第1章 花の少女と魔法使い
第1話 終末世界のアリス
少女は、追われていた。
赤い絨毯が敷かれた屋敷の廊下を、ヒールのパンプスが音を鳴らさぬよう、つま先立ちになってすばやく駆ける。
さっと柱の影に身を隠した途端、今しがた通り過ぎたばかりの部屋からメイドが出てきて、廊下をきょろきょろと見回し始めた──その姿を少女は、廊下に飾られたガラスの花瓶越しに認めて、慌てて両の手で自らの唇を塞いだ。
「メリアリーヌ様! メリアリーヌ様、いらっしゃいましたら出てきてくださいまし!」
ほとほと困り果てた、少し掠れぎみの声。この声はメイドのミーザのものだ。ミーザは一番メリアリーヌが苦手とするメイド長で、初老のわりに声も大きければ、反面、小さいことまで逐一よく覚えていて、事あるごとにちくちくと棘を刺してくるのだ。彼女が捜しているとなれば、余計に見つかるわけにはいかなかった。
「メイド長、いらっしゃいましたか?」
「駄目ね、こちらにも見えないわ」
どうやらメイド総員でメリアリーヌの捜索にあたっているらしい。疲れを隠しきれていない声で応えて、ミーザは重たいため息を吐き出した。
「まったく……よりにもよって、黒の一族が来ている時にいなくなってしまわれるとは。万が一のことがある前に見つけ出さないと」
「黒の一族……というと〈スペルトリガー〉ですか。あの、真っ黒な服に杖を手にしているという──」
「無闇にその名を口にするものではありません! 他に黒を纏う者など、いるわけがないでしょう!」
ぴしゃり、と叱られた年若いメイドが「申し訳ありません」と、か細い声で謝る。メイド達にとってもミーザという女性は恐ろしい存在なのだろう。
「未だ話にしか聞き及んだことがなく……まさかこの土地にやってきているとは、信じられなくて……」
「伯爵様のご意向です。……黒の一族など、その目に映す機会はない方が良いのです。それはメリアリーヌ様とて同じこと。もしもメリアリーヌ様が〈スペル〉に触れでもされたら……」
身震いをするような間があった後、ミーザは一段と厳しい口調になって、若いメイドへと指示を出した。
「なんとしてもメリアリーヌ様を見つけ出し、お部屋から外には出さないように!」
「はい!」
ばたばたと、二人分の足音が廊下の向こうへ遠のいていく。ゆっくりと柱の影から上半身を覗かせて、メリアリーヌはホッと胸を撫で下ろした。
(黒の一族……〈スペルトリガー〉が近くまで来ている。それでいつも以上にみんな大騒ぎをしているんだわ。──でも)
ぐっと強く胸の前で拳を固めて、メリアリーヌは誰もいない廊下のその先を毅然と見つめた。
恐怖はなかった。むしろ確信めいた楽しい予感が、早くはやくとメリアリーヌの心を急かしている。
メイド達に心配をかけると、迷惑をかけるとわかってはいる。けれども、この息苦しさを覚えたまま屋敷の中に閉じこもることなど
──もう一分、一秒たりとも、メリアリーヌには耐えられなかった。
(ごめん、ミーザ! ダンスの授業までにはきっと戻るから!)
