納得と満足

 ジャスミンティーを飲んだ後はお店の掃除をする。


 この木造の白を基調にしたカフェの雰囲気はたまらなく心が浮き立ってくるので、ついつい掃除にも力が入ってしまう。


 それに綺麗になったお店を見る度、神谷さんが子供のように目を輝かせて、ニコニコしながらテーブルをでているのが嬉しいのもある。


「夏木さんってホントに丁寧ていねいですよね。僕、おおざっぱだから有り難いです」


 そう言ってもらうと、もっと頑張ろうと思うから我ながら単純だ。

 その後は、神谷さんは食材の仕込みをしているので、それを携帯で録画しながら観察。

 いつかはこういった事のお手伝いもできたらいいな……


「夏木さん、それメチャ恥ずかしいですよ」


 神谷さんは笑いながら言うが、私は基本鈍臭いので録画しないと見ただけじゃ頭に中々入らない。

 そう言いながら私も笑う。


 なんてゆったりした時間なんだろう……


 私と彼だけの空間。

 波の音と、時々遠くから聞こえる子供たちの声。

 それ意外は神谷さんの出す、様々な調理器具の音だけ。


「少ない音って、こんなに心地いいんだね」


 私がポツリと言うと、神谷さんはパッと振り向いた。


「あ、気付きました! いいセンスしてますね。そうなんです。余計な音って疲れますよね。だから、この店はBGMは使わないようにしてるんです。波の音と、時々聞こえる人の声や車、バイクのエンジン音。その最小限の音が最高のBGMなんす……って格好付けちゃったかな?」


「ううん。それ、凄く素敵。クリニックでは戦場みたいにバタバタしてたし、家でもいつもテレビをつけてたから、ここに来てこの静かさが気持ちいい」


「良かった。夏木さんがそう言うなら一気に自信出ました」


 その言葉に顔が火照る。

 本当にお上手だな……


 その時。


 突然携帯のバイブレーションが鈍い音を立てた。

 静けさを引き裂くような振動音に驚いて確認した私は、息が止まりそうな気持ちになった。

 クリニックからだ……


「……ごめんなさい、ちょっと」


 それだけ何とか絞り出すように言うと、そそくさと店の外に出た。


 しゃがみ込んで両腕に顔を埋めていると、耳元でサンダルのジャリっと言う音が聞こえる。

 多分神谷さんだが、顔を上げる事が出来ない。

 こんな顔を見られたくない。


 そう。私は泣いていたのだ。


 クリニックからの電話に慌てて出たのだが、相手はまさかのドクター……大野先生だったため後悔する事になった。


 元々、根性論の多い人で「なにくそ! で乗り越えるものだ」と良く言っている人だったが、そのため私の今回の事にひどくご立腹だった。


 職場放棄だ。

 どれだけクリニックの業務に支障が出たか。

 君を信頼してたのに裏切られた。

 責任を感じてるなら、顔を出してしっかり話をしろ。


 そんな正論の数々が私の心にカッターナイフのように突き刺さって来た。


 ただ「すいません」を繰り返す私に、大野先生は大げさにため息をついて「落ち着いたらまた連絡するように」と言い残し電話を切ったが、あの言葉の数々が耳から離れない。


 神谷さんにはこんな姿、見せたくなかった。

 彼だって、お姉さんの事を乗り越えて立派にお店をやってるのに、ずっと年上の私はメソメソ泣いている。


 すると、私の背中に手が当てられてそれは優しく背中を行き来した。


「辛かったですね。最後まで頑張りましたね」


「頑張ってない。私、怖くてずっと『ごめんなさい』『すいません』しか言ってなかった」


「それで充分です。出来ることをした。それ以上何がいるんです?」


 その言葉を聞いて、張り詰めていた心がゆるみ始めた。

 そして、さっきのやり取りと彼氏の事を泣きながら神谷さんに話した。


「……そうですか。それは無責任ですね」


「そうよね。私、やっぱり無責任……」


「あ、違います。無責任はその先生の事」


「え?」


「だってそうじゃないですか? 夏木さんがどれだけ精神的に苦しいのか考えもせず、言葉を好きにぶつけて。それで夏木さんの心が壊れたら管理責任を問われますよ。それって院長としてはどうなんです? 従業員の心身を守ることも責任なんだから」


 確かに……


「後、何で夏木さんがそこまで背負わないとダメなんです? 結局、その先生も甘えてるんですよ、夏木さんに。だって、クリニックには他にも看護師さんいますよね? その人達は? 結局、先生も他の人もあなたが居れば面倒ごとをしなくて済む。自分たちが楽になるから戻ってきて欲しい。それだけ。戻ってみんなと話ししろって……1人対集団なんて、絶対話し合いにならないですよ。集団が強いに決まってる。それって卑怯ひきょうです。先生もクリニックの人も、彼氏さんも、夏木さんを本当に思うなら、まず夏木さんの言い分を、夏木さんのペースを尊重そんちょうして聞くことなのに……」


 神谷さんの話を聞きながら、私はまた涙があふれていた。

 今度は嬉しさで。


「わたし……自分の味方なんていないと思ってた。こんな自分勝手な人、みんなあきれてると……」


「あなたは最善を尽くした……いや、尽くせなかったとしても悪くない。頑張ること、最善を尽くす事は大事だけど全てじゃ無い。自分が納得しているか。満足しているか。それだけです……僕はあなたの味方です」


「有り難う……」


「さて、仕込みも終わったし良かったら少し付き合ってもらえませんか? 僕、気に入ってる場所があって、ぜひご一緒して欲しいんです」

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