
だがその目標が達せられることは無かった。
翌日,被験者 R ,R' は図ったように同時に姿を消していたのである。
注釈
*スワンプパーソンとは,スワンプマンのマンを中性名詞パーソンで置き換えたもので,私が作った造語。ファイアーパーソンやオンブズパーソンと同じだがこういう言い方をしている人には出会ったことがない。そもそもスワンプマンが話題に出ることなどない。
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