心の中で手を擦り合わせ強く詫びて、メリアリーヌは波打つ金の長髪をふわりとなびかせると、再び屋敷の中を音もなく駆け出した。
正面玄関にはじいやがいるし、裏口は使用人達が頻繁に行き交うから、扉から外には出られない。メリアリーヌは一階の、普段はメイド達すら近寄らない物置部屋の辺りまで努めて忍足でひた走った。それから辺りに人がいないことをよくよく確認すると、廊下の窓を開け放ち、躊躇いなくひらりと──ドレス姿のまま庭の上へと飛び降りた。
庭師に見つからないように庭園を走り、走っては薔薇のアーチに隠れながら、メリアリーヌはようやく屋敷をぐるりと囲む生垣の元まで辿り着いた。背の高い緑の生垣はとてもではないが登れない。だから彼女は再び躊躇いなくその身を屈めると、真正面から生垣へと突っ込んだ。
硬い枝が肌を擦り、分厚い葉が遠慮容赦なく顔を叩いてくるが、おかまいなしである。
手慣れた動きで素早く垣根を潜り抜けると、メリアリーヌは背後に見える屋敷を振り仰いで──それからゆっくりと唇に笑みを乗せると、胸いっぱいに春の空気を吸い込んだ。
「自由! だわ‼︎」
両の手を太陽へ掲げて、大きく声を上げて。
はたと慌てて口をつぐむと、メリアリーヌは屋敷の者に気付かれないようそろりそろりと、横手の森の中へ音もなく踏み込んで行った。
小鳥達が囀り、春風が木の葉を揺らす、緑の小径。木漏れ日の上にヒールのつま先を落とし軽いステップを踏んでいたメリアリーヌは、次第にステップからスキップへ、スキップからダンスへと歩みを変えて、くるくると森の中を踊り始めた。
「気持ちいい──……! やっぱりダンスはこうでなくっちゃ!」
春風にドレスを揺らし、エメラルドの瞳を気持ちよさそうに細めて。思うままに手足を動かしターンをしながら、メリアリーヌは森の中、笑い声さえ隠さず、自由気ままに踊り続けた。
メリアリーヌはダンスは好きな方だったが、先生と呼ばなければならない人から教わる、形式ばったそれは昔からどうにも苦手だった。背筋を伸ばして、顔は引き締めて。まるで操り人形のように、決められたテンポで規則正しく動く自分。思い返しただけでも窮屈で、堅苦しくて、つまらない。
ダンスにしても、歌にしても、メリアリーヌは太陽の下でのびのびと、自由気ままに表現をすることが好きだった。屋敷の中では感じられないもの。シャンデリアでは足りない輝き。この目で見て、肌で感じて。音に心臓を震わせ、指の先で直接触れる。煌びやかでまことしやかなパーティよりも、この大自然を一身に受けて、思うままに大地を駆ける方が、何万倍も好きだった。
「あ」
先生に見られたなら確実にはしたないと怒られるであろう踊りをしていた、その時。横手の茂みがガサリと揺れて、薄茶色の丸っこい毛玉がぴょこんと飛び出てきた。真っ黒なつぶらな瞳に長い耳──
「ウサギちゃん!」
ぱぁっ! と緑の瞳を輝かせたメリアリーヌに対し、認識されたとわかったウサギの動きは速かった。ぴゅうっと茂みの奥に再び体を引っ込めると、一目散に森の深みへと逃げて行く。
「あ、待って待って! わたし、怖いことはしないわよぅ」
声をかけながら、メリアリーヌは、ドレスの裾が土で汚れるのも厭わずウサギが逃げ込んだ茂みに足を踏み込んで──途端、がくん、と身体が真下に落ちた。
「ふぇ?」
と、気の抜けた声を出した時には遅かった。
地続きだと思っていた茂みの向こうは、坂道というには崖に近い斜面になっていた。
ふわり、とメリアリーヌの金の髪と碧のドレスの裾が浮いた──と思った次の瞬間には。
「……わ、わーっ⁉︎」
尻餅を着いた先、尻の下にあった落ち葉ごと、メリアリーヌは斜面の下へと猛特急で滑り降りていった。否、もはや滑落といった方が的確だろう。
みるみる硬い地面が目前に近づいてきて、流石のメリアリーヌもぎゅ、と瞳をきつく閉じ、来たる痛みと衝撃に備えた。
(ぶつか、る──!)
