一話 血濡れの英雄 ③
目的の品であるレトルト食品や缶詰などの陳列棚に着くと、待ち受けていたのは予想通りの結果だった。残っていたのは缶の残骸くらいである。『化け物たち』が口を切ったのか、血糊が散っている。
楽な道はなさそうだ。ため息を吐きつつ、通路に差し掛かると、俺は吐気を引っ込めた。棚にカップ麺がずらりと並べられていたのだ。虫食いのように所々欠けているものの、災禍以前に商品を物色している気分になった。リュックを開き、麺を手早く詰め込んでいく。入りきらなくなっても、在庫はまだまだあった。当面は食料に困らなそうだ。幾分か鬱な気分が霧消し、安堵に息が自然と漏れた。
―チュー、チュー。
つい空気を飲み込んだ。緊張の糸を張り巡らす。ネズミのような鳴き声だ。それもかなり弱弱しい。だが安心はできない。ここ最近で碌に生き物を見たためしがないのだ。姿勢を整え、いつでも逃げ出せる準備をしておく。
耳を澄ます。床を摺る微かな足音を捉え、居場所の方向を特定する。音を立てないように注意しながら、俺は廃墟を出た。
残骸の散った道路を横断し、裏通りに出る。そこからは全速力で駆け、鼠からなるべく距離を取る。息が切れる直前に適当な廃墟を見繕って侵入した。
落ち着いた色の床に薄緑のソファが規則的に並んでいる。前方にあるのはスクリーンと受付。横の脇道にはいくつか個室がある。多分、ここは元々、病院だったのだろう。人の精神になるべく配慮した工夫が凝らされている。渇いた血痕と散らばった日常の欠片、そして鼻をつく薬剤の匂いが全てを台無しにしているが。
ほとぼりが冷めるまでここでやり過ごそう。ソファの一つに腰を落ち着けて息を整え、再び周囲の音に警戒心を巡らせる。浅い吐気、風と、それに吹かれて舞うゴミの音。
一安心か。そう胸を撫で下ろした直後、異音が入り込んだ。何か大きくて柔らかいものが繰り返し跳躍しているような音。それはだんだんと大きくなっている。
―チュー。―チュー。
ただの鼠の鳴き声にしか聞こえない。が、伴う不相応のけたたましい物音は『化け物』のそれ。逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、焦って飛び出せば奴と鉢合わせる可能性がある。最善の策は息を殺し、遭遇を避けることだろう。
動きを止める。呼吸の一切にまで注意を払う。だが努力は報われず、音は近づくばかりだった。
なぜこちらの居場所が分かるのだろうか。
疑問を抱くと同時に、自分の失敗に気づいた。奴らの能力は多種多様で予想することすらできない。ということは毎回出会うのは未知の存在だ。頭脳を凝らした対策などそもそも通じない。奴が今、おそらく嗅覚で俺の居場所を突き止めているように。
結局、生還率を高めるのは単純な方法に集約するのだろう。ただひたすら逃げるだけという。
気づくのが遅かった。
奴が轟音を引き連れて姿を現した時、俺はそう自覚した。破砕された入口の欠片が飛び散り、土煙を上げる。
声のひ弱さからは伺えないほどの巨大で、禍々しい容姿のネズミだった。成人男性の二倍はある体躯に灰と赤の毛並みを纏っている。右側で目を引くのは剣のように変形した鉤爪。左側には機能しているとは思えないほどぼろぼろの翼。そしてひときわ目立つのは剥き出しになった脳。
―チュー、チュー。チュチュ―。
威厳のない鳴き声とは裏腹に、剥き出しになった牙は剣のように鋭く、命を奪う冷酷さを放つ。
口からは涎、脳髄からは得体の知れない汁を垂らし、一歩、一歩、奴は確実に距離を詰めてくる。
肌を汗が滴る。蛇に睨まれた蛙のように身体が動かない。気を静めようと深呼吸するが身が入らず、奴が接近するのを見守ることしか出来なかった。
