第4話
――その日の夕餉は、やはり栗を炊き込んだ
「父上。渡辺先生はまだお戻りになれないのですか?」
口いっぱいに栗飯を頬張りながら、もごもごと口を動かす息子を、市之進は「行儀が悪い」と叱りつけた。だが、そんな息子が痛ましくもある。
渡辺新助は、敬学館における儒学の教授方でもあると同時に、家塾でも教鞭を取っていた。若いが熱血漢の教師として子供たちに人気があり、まだ手習所に通う年にもなっていない褒治は、通い始めたばかりの家塾の師範でもある新助に、憧れていたのである。
「渡辺先生は、先に白河でお亡くなりになられただろう」
ため息をつきながら、市之進は説明した。その言葉に、褒治ががっくりと肩を落とした。いや、本当は息子だって分かっているのだろう。初夏に白河で戦端が開かれて以来、二本松の日常は変わってしまった。だから、わざわざ死者の名を持ち出すのは、平穏な日常を壊された息子なりの反抗なのである。
亡くなった渡辺新助も教鞭を取る身でありながら、その身分は一介の二本松藩士に過ぎない。石高で言えば市之進とさほど変わりのない身分であり、儒者としてではなく、一兵士として白河で落命した。
箸を箱膳に横たえて市之進が手を合わせると、それが夕餉の終わりの合図だった。妙が箱膳を片付けるのを待って、市之進は気の重い話をしなければならなかった。
「褒治。明日から、父は糠沢に行ってくる」
代官として市之進が糠沢に足を運ぶのは、いつものことである。だが、今度ばかりはその意味が違う。その声色に何か感じるところがあったのか、先程まで
「父が二本松に戻れぬときは、そなたが母上を守れ」
目の前の息子は、まだ幼い。だが、紛れもなく武士の子だ。市之進の言葉に、褒治が身を震わせる。父が死を覚悟して糠沢に向かうことを、咄嗟に悟ったに違いなかった。自分によく似た息子の目元に、大粒の涙が膨れ上がっているのが見えた。町民や農民の子だったならば、大声で泣いて父を引き止めるのだろう。だが、武士の子はそれを許されなかった。
そして、市之進はかつて米沢から持ち帰った白鞘の大小を握り、息子の前に置いた。
「これを笠間の家の守り刀として、お前に預けておく。良いな?」
米沢は、二本松を見殺しにしようとしている。だが、その事実を事実のままに子孫に伝えなくともよいのではないか。
「……父上。仰せの通り、この刀にて私が母上をお守りいたします」
声を震わせしゃくり上げながらも、褒治はそう言い切った。
「よし。それでこそ、二本松の御子だ」
無理やり笑みを作りながら、市之進は息子を膝に乗せてその頭を撫でた。だが、褒治は父との別れに堪えきれなかったのだろう。ついに全身を震わせながら市之進の胸に顔を埋め、泣き声を上げ始めた。
――妙は、そんな父と息子のやりとりを、涙を浮かべながら見守った。夫の小さな嘘を守り通そうとする思いもわかるが、やはり悔しさが募る。だが仮に米沢が援軍に来たとしても、夫の命の保証はされない。それが武士というものだ。
二六〇年間平穏であった二本松藩が、なぜよりによって自分たちの代で、このような理不尽な目に遭わなければならないのか。此度の戦がほぼ言いがかりのような形で戦端が開かれたという話は、女の耳にも届いていた。白河の戦い以来、城下では度々葬式が営まれていた。もしも西軍が二本松に進行してきたとしたら、どのような扱いを受けるのか。春先に城下に滞留していた折の乱暴狼藉ぶりを見ても、自ずと知れる。そっと胸に手を当てると、肌身離さず忍ばせている懐剣の固い感触が、指に伝わった。
二本松が、薩長に何をしたというのか。よくも、平然と悪鬼の所業を行えるものだ。人ではない。
もし生きて辱めを受けるくらいなら、懐剣で息子諸共この生命を絶ち、市之進の元へ行く。
きつく目を閉じると、一粒の涙がこぼれた。
褒治は泣き疲れたのか、そのまま夫の腕の中で寝入ってしまい、妙は黙って息子の布団を敷いてやった。もう添い寝をしてやるほどの歳でもないが、今晩ばかりは泣き疲れて引きつけでも起こすのではないかと、あらぬ心配が過ぎる。
「褒様。褒治の床を延べてきました」
「すまぬな」
にこりと笑う夫の目尻には小皺が刻まれており、近頃は白髪もちらほら目立ち始めた。今年四十二になる夫は、大身ではないものの、妙の憧れの君でもあった。妙がこの夫以外の妻になる姿など、想像できない。相思相愛の夫婦だったと言えばそれまでだが、それにしても、この夫と連れ添って何年になるのだろう。なかなか子に恵まれなかった二人だが、物静かで温厚そうな見た目とは裏腹に剣の妙技を振るうその姿に憧れていたのは、いつの頃からだったのか。
意識のない息子の着物を脱がせ、無理やり寝間着を着せてやるその手付きは、子を慈しむ父の姿そのものであり、優しい。だがその手には強固な剣
今宵が今生の別れとなるならば、思い切って自分も少女の頃に戻ってみようか。
やがて、意を決したように市之進が「そろそろ休むか」と言い、ふっと燭台の灯を吹き消した。十五夜が近づいているからなのか、明り取りの障子を通してうっすらと月光が室内に差し込み、夜目にも市之進の表情が伺える。死を決意した夫の表情は、意外にも穏やかさを感じさせた。
「妙」
ぽつりと呟かれた夫の言葉に、妙は夜具の中で夫に身を寄せた。褒治が生まれてから久しく肌を合わせることはなかったが、決して夫婦仲が悪いわけではない。
戦の前に男が女に触れると、思わぬ不覚を取るという俗諺があるらしい。だが、連日白河の前線から悲報が届けられれば、それが迷信に過ぎないというのは、妙にもわかった。まさか、銃弾の飛び交う白河の前線に女がいるわけではあるまい。
「俺は最早死ぬほかない。だが、賊を屠ってからだ」
その言葉に、妙は身を強張らせた。やはり、夫は死を覚悟して糠沢に行くのだ。改めて夫の口からその覚悟を聞かされて、どうして夫を引き止めることができようか。
賊、という言葉に、夫の並々ならぬ西軍への憎しみを感じる。普段は、このような過激な言葉を軽々しく口にする人ではないのに。
市之進も妙の背を黙って擦っている。その吐息が、妙の首筋を柔らかく撫で上げる。この夫の手の温もりを、そしてその眼差しや吐息の柔らかさを、自分は生涯決して忘れまい。
「褒様。一つ、我儘を申してもよろしいでしょうか?」
妙は、思い切って切り出した。
「この後に及んでか?」
市之進の声には、微かに驚きが含まれていた。
「はい。この後に及んででございます」
妙も、努めて明るく答えた。側では褒治が眠っているから、小声ではあるが。
もしこの先市之進さまが討死することがあっても、私が市之進のところに行くまで、どうか待っていてくださいませ。たとえ生まれ変わっても、妙は市之進の妻になりたいのです。
妙がそう囁くと、不意に市之進の表情が崩れ、妙は固く抱き締められた。市之進の両腕はまるで大木のようであり、男の腕とはこれほど力強いものだったのかと、妙はやや慄いた。初めて夫の膂力をまともに受け、微かに身に痛みが走る。だが、くぐもった声が妙の耳の奥に届き、それが市之進の嗚咽であると気がつくと、妙の喉の奥にも熱い塊がこみ上げた。
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