身構えた、その時。メリアリーヌの瞼の裏が、何かに遮られて暗く翳った。
「え」
そして、誰かの拍子抜けしたような声が耳元で鳴ったと思った、次の瞬間。
強い衝撃と共にメリアリーヌの身体はようやく止まり、大地の上にびたんと荒っぽく放り出された。──ただし、予想よりも意外と柔らかな衝撃と共に。
風を切って滑っていた身体がようやく止まって、春風に瞼を撫でられて。メリアリーヌは恐る恐る、閉じていた瞼をそぅっと開いた。
最初に目に入ったのは、木の根も剥き出しになった小さな崖。どうやら自分はこの崖の上から転落したらしい──と考えると、かなりの高さであった。流石にぞっとして、自分の身体がどうにかなっていないか、メリアリーヌは自身の手足に触れ確かめようとし──そこでようやく、何か、黒いものが自分の尻の下にあることに気がついた。
「そういえば、地面にしては……柔らかい……?」
不審に思いつつ足を退けてみると、そこには全身真っ黒な服を着た人間が、メリアリーヌの下敷きになって声もなく伸びていた。
「……きゃぁあっ⁉︎ ご、ごめんなさいぃ⁉︎」
ばっ、と慌ててメリアリーヌが立ち上がると、その人物は特に何の反応も示さないまま、無言でゆっくりと身を起こした。それから自身のローブに付いた土埃を手でぱっぱっと静かに払うと、今にも泣き出しそうなメリアリーヌの顔と崖の上とを交互に見遣って、そうしてようやく口を開いた。
「……すごい所から落ちてきたけど。まさかきみ、いつもあんな獣道を歩いてるの?」
高くもなく低くもない、耳に心地良い中性的な声。けれどその場に立ち上がったその人物の背は、どうやらメリアリーヌより幾分か高いようだった。
「ち、違うわよ! わたしはただ……ウサギを、追いかけてて…………」
「ウサギ?」
メリアリーヌの言葉に驚いたように振り返ってきた、その拍子に、目深に被られていたその人物の黒いフードが脱げ落ちた。
きらめく春風の中、黒いフードの下から現れたのは、衣服よりももっと深い黒だった。
少しくせっ毛のある黒髪に、新月の夜のような漆黒の瞳。青白いくらいに色白な肌。痩せぎすで、けれど筋張ったその身体は、確かにメリアリーヌとは違う──
(男の、子……?)
ぱちくり、とエメラルドの瞳が好奇心に耐えきれず瞬くと、つられたように彼も黒い瞳を瞬かせて、それからふっ、とやわらかく微笑んだ。
「ウサギを追いかけてこんな所まで落ちてきたの? ……まるでアリスだな」
「…………あり……す?」
少年が口にした耳慣れぬ言葉に思わず尋ね返したメリアリーヌだったが、彼はもうその話を続けるつもりはないらしかった。
地面に無造作に転がっていた長い木の杖を拾い上げると、「あーあ」と明らかに落胆した声を溢し、足下の大地を見下ろす。
「せっかく〝書いた〟のに、アリスのせいでまたやり直しだ。やれやれ……」
「え、あ…………わたし 、何か…………、ごめんなさい……っ!」
どうやら〝アリス〟というのは自分を指す言葉らしい、となんとなく察して、メリアリーヌは慌てて姿勢を正すと勢いよく頭を下げた。事故とはいえ、ぶつかった挙句、それが原因で何か、彼にとっての大事なものを壊してしまったのかもしれない。
どう謝ればよいだろうかと項垂れるメリアリーヌに、彼は意外にもあっさりと「いいよ」と穏やかに答えた。
「やり直しではあるけど、全部が消えたわけじゃない。もう一度上から〈スペル〉をなぞるだけだから……」
そう言って。
少年は、カンッ! と硬い音を立てて、長い木の杖を大地の上に突き立て微笑んだ。
春風が、吹いて。
メリアリーヌは彼の出立ちに、エメラルドの瞳を見開いた。
全身を黒一色で統一したその格好。身の丈程もある長い木の杖。そして、〈スペル〉という言葉と、彼の足元に刻まれた、不可思議な紋様で構成された円陣。ここまで条件が揃えば、もう間違いようがない。
「あなた……もしかしなくても、魔法使い〈スペルトリガー〉……⁉︎」
思わず指さえさして叫んでしまったメリアリーヌに、少年は一瞬息を呑み、それから困ったような顔ではにかむと、微かに首を縦に振ったのだった。
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