奴が目前にまで迫った時になって、ようやく俺は状況を打開するための行動に移れた。
リュックのチャックを開き、奴に投げつけた。大量のカップ麺が『化け物』の前に散らばり、注意が逸れる。俺は全速力で走りだした。行く先は診療室が並ぶ廊下へ。階段で曲がり、駆け上がる。後ろに続くのは破砕と落下の音。おそらく狭い階段を無理にでも押し通ろうという算段だろう。一刻も早く脱出しなければ餌にされておしまいだ。俺は二階に登ってすぐ横にあった部屋に飛び込んだ。
白い壁に囲まれた空間に台が一つ置かれていた。枕があり寝台めいて見えるが、天井に吊るされた物々しい機械は入眠を阻害するとしか思えない。何よりも重要なのはここに窓がないこと。自ずと部屋の正体が推測される。ここはレントゲン室だ。
となると脱出口はない。すぐに引き返したが、もう遅かった。扉を開けてすぐに、下から登って来た『化け物』が現れる。最悪なタイミングだった。
彼我の距離は二メートルにも満たないだろう。奴が少し動いて爪を振るえば、俺の命に届く。他の部屋に逃げ込む前に殺される。さっきのような不意打ちをするにもそのための道具がない。手詰まりだ。
舌打ちする。嘆息する。睨みつける。
『化け物』が舌なめずりをした。耳障りな鳴き声は一層早まり、奴は小刻みに己の身体を振動させる。
恐怖心からか、俺はその動作が下卑た笑みのように思えた。取るに足らない者が必死に足掻く様子を嘲笑い、絶望を与えるのが楽しみでたまらないとでも言うような。
二カ月前、俺は人が死ぬのを初めて見た。
道路に乗り捨てられた車。あちこちに散らばる瓦礫。我先にと脇目も振らず逃げる人々。悲鳴、怒号、慟哭、咆哮、次々と塗り替えられる音の群。どこか遠くから聞こえるサイレン。混乱の中心にいるのは『化け物』、それと近隣の高校の制服を着た少年。少年は恐怖に顔を歪め、周囲に必死で助けを求めるも、『化け物』の爪が彼の両足を縫い留め、阻んだ。奴には容赦がない。痛みに絶叫した彼の首筋に牙を突き立て、肉を貫き、そのまま食い千切る。
上がった悲鳴が鼓膜を震わせた。それは咆哮と似ていた。人の物とは思えない理性なき獣の叫び。想像を絶する痛みを外に吐き出そうとする少年の試み。
否、少年はまさしく獣となっていた。めきめきと嫌な音を立て、背を突き破り腕が生え、眼球は垂れ落ち、枯れ木のような樹木がそこから伸びてゆく。
少年は奇声を上げる。まるで己の生誕を喜ぶかのように。声音は未だ人間らしさを残している。だがその瞳には何の光も宿っていなかった。
俺は逃げるのも忘れて、その一部始終を見ていた。助けに行く訳でも、楽しむ訳でもなく、ただ見ていた。何かに突き動かされるように、何かに押しとどめられるように。
その日から死はありふれたものになった。当然のように目の前で人が死に、遺体は埋められることなくそのままにされる。そのくせこいつらは無際限にある餌に涎を垂らす。奴らは勝手な都合で他者を理不尽に地獄へ陥れてきて、そのくせ省みることなどないのだ。
気に食わなかった。死ぬのは確定だ。どんな手段を用いても生存できる未来が見えない。だが、屈したくはない。こいつらへの恐怖に、こいつらの理不尽さに。
勝てる見込みはない。どうせ死ぬ。もしかしたら『化け物』にされるかもしれない。が、こいつらに一矢報いるためだけに命を懸けるのも悪くない。せめてこいつの内臓や骨の一つ、二つ、道連れにしてやろう。
覚悟を決め、俺はサバイバルナイフを握りしめる。そのまま躊躇することなく、奴へ突撃した。
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