第3話 追い詰めて追い詰められて
*****
馬車に乗せられる。てっきりフロランも一緒だと思ったのに、彼は確認したいことがあるからと立ち去ってしまった。
「むむ……」
御者に出発を促されて、私は渋々頷く。ここで勝手な行動をしたらフロランを心配させてしまう。それは本意ではない。
なにを探っていたのかくらい教えてくれればいいのに。
馬車はゆっくりと動き出す。フロランが使っている馬車だからか、馬車特有の匂い以外に香りはない。フロランは研究の都合でフレグランスを使用しないのだ。だから、持ち主の匂いも馬車には残らない。
今夜は少々暑い。夏至も近いので気温が高めではあるが、今日はより蒸している。私はそっと窓を開けて外気を取り込む。
流れ込んできた香りにハッとして、私は立ち上がった。
「止めて!」
馬車を止めてもらい、素早く降りる。御者には悪いが説明は後回しだ。この匂いは、例の媚薬に違いない。
鼻をひくひくさせると、匂いの元へと走った。反対側の通りに繋がっている路地を抜けると、物音がした。
「いや、やめて!」
女性の悲鳴。馬のいななきと走り去る音。事件だ。私はポシェットから痴漢撃退薬を取り出して構えた。
「お待ちなさい!」
ドレスを纏った女性が地面に転がっている。そこに近づこうとしている人影の手元が月光を反射させた。幸い刃物ではないようだが、その形状は私がよく知るもの――小型の噴霧器だ。
舌打ちした音とともに、人影の手は私に向けられる。そして噴霧器から液体が振り撒かれた。
シュッという音がしたかと思えば、甘ったるい香りが充満する。
こちらが相手に薬品を振りかける前に先に撒かれてしまうとは迂闊だった。女性を巻き込まないように距離を取らねばと考えていたのが仇だ。
口元を覆うのが間に合わず、思いっきり吸い込んでしまう。
「んっ」
体がゾクゾクする。暑いし熱い。呼吸が荒くなってしまい、さらに薬を吸い込んでしまったらしかった。立っていられなくなって、私はその場に膝をつく。
声をかけたせいか……
やってきたのが女性だとわかったから媚薬を振り撒いたのだろう。先に痴漢撃退薬をばら撒くべきだったのだ。
しまったな……
はあはあと呼吸を繰り返す私のほうに、犯人は近づいてきた。私が見上げると同時に蹴り飛ばされた。
「がぁっ!」
壁に強かに背中をぶつけて、私は空気を一気に吐き出した。苦しい。体の痛み以上に身体中がむずむずとして、ドレスが肌に擦れるだけでも感じてしまう。
顔だけでも確認しなきゃって思ったのに。
連続暴行犯であることはこの匂いからわかる。犯人を捕まえるために、少しでも証拠を見つけないと。
私が立ち上がろうとしているのに気づいたらしい、影がこちらを見た。
ずっと黙っているとはなかなか賢い。喋れば性別くらいはわかるのにそれをしないのは、自身の使っている薬をむやみに吸い込まないためなのかもしれない。
「やめろって言ってるでしょ」
なんとか壁に手をついて立ち上がる。そして、なんとか動かせた左腕で自慢の胸元を持ち上げて見せた。
「先に私とイイコト、しませんこと?」
ちょうどガス灯の明かりが私を照らしている。ゆえにこちらから犯人の姿がよく見えないのだけど、こうして誘惑すれば向こうで倒れている女性が逃げる時間を稼ぐことはできるだろう。
犯人は私と足下の女性の両方を交互に見やる。
私は胸元を大きく引っ張ってほんのりと赤く染まった膨らみを晒し、長いスカートを捲って白い太ももを見せつけてやる。
「身体が焦れてしまって、たまらないの。一人で始めてしまってもよろしいのよ?」
フロランを誘惑するために考えていた台詞がこんな形で有効活用されることになるとは。何が役に立つのかなんてわからないものである。
焦れているのは本当ではあるのだけど……誰か助けに来なさいよ!
犯人が葛藤している。だが、私がショーツをずり下げる動作をしたところで犯人はこちらを選んだ。
顔が見える――と思ったら、マスクを被っていた。顔は見えないが身長はわかる。私よりは背が高い。少し肩幅が頼りなく華奢な体格は、私が知っている人物に近い。
冷静に分析していると、彼の手が無遠慮にスカートに潜り込んだ。
「やっ」
男の鼻息が荒い。興奮しているのがわかる。
「んんっ……」
声を我慢できない。媚薬の効果は絶大だ。効き過ぎている気がするのは私の体質の都合なのかもしれない。
このままじゃ、私。
誰かが来るまで引きつけておかなければならない。行為を拒めばもう一人の女性に危険が及ぶだろう。犯人を夢中にさせて、周囲に気が向かないようにしないと。
私が行為に溺れるわけにはいかない。男の撒いた薬のせいで鼻が効かないのが悔やまれる。だが、不思議な位置で照り返す何かが目に入った。円形の何かが人の頭がありそうな位置で一瞬光ったのだ。
もしかしたら。
私は思い切って自分でドレスの紐を引っ張り、胸を露出させる。ガス灯に照らされると白さが際立った。淫靡な気配に吸い寄せられるように、犯人の視線は胸元に釘付けになる。
「こちらもお好きかしら?」
誘惑しながら、腰も動かす。犯人の口元が愉快げに笑った。
私は犯人の頭を抱き寄せて、その耳に口元を近づける。
「――コンスタンさん、チェックメイトですよ」
カチッという音。
犯人の背後に影が立つ。彼の眼鏡がガス灯の明かりを反射した。
「手を上げて僕の可愛い助手から離れてくれるかな」
犯人の頭に銃口が向けられ、くっつけられている。
ゆっくりと犯人は両手を上げて――素早くしゃがみ込んだ。
私は太ももに隠し持っていた噴霧器を取り出してシュッとひと吹きしてやる。
「ぎゃあっ⁉︎」
ちょうど目元にかかったらしい。犯人は悲鳴を上げてその場に転がった。目を擦っている。
「あまり擦らない方が身のためですわよ。失明の危険もあるのですから」
「行き遅れの虫除け令嬢ごときがっ! 俺の手でよがってりゃいいだろうがよ!」
やっと喋った。逃げるのを諦めたのだろう。あちらこちらから足音が近づいている。
「大したテクもないのにいきがってんじゃないわよ、ガキがっ!」
私が怒鳴って股間を蹴ってやれば、犯人は悶絶して黙り込むのだった。
「さて、あとは任せて僕らは退出しようか」
フロランは私を軽々と横抱きにした。素直に私は身体を預ける。
「相変わらず、君は過剰防衛気味だね。ほどほどにしないと」
「はぁい……」
フロランに抱っこされたら落ち着いてしまった。急に意識がぼんやりしてくる。立っていられたのは気が張っていただけなのだと理解したときには夢に飲まれていた。
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