第七話 波乱を報せる北の風
その日――、
室内は質素で、
「――
「お
「道三の娘が明日、この尾張に
「お館様、これは
お館様と呼ぶ相手に、男は力なく答えた。
「わしはもう、お館様ではないぞ?
「いいえ、頼芸さまは美濃の正当な主にございまする」
美濃守護大名・
しかし天文十年、重臣の斎藤道三が頼芸の弟・頼満を毒殺する事件が起こり、これ以降は道三との仲が険悪となり、次第に対立することになった。
それから一年後、頼芸は子の頼次ともども道三により尾張国へ追放された。
そして、またも頼芸は追放された。彼が身を寄せたのは妹の嫁ぎ先である、この近江国である。
「如何するつもりじゃ?」
「その愚かな男がなにゆえ我らに報せてきたのか――」
頼芸は、視線を書状に戻した。
美濃と尾張の和睦――、その証しとなる道三の娘の輿入れ。
まるで襲えと言わんばかりの内容に、頼芸は口の端を緩めた。
「自分の手は汚さず策を
「我らも手は汚さず、他の者を使いまする。蝮も人の親、娘可愛さに稲葉山城を出て参りましょう。そこで道三を討つのでございます」
「――この男の狙いもそこにあるようだの」
確かに道三が亡くなれば、頼芸が守護に返り咲けるかも知れぬ。策に綺麗汚いもない。これが、戦国の世なのである。
主君だとふんぞり返っていても、いつ誰かが裏切るかわからない。
まさに頼芸が、臣下筋の道三によって美濃から追われたように。
――道三、そなたもいずれはその首を狙われる。身近な者によってな。
書状の記された送り主の名にふっと笑い、頼芸はそれを
「お館様」
「よかろう。ただし、織田、斎藤両名に知られてはならぬ。慎重にことにかかれ」
「はっ」
家臣の男は、深々と低頭した。
◆
白一色の雪天を、
凍えるような北風を真っ向に受け、時には
広い空を、誰に
斉藤新九郎利政――、またの名を道三。
一介の油売りから、下剋上によって美濃の主となった男。その半生は決して綺麗なものばかりではなかったが、彼らはまだなすべき野望がある。
「父上、今回の和睦、
稲葉山城天守から広間に移った道三は上段の間に座った。そんな前に座った人物は、道三に対して激しく抗議をした。
「まだそのようなことを申しておるのか? そなたは」
「織田は、この稲葉山城に幾度も攻めてきたのですぞ!」
「もう決めたことだ。そなたが口を挟むことではない。義龍」
道三はそう言って、話を切り上げさせた。
「申し上げます」
その声に視線を上げると、障子の影に身を潜める忍び装束の女がいた。
「楓か、構わぬ。入れ」
楓は一礼すると、敷居の近くで改めて片膝をついた。
「殿――、国境に不穏な動きがみられまする」
「不穏な動き?」
「野盗の類かと思われますが、この時期に現れたのが気になりまする」
これに対し、これ幸いと義龍がまた吠えた。
「父上、やはり思った通りでございませんか!? 織田の罠です。我が美濃を狙っているのです! 父上」
義龍の言葉に、道三が彼を
「義龍。そなた――、いつからこの美濃の主となった?」
「ち、父上……っ」
道三に睨まれて、義龍の顔から血の気が引く。
確かに義龍は道三の嫡子である。だが『我が美濃』と自信たっぷりに言った言動が、道三は気に入らなかった。
国は決して国主だけのものではない。元油売りの道三だからこそ、それがわかる。彼とて、好んで戦をしているわけでも、主君に
今や蝮と言われる彼にも、まもりたい物があった。この美濃の地に住む万民のため、国を豊かにするという夢を抱いた。
主君殺しと言われようが、それが彼のやり方である。
「下がれ、義龍」
「…………」
義龍は唇を噛み締め、広間から出ていった。
「楓、帰蝶はどうしておる?」
「お部屋に籠もっておりまする」
「アレが、男であれば――」
「殿……」
帰蝶は女なれど、男勝りの性格をしていた。
乗馬や弓、小太刀の使い方などを教えたのは道三自身だが、男に生まれていれば立派な武将となっていたであろう。
「そなたも大変よのう。帰蝶は普通の女子とは変わっているゆえ。しかも此度は蝮と虎の子が夫婦になる。さぞや、面白いことになるであろうの」
蝮と虎――、そういわれた道三と織田信秀、その子らが夫婦になる。
道三はまだ顔も知らぬ娘婿・信長に、ますます興味を抱くのであった。
◆◆◆
信長はこの日も、緋と
山から吹き込む北風は肌をさす冷たさだが、信長はなんのそのである。
この頃の城下の者は彼が、那古野城主であることも織田信長だということも知らない。
那古野城主・織田信長がとんでもないうつけだとは知っているが、その顔は知らないという意味でだ。まさか城主が民に混じり、城下を
ゆえに――
「吉法師」
そう呼ばれて、信長は振り返った。
「よぉ、三助。稼いでいるか?」
三助と呼ばれたのは城下で小銭稼ぎをしているという少年である。
この少年も、信長の素性は知らないらしい。
信長曰く、最初に城下に繰り出したときに知り合ったらしく、勝手に織田家家臣の息子だと思いこんでしまったらしい。
「いや、全くだな。せっかく南蛮船からちょろまかしたってぇのに」
その言葉に、信長に付き添っていた恒興の声が裏返る。
「ちょろまかしたぁ~!?」
声が大きいぞ。勝三郎」
信長に
「まさかと思いますが……、この件に関わってはいませんよね?」
恒興が声を控えめにして聞くと、信長は平然と答えた。
「仕方ないだろう。こいつらだって食って行かなければならん。ま、詳しくは聞くな」
確かに恐ろしい事実を聞かされそうで、恒興は追求するのを諦めた。
「吉法師の知り合いかい? そいつ」
恒興のことを聞かれ、信長は破顔した。
「まぁな。ところで、変わった話を聞かないか?」
「そう言やぁ、三日前から賊が国境を
「賊、ねぇ……」
信長はふんっと鼻を鳴らすと、面白そうな顔をした。
戦のあと、よく行われたのが落ち武者狩りである。
落ち武者狩りとは、百姓が自分の村の自衛の一環として、敗戦により逃亡する落武者を探して略奪し、殺害した慣行である。武将の鎧や刀など装備を剥いで売ったり、金品など得たりしていた。
だがここ最近は、国境で戦は起きてはいない。
「信長さま」
信長の態度に嫌な予感がした恒興だが、信長はもうその気になっていた。
「面白い。久々に大暴れしてやるか」
「おやめくださいっ! 明日は婚礼の日でございます」
そう、明日は美濃から信長の正室となる斎藤道三の娘が嫁いでくる。
「その婚礼をぶち壊そうという連中がいるのにか?」
「ならば他のものにお任せを」
「いや、俺がやる」
「信長さま!」
「政秀の爺や、末森の父上には内緒だぞ? 勝三郎」
こうなると、恒興もお手上げである。
恒興はため息とともに、肩を落としたのだった。
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