一話 血濡れの英雄 ⑤

「ちょ、ちょっと待ってよ! どこに行くの!?」




 廃病院から出たところで女は俺の進路に割り込んだ。




「お前には関係ないだろ」




 俺は女を手で押しよけながら、横を通り抜ける。




「関係あるよ! こんな危険な場所に子供一人だっていうのにほっとけないよ!」




 『子供』というフレーズについ眉根が寄る。自然と足が早まった。




「助けたお礼だと思って話を聞いてよ!」




 女が懇願する。が、お礼という言葉にも腹が立つ。舌打ちし、振り返って、睨みつけ、出来る限りの不快感を示す。




「す、すごい剣幕だね…。わたし、そんな怖がられることしたかな…」




 そもそも『化け物』を倒せる鎧を着ていた時点で怪しいだろうが。俺は嘆息し、話を促した。




「要件はなんだ。さっさと話せ」




 しつこく付きまとわれても面倒だ。俺は仕方なくこいつの話を聞くことにした。




「ここには、ディストラルが、棲みついてる。さっきみたいに命の危険に晒される。安全な場所を、知ってるから、わたしについてきて」


 


 ゆっくりとした語り口に苛々する。途中で聞き慣れない単語が出て、検討はついたものの、俺は訊いた。




「ディストラル?」




「ディストラルっていうのはね。二カ月前からわたしたちを襲ってる化け物たちのことだよ」




 端的な答えが返ってきて、俺はこいつへの警戒心を一層強めた。




「さっきの話は断る。要件は終わりか?」




 あっけにとられた様子を肯定とみなし、俺は再び背を向けた。




「ま、待ってよ! こんなところにいちゃ、死んじゃうよ! わたしたちのところに、来て! 食べ物も、水もだってある! あなたの安全はわたしが保障する! だから…」




 女は予想以上にしつこかった。きっぱりと拒絶すれば問題ないと思ったが、こいつにとっては肯定以外の返事は意味がないらしい。




「話は聞いただろ。もうついてくるな」




 女が口早に続ける言葉に聞く耳を貸さず、帰路を急ぐ。最初から無視すればよかったと、まともに取り合ったのを後悔した。




 不意に腕を握られ、俺は先に進めなくなる。




「放せ!」




 力任せに手を振り払おうとするも、握る力は意外に強く、逃れるどころか、動かすことすらかなわない。声を荒げ、怒りを露わにして、威圧するも、女が委縮する様子はない。それどころか視線で真っすぐにこちらを射抜いてくる。




「わたしたちのところに、来て。あなたの友達や家族にだって会えるかもしれない」




「んな奴ら知るか! いいから放せ!」




 言いぶりからしてこの女は集団生活を営んでいるのだろう。こいつの武力を防衛の要にして。能天気な発想だ。今は誰もが食い繋ぐためには命をかけねばならない。他者を犠牲にして生き延びても誰も驚かないだろう。いつ誰が裏切るやもしれぬ中で、他者と馴れ合おうなんて正気の沙汰とは思えない。もっとも俺はどんな状況であろうと、馴れ合うつもりはないのだが。




 俺の回答になぜか女は傷ついたように表情を歪める。無性に腹が立ち、気づけば掌が痛むほど強く拳を握りしめていた。俺は女に向き直り、目線を合わせて精一杯の侮蔑を送る。女は、はじめこそ気丈に説得しようとしていたが、俺が拒絶する度、その面持ちは諦めの色を濃くしていった。ややあって女がようやく力を緩め、俺は手を振り払う。背を向け、歩き出すと、女はまた俺を呼び止めた。




「待って。なら、せめてこれ、受け取って」




 渡されたのはレジ袋だった。中を覗くと缶詰やインスタント食品、ペットボトル飲料、小道具などが入っていた。突き返そうとも思ったが、良い案が思いつき、中身のうち一つだけを取り出した。




「これだけは受け取っておく。後は余計なお世話だ」




 俺が選んだのは無線機だ。昔、警備員として働いていた時のよりも一回り大きく、重い。おおかた警察や消防、タクシーやらが使う業務用無線機の類だろう。これならこいつに貸しを作るかどうか自分で選べる。もっとも、連絡するつもりなどないのだが、こいつの厄介さはさっきの応酬で嫌というほど身に染みている。コレを受け取るだけで逃れられるなら安いものだろう。無理やりにでも食料や水まで持たされる可能性もあるにはあるが。が、コレだけでも充分だったらしい。




「受け取ってくれて、ありがとう」




 感謝される謂れなどないのに、女は俺に頭を下げた。全くやりづらい奴だな。何か言おうとしたが、言葉が思いつかず、俺は目をそらした。




「わたしは大築、ノア。みんなからは『先生』って呼ばれてるの。ノアちゃんって呼んでもいいわよ。困ったことがあったら、いつでもわたしを頼ってね」




 大築は笑顔を作ったが、陰りを隠しきれていなかった。俺がお前についていかないのが、そんなに嫌なのか? だが初対面の奴に向ける感情としては思い入れが過ぎる。というより男からノアちゃんと呼ばれるのはそれはそれでどうなんだ。




「あなたの名前はなんていうの?」




 俺は答えず、その場を後にした。だが大築がついてくることはもうなかった。


 その後、リュックを回収しに戻った。だが、施設のどこを探してもどこにも見当たらない。ディストラルが喰らったのかとアタリをつけ、死臭を耐えて、死骸を漁ったものの、成果はなかった。それに死骸は酷い有様で内臓や神経、胃液に溶かされた内容物まで外に出ていた。


 もしかすると、大築が持ち去ったのかもしれない。ほんわかしていて、綺麗ごとばかりのたまっておきながら、なかなかやり手である。これだから外見や口先はあてにできないのだ。

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