第47話 阿呆と詭弁は使いよう
「イナバは、ちゃんと、大人なんだね」
店主に別れを告げ、店を出ると、バイリィは往来を歩きながらそんなことを言った。
あれだけ長いと思っていた異世界の一日だが、今日ばっかりは時間の経過を早く感じた。日は地平線に近づきつつあり、光の暖色が強くなっている。
街と夕焼けの融合を美しいと感じながら、私は言った。
「大人? 私がか?」
あまり恩人を罵倒したくはなかったが、その綺麗な目は節穴かと思った。
私は、どこをどう見ても、社会を舐め腐って現状に甘える腐れ大学生である。異世界転移し、肩書が消えたところで、その甘えんボーイな性根が変わったとは思えなかった。
だが、バイリィはそんな私を大人だと言う。
「そうだよ。だって、ちゃんと交渉してたじゃん」
「交渉なら、君のほうがさんざんしていただろう。むしろ、君の方が手早かったじゃないか」
「全然違うよ。あたしのは、交渉なんかじゃない。話し合ってないんだもん」
私は、本日幾度となく見た、バイリィの取引現場の記憶を呼び起こす。
彼女が懐から符を取り出して渡すと、店側は特に条件を提示することなく、二つ返事で商品を渡していた。
それは、バイリィの符の価値が、とんでもなく高いということを意味する。
「あたしのは、価値の押し付けだよ」
相手との妥協点を探り合うということを交渉と称するのであれば、確かに、バイリィの取引は交渉とは呼べない。
言い方は悪いが、札束で頬っ面を叩いているようなものだからだ。
「君は、そのことに負い目を感じているのか?」
「んー」
バイリィは、角帽から垂れ下がる紐を弄ぶ。
「どうだろ。あたしは、自分の符の出来栄えに自信も誇りも持ってる。そのための努力もしてる。ただ……やっぱ、恵まれすぎてるとは、思うかな」
私たちの目の前を、背中に籠背負った婦人が悠然と横切った。籠は、戦利品と思しき食料品で詰まっている。
その顔は若く、我々と同世代のように見えた。しかし、どこか幼さも残る面影とは裏腹に、その立派な背中は「母」を物語っていた。
バイリィは、そんな彼女を見て、申し訳なさそうに呟く。
「街の、同い年の友達は、みんな、立派なお母さんになってるの。あたしだけ、自分の好きなことだけして、夢を追いかけ続けてる。たまに思うんだ。これでいいのかなって」
「君は、自分の力で食っていけてはいるんだろ? 誰にも頼らず自分で生きているのなら、そのまま夢を追ってもいいんじゃないのか」
「そう。それは、そうなんだけど。なんていうかさ、あたしは、高い符が作れるってだけで、大人になってはいないと思うんだ」
私にとっても耳の痛い話であった。
そろそろ母が自分を産んだ年齢を追い越そうとしているというのに、私は伴侶を見つけるどころか、経済的な自立さえできていない。
これまでは、大学に通っているからという言い訳ができた。
そして今は、異世界にいるからそれどころではないという理由を掲げている。
だが、バイリィは、私のような後ろ盾もなく、己が身一つで、モラトリアム特有のジレンマと戦っていた。
「……たぶん、気づいてると思うけど、あたし、本当はシューホッカの家業を継がないといけないんだ」
「ケンネが言っていた『お勤め』のことだな」
「そ。この街の治水事業ね。今は父さんがいるからいいんだけど、いずれは、あたしがやんないといけない」
バイリィは、街のあちこちに流れている水路の一つに目を向けた。
「でも、あたしは、本当は、世界を旅してみたいんだ。色んなものを見て、色んなものを食べて、色んな作品を作るの。それが、あたしの夢」
バイリィの話を聞いて、高校時代の友人の姿が思い浮かんだ。
彼は私よりもずっと勉強ができて、学習意欲も高かったが、実家の自動車整備工場を継がなければならないと言って、進学を諦めた。
同窓会で会った時、彼の、火傷の跡がついた手を見て、なんとなく、申し訳ない気分になったことを思い出す。
世界も文化も言葉も違えど、今、バイリィの頭にあるのは、そんな感じの悩みなのだろう。
「ねぇ、イナバはさ、どう思う? あたし、このまま夢を追ってもいいと思う? それとも、ちゃんとした大人として、勤めを果たしたほうがいいと思う?」
悲痛、とまではいかないが、葛藤は感じられる目であった。
私は彼女の言葉を、なけなしの誠心誠意でもって受け止めた。
その上で、私は道端に転がっていた建材の石に飛び乗り、ゆらゆらとバランスを取りながら、そして言った。
「知らん!」
本心だった。
「バイリィ。残念ながら、君の目の前にいるのは、救いようのないほどのロクデナシである。モラトリアム青年である。腐れ大学生である」
翻訳できない単語はそのまま日本語で代替しながら、私は熱意の赴くままに言う。
「私は、君のその難解な問に答えることができない。責任を負える立場ですらないからだ。私は将来どころか、来月に迫った家賃の目処すら立てていない愚か者である! ——だが、そんな阿呆の無責任な言葉で良ければ、ひとつ、君に贈ろう」
私はそこで振り返り、彼女を正面から見据えた。
「たぶん、なんとかなる」
その言葉を聞いて、バイリィは呆気に取られていた。
そして、しばらくしてから、ふっと笑みをこぼした。
「なにそれ」
「どうだ? アテにならんだろう。阿呆の言葉とはそんなものだ」
「あーあ。イナバに聞いたあたしが馬鹿だったよ」
「そうだろうそうだろう。君はその時点で、選択を誤っていたのだ」
「結局、あたしが決めるしかないってことかぁ」
「その通りだ。君の抱える二つの道筋は、どちらも正解になりうるし、どちらも間違いになりうる。つまりは、君の頑張り次第だ」
「はいはい」
誰が聞いても詭弁だとわかる論述であったが、どことなく漂っていた辛気臭いムードを取っ払えたので、上々の結果である。
バイリィは、胸のつかえを吹き飛ばすような大声を張り上げ、言った。
「甘いもの食べたくなってきた! イナバ! 今日の最後に、何か食べよ!」
私も言った。
「望むところだ」
そうして我々は、暖色のピークを迎えた街の中を歩いていく。
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