第5話 『はなれろ…』

 伝え聞くそれとは大きく異なる容姿。それでありながら、気持ちは大きく一歩退き下がりたくなるような確かな恐怖を抱かせる、嫌な力の塊。

 世界中に散らばる恨みを全て集めて固めたとしても、これほど心地の悪い力にはならないだろうという程の、負の奔流。

 咲夜は全身総毛立つのを感じながら、それでも強気に睨みつけた。

 これが、これこそが、九尾の血を引く自分の、最終目標だったのだから。

 ただ——


『——、——、——』


 それが言葉を話すというのは、想定外の出来事だった。

 いくら悪鬼の長とは言えども、妖魔が言葉を話すなどとは、どこからも聞いたことがなかったからだ。


『——、——、——、——』


「醜悪で汚らしい存在が、よもやそのようなことを仰るとは……」


『——、——』


 短いやり取りの後、吐き捨てるように小さく呟いた後で、酒呑童子は鋭い爪を向け、咲夜の命を消してしまおうとにじり寄る。

 一歩、また一歩と近付かれる度に強さを増す死の香りに、咲夜は堪らず視線を逸らし、運命とでも言うべき終末を受け入れた。

 受け入れるしかない——四肢はもはや全く動かず、刀を握ることはおろか、一歩踏み出す、或いは後退することも叶わない。

 近付く『死』の象徴が手を下すのを、ただ待つだけ。

 目を閉じると、酒吞童子がすぐ眼前で立ち止まった気配がした。

 さようなら——そう頭の中で零すけれど。

 一瞬の内にでもこちらの命を奪える程の力を持つ筈の酒呑童子が、すぐには力を振るわないことに違和感を持った。

 そのすぐ後で、何かがコツンと地面に転がる音がした。


「ささ、さ、さくやさまから、はなれろ……かいぶつ……!」


 突如として響くその声に、咲夜は痛みも忘れて顔を上げた。

 そこには、立っているのもやっとなくらいに震える足で咲夜に背を向け、酒呑童子と正対して立ちはだかる、ヒトの子の姿があった。

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