応酬の果てに待つモノは

斜辺私達

日食より漏れる陽光

prologue~disturbed world~

 痛い。外側から散発的に感じる不快感。それは不規則で、突発的にやってくる。


 痛い。内側にある心の奥から広がっていく不快感。それは規則的で、じわじわと俺の身体に広がっていく。


 どちらにも共通しているのはその感触がねっとりと残り続けること。


 続く痛みの中で俺は思った。期待は、いつも裏切られる、と。


 


 最初に俺を裏切ったのはクラスメイトだった。あいつらと共にした数か月という月日がまるで嘘だったかのように俺へ暴力を振るい、陰口をたたいた。友情を感じた仲であっても、俺の助けを求める声を嘲笑い、救済を待ちのびる手を足蹴にした。




 次に裏切ったのは教師。あいつらは模範者としての、監督者としての役目を放棄し、他でもない己の口で語った綺麗な美徳を、道徳に平気で背いた。叱っておこう。守ってやろう。そんな主旨の、口だけの約束を幾度となく誓い、そのくせ無関係な他者として振舞った。




 最後に俺を裏切ったのは、いや、俺が最後まで期待していたのは、明日。いつかこんな日々にも終わりがあると思っていた。




 初めは確信に近い期待。友達に、教師に頼れば、きっと今を変えてくれるだろう。それまでにあいつらと共に過ごした時間がそう俺に思わせていた。だが、あいつらが期待を裏切るにつれ、確信は妄信へと変わっていった。


 


 明日こそ、この地獄に終止符がつけられる。今までとは違って、具体的な方策も、地獄が終わるための原因も一切、イメージできない。そんな歪な形であっても、期待を抱き続けなければ、自分が壊れてしまいそうだった。




 が、そんな日々に耐え続けられるはずもなかった。限界が来て、その日、初めて俺は自分のどす黒い感情に従った。いつものように俺を足蹴にするクラスメイトの胸倉をつかみ、そいつを睨みつける。




 顔を正視した時、俺は馬鹿らしくてつい吹き出してしまった。まるで、話が違うと言わんばかりの、いや、裏切られたとでも言いたげな表情をたたえていたのだから。




 何を期待していたのだろうか。俺がいつまでも無抵抗なまま理不尽に耐え続けるとでも期待していたのだろうか。俺へのいじめを明日も娯楽として享受できると期待していたのだろうか。期待は、裏切られるものだというのに。




 押さえつけてきた悲しみが、怒りが胸の内からこみ上げてくる。身体が震え、頭から爪先まで制御が利かなくなる。そのまま衝動となった感情に身を任せ、俺はクラスメイトに向かって、拳を振り上げた。




 息苦しさと、肌にべったりと張りついた汗を伴って、俺は目覚めた。過去を夢という形で見ていたらしい。


 


 ひとまず現実でなかったことに安堵すると、途端に空腹感に襲われ、寝起きだと言うのに目が冴えた。同時に感覚が鋭敏になり、宙に浮かぶ埃に目を取られ、すえた匂いが鼻を刺す。俺は目を擦り、寝室を出て、欠伸を噛み殺しながらリビングへ向かった。




 目に入るのは、割れた窓ガラス、雑貨や服が散乱したフローリング、壁や床のあちこちにある爪で裂かれたような跡、極めつけに血に濡れたタンス、そしてその上にある家族写真。




 映っている人物は三人で父と母、二人よりやや背の低い少年。みな、手でピースサインを作っているが、彼らが幸せかどうかは分からない。顔の部分が散らばった血糊に隠されているからだ。どれもがここの家主に起きた悲劇とその末路を物語っているようだった。




「いったい、どっちが悪夢なんだかな…」




 俺は苦笑交じりに独りごつ。食卓につき、机にある鯖缶を開いて、そのまま中身を口に流し込む。これで今日の食事は終わりだ。というのに舌先から鯖の脂っぽさが薄れたころになると、腹の虫が鳴った。




 既に食料のストックは切らしたので、おかわりはない。ペットボトルを開け、目覚ましも兼ねて誤魔化しのつもりでブラックコーヒーをがぶ飲みするが、一向に空腹が収まる気配はない。無理もなかった。これで一日缶詰一個の食生活を一週間続けたことになるのだから。




 俺は溜息をついた。食料を取りに行くこと。それは自分を生命の危険に晒すことを意味するのだ。とはいえ、取りにいかずとも死神の鎌は飢餓という形でやってくる。家に籠っていたところで、リスクを先延ばしにするだけだ。




 いくばくかの逡巡を経て、結局、外に出ることにした。とりあえず衣類を脱ぐ。ペットボトルを開け、水を垂らしタオルを湿らせる。それでシャワー代わりにざっと身体を拭く。勝手に占拠した棚からジャージを選び出して着替えた。肌に布が触れ、むずかゆく感じたが、我慢する。今ではもはや洗濯すらも贅沢となったのである。




 洗面台の前に立ち、鏡を見る。映るのはしかめ面が張りついたような顔の強面な男だ。雑に切り揃えた黒の短髪。怒気を伺わせる険しい眉と鋭い目つき。角ばった手足にがっちりとした体格。




 これでいい。軟弱さが容姿に現れるようでは、他者につけこまれる。舐められないためには寄りつきづらい印象を与える必要がある。その点、俺のルックスはニーズに沿った実用的なものと言える。




 鏡を見ながら、身嗜みを整える。タオルで顔を洗い、髭を剃る。髪は二日前に切ったばかりだから寝ぐせを直すだけにとどめておく。




 こんな世界でも清潔にしたくなるものだから、長年、染みついた習慣とは馬鹿にならないものだ。本当はこんなことで資源を使わない方が良いのだが、何かと不愉快な事が多い昨今では、少しでも快適な要素を増やして過ごしたい気持ちが勝る。




 身支度を終え、ドアを開けば、一点の曇りもない快晴が俺を出迎えた。だが空が晴れていたとして、憂鬱な気分は晴れる訳もない。眼前に広がる光景は、平穏からかけ離れていて、能天気になるには余りに歪すぎるからだ。




 陽光が明るみにするのは荒み、廃れ、壊れた世界。アスファルトは割れ、或いは盛り上がり、既に公道としての役割を果たしていない。




 電柱は倒れ、電線が蜘蛛の巣を張るように交差している。


 家屋は荒れ、或いは焼け落ち、ほとんどが外観を軽く見るだけで住居としての機能を失ったことがわかる。




 そんな荒廃した世界を静寂が支配している。音を立てるものは誰もいない。人も。動物も。虫も。風に飛ばされたゴミだけが、時折、沈黙を破る。




 滅びたのは人の文明だけじゃない。自然界の摂理もだ。割れた花瓶や鉢、家に備えつけられた庭、路端の小さな隙間。どこを見回してみても雑草の一つすら生えていない。




 生態系のピラミッドの基盤たる植物。それが無ければ当然、生命全体のバランスは崩れてしまう。もっとも、ピラミッドを構成する生物が散見されないのだから、摂理も何もないだろうが。




 殺風景な世界に風情などありはしない。紅葉も落ち葉も虫の鳴き声も存在しないのだから。秋が到来したと教えてくれるのは、心地よい清涼感をもたらす風と、少し乾いた空気だけだ。




 陽光は俺一人に降り注ぐ。生命に活力を与えるでも、人々の営みに始まりの合図をするでもなく、ただ大地を照らしているだけ。燦燦とした輝きがひどく滑稽に思えた。


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