海辺にて

 車の運転は適度に集中するせいか心地よく現実を忘れられるため、3時間ほど夢中になって走らせていた。


 ただ、悲しいかなそんな状況でもお腹は空く。

 コインパーキングに停めて外に出る。


 海が近い事と平日なのもあり人通りも少なく潮風の匂いも心地よい。

 財布や通帳は持ってきていたので、当面何とかなる。

 趣味らしい趣味も無かったし、彼氏の悟とのデート意外は特に外出もしなかったので、お金も貯まっている。

 食べ歩きなんてしたことないし、せっかくだからこの辺に美味しいお店があったら豪勢なランチにでもしようかな。


 そう思いお店を調べようと携帯を出すと、待ち受け画面にクリニックからの着信があった。

 心臓が跳ね上がるほど驚いて、慌てて電源を切った。


 きっと仕事の書類の問い合わせだろう。

 落ち着けば全然対応できる。


 でも……怖かった。

 もうクリニックの人たちの声も、いや、存在も消し去りたかった。

 携帯の電源を切るとホッとすると共に、いよいよ後戻りできなくなった怖さも湧き上がってきた。


 どうしよう。

 もう言い訳できない……


 でも、フッと頭の中に(もういい)と言う言葉が浮かんだ。


 そう、もういいんだ。

 あそこに戻ることを考えたら吐き気がする。

 頭がクラクラと回るような気がする。

 だったらもういい。

 全部捨ててしまおう。


 ギュッと目を閉じてそんな事を考えると、少しホッとした。

 落ち着いた後に目を開けた私は息を飲んだ。


 そこには雲一つ無い青空が驚くほどの広さで広がっていた。

 今まで駅前のアパートに住んでいたので、空がこんなに広いなんて知らなかった。

 それはまるで神様が私にくれたプレゼントの様に思えて、元気がちょっとだけ出た。

 適当に歩いてお店を探そう。


 心地よい海風と波の音が微かに聞こえる中を歩いていると、学生の頃に見た「自分一人が生き残った世界」を題材にした映画を思い出して、気分が浮き立った。


 もっと沢山、こういう所を歩いてたら違ったのかな……

 いや、これから沢山歩けばいい。

 これからの事はゆっくり考えよう。


 そう思ったときふと(裏切り者)(無責任)(社会人失格)と言う言葉が浮かび、背中に嫌な汗がにじむ。またギュッと目を閉じて深く息を吐く。


 やっぱり……そうなのかな。


 立ち止まったまま、左側のテトラポットを見る。

 ふと遠くを見ると釣り人だろうか、親指ほどの小さい影だが釣り竿を振っているのが見える。あの人はちゃんと社会人してるんだろうな……

 

 そう思うとたまらなく悲しくなり、誰も居ないことを確かめ道の端のブロックに座ってシクシク泣いた。


 なんでこんな事になっちゃったんだろう。

 ただ、真面目に一生懸命やってただけなのに。

 ただ、色んな事を守りたかっただけなのに、結局全部無くなっちゃった。

 訳が分からなくなって、ただ悲しく悔しくて涙が止まらない。

 良かった、誰も居なくて。


 その時、近くに人の気配を感じハッと顔を上げた。

 すると案の定、白いTシャツとジーパン姿の男性が心配そうに私を見ていた。


 しまった。

 ばつが悪くなって慌てて目をそらしたが、それでもまたその人の方に目を向けた。

 いや、向けずには居られなかった。

 目鼻立ちが整っており、パッチリした綺麗なアーモンド型の瞳と、キュッと締まった感じの小さな唇は失礼だがなんでこんな所に……と思うくらいだった。

 街中で会ってたらどこかの芸能事務所の人かな、と思ったに違いない。


「大丈夫ですか? 何か……ありました」


 見ず知らずの私なんかを心配するなんて。

 有り難かったけど、反面みっともないところを見られたあせりの方が大きかった。


「あ、いえ……大丈夫です。有り難うございます」


 首を振って無理矢理ニッコリ笑う。


「そう……でも、かなり泣いてたので……」


「本当に大丈夫です。今はスッキリしてますから」


 嘘じゃ無い。泣いたらスッキリした。


「泣くと脳内のストレス物質が一緒に流れ出るから、一時的にはスッキリするんです。でも、原因がそのままならまたすぐに元に戻りますよ」


 いきなりなんて場違いなことを……


 まるで生徒に話す家庭教師のような口調に、思わずポカンとしてると彼は慌てて手を振った。


「すいません、またやっちゃった。つい語っちゃう悪いくせが」


 彼はそう言いながらも私をジッと見つめた。


「でも……やっぱり気になります。ごめんなさい。今のあなたを見てると……あ、いや、大丈夫です」


 何を言おうとしたんだろう?


 でも、彼の気持ちは素直に嬉しかった。

 私に優しくしても何の得にもならないのに。

 そう思うと、胸の奥に暖かい物がまるで絵の具を垂らしたみたいにじんわりと広がるのを感じた。


 そして……お腹が鳴った。


 え……

 私と彼は思わずギョッとした表情になった。


 ああ……恥ずかしい。

 顔を真っ赤にする私に彼は吹き出しながら言った。


「お腹が空くなら良かった。辛いことがあった時は寝るのとお腹いっぱい食べることが薬です。良かったら僕の店に来ません? こう見えても結構評判いいんですよ。サンドイッチが一番の売りです」

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