第45話 弱いままで、おれたちは

 鶴屋の胸から安心が消え、再び心が張りつめる。死への恐怖が蘇るが、それは決して、絶望を誘うものではなかった。グリップを握る指が締まる。床をもう一度踏みしめる。疲れは全身に満ちたまま、少しも和らぐ気配はない。


 だが今なら、責任と覚悟と焦りと恐怖に、きちんと急かされることができる。今この瞬間、自分に求められているものに、向き合える。


 阿潟を、こんな状況でも自分を後押ししてくれる阿潟を、必ず守らなくてはならない。


 大丈夫だ。こんなにも弱い自分にも、やっぱり、できることはある。


 ポケットの中には、隕石の欠片の重みがあった。キラキラ光る星の欠片。鶴屋をここまで連れてきたもの。誰かの求めに、鶴屋を応えさせるもの。しかしもう、それを握ろうとは思わなかった。


 隕石に頼る必要はない。銀色の光に、淡い希望を見る必要はない。そんなものがなくても、応えなくてはならないのだ。強くあらねばならないのだ。自分の弱さをどれだけ知っていようとも、今だけは自分で、自分の意思で、自分を強くしなくては。


「コジロウさん」


 泣きそうな目に呼びかける。侍はまた銃口を震わせ、「やめろ」とか細い声で言った。が、それを無視して鶴屋は続ける。


「俺、コジロウさんのこと、正直まだよく分かりません」


「やめろ」


「でもそれでも、あなたに認めるべきところがないとは、思わなくて」


「黙らぬか」


「コジロウさんは俺に、すごく良くしてくれたし、ご飯も食べさせてくれて、布団と浴衣も貸してくれて、傷の手当てをしてくれて」


「黙れ」


「コジロウさんは俺のしたこと、ちゃんと、認めてくれたから。だから」


「黙れ!」


 侍の叫びは反響して、鶴屋の頬をビリビリと刺した。残響に、ゼェ、ゼェ、と荒い呼吸の音が重なる。着物の肩が大きく上下し、銃口が揺れていた。その銃口と向き合ったまま、鶴屋は強引に繰り返す。


「……だから」


 鶴屋は今、コジロウの心を動かす責任を、背負わなくてはならなかった。自らのわがままを通す覚悟を、決めなくてはならなかった。


「だから俺が、コジロウさんを認めるんです」


 鶴屋の声を拒むように、侍は俯く。それでも鶴屋は息を吸った。指先は冷え、膝にはいまひとつ力が入らない。これが責任を負う感覚なのか、覚悟を決める感覚なのか、どちらでもないのか分からないまま、言った。


「よ、弱いあなたを、認めさせてください」


「……ならぬ」


 質量のある間を空けて、拒絶される。だが鶴屋はもう、言うべきことを言いきっていた。こうなればあとは、力ずくでも押しきる他ない。奥歯を噛みしめる。顎の痛みを確かめてから、歯を離す。下を向く侍に、弱々しくてもあるだけすべての力を籠めて、懇願する。


「お願いします」


「ならぬ」


「わがままだとは思います。それに」


「ならぬ」


「す、すぐには受け入れられないでしょうし、でも」


「ならぬ」


「でも、コジロウさんだって、俺を」


「ならぬと言うておろうが! は、」


 反論をぶつ切りにして、コジロウは勢いよく顔を上げた。あ、と蚊の鳴くような声が、薄い唇の端から漏れる。丸く見開かれた両目から、音もなく涙がこぼれ落ちた。


 鶴屋は息を呑む。目の前で流される涙の理由が、確かに分かった。


 コジロウは今、確実に、「侍」ではなくなっていた。


 鶴屋は何も言えなかった。コジロウも何も言わなかった。重力のような沈黙が周囲に満ち、廃ビルにまた静寂が落ちる。向かい合う銃口も、窓からの光も、宙を舞う埃でさえも、ほんのわずかにも動かなくなった。言葉はなく、動きもなく、放心したように口を開けたコジロウと、それを真っ直ぐに見つめる鶴屋だけが、ただこの場に立っている。


 視線で語らいなどしなかった。互いの心を読み合うこともなかった。それでもふたりははっきりと、たったひとつの決着を感じ取っていた。


「銃を下ろしなさい」


 止まったかのように思えた時間を、澄んだ声が動かす。鶴屋とコジロウは互いの顔を確認し、それからバラバラと、声の方向に視線を向けた。銃を構えたままのふたりに、総長はもう一度、赤い唇を動かしてみせる。


「銃を、下ろしなさい」


 言われるがまま、鶴屋は両腕を慎重に下ろした。総長は変わらず無表情だが、その指示の意図はなんとなく、掴める。視界の外で、コジロウも腕を下ろすのが分かった。ほんの十数秒前まで張りつめていた空気はもう、薄い虚脱感を帯びている。


「お前たちのことは、よく分かった」


 やはり静謐な声の後、銀庄総長は阿潟を床に横たえた。阿潟が怪訝な視線を上げるが、それに応えることはない。コツリ、コツリ、とハイヒールの音を反響させて、裏路地の王者は鶴屋とコジロウに歩み寄った。鶴屋の肩に、なくなったはずの緊張が蘇る。総長はまだ淡く光って見え、冷たい威厳を保っていた。


「お前たちは」


 そこで一旦、言葉が切られた。鶴屋に左手、コジロウに右手を差し出して、総長がふたりを順に見る。一秒ほど遅れて自分が取るべき行動に気づき、鶴屋は細い手に銃を載せた。その銃口がこちらに向いたら、と遅れて恐怖したが杞憂に終わる。コジロウからも銃を受け取ると、総長はそれらを静かに、スーツの下のホルスターに収めた。


 凪いだ湖面のような瞳が、鶴屋とコジロウをもう一度見る。彼女はやはり美しく、現実離れした神秘をその身に纏っていた。が、その圧倒的な静謐にはもう、慈悲深さはない。


「お前たちは、自分が強くなるべきかどうか、改めて考えたほうがいい」


 しなやかに、王者はふたりを突き放す。そしてくるりと踵を返すと、呆然とする三人を残してシャッターの亀裂へ消えていった。コツリ、コツリと、ハイヒールの音が遠ざかる。その硬い響きが聞こえなくなるまで、廃ビルは静まり返っていた。


 ――終わった、のか?


 鶴屋の指から、足から、肩から、全身から、力が抜けていく。


 終わった。この一か月超の波乱のすべてに、今、あっけなく終止符が打たれた。やるべきことをやり終えた。だが実感は伴わず、いや、伴っているのかもしれないがとにかく、疲労がすべてを上回っている。


 脱力した全身が痛み出し、そういえば心音もどくどくとうるさく、脳は突然ぼやぼやとして何も考えられなくなった。頭を支えることさえ辛くなり、だらりと顔を俯ける。


「えっと、すみません」


 すると同時に、沈黙が破られた。気だるげな響きに顔を上げる。慌てて背後を振り返ると、手足を縛られたままの阿潟がモゾモゾと体を波打たせていた。


「これ、ほどいてほしいんですけど」


 あ、あっ、あぁ、と意味のない声を連発して、鶴屋はすぐさま阿潟に駆け寄る。痛む踵でブレーキをかけ、痛む膝を曲げて彼女の側に座り込んだ。痛む喉を咳払いでほぐして、痛む舌先で謝罪を送り出す。


「す、すみません、あの、ほったらかしにして、というかそもそもこんな目に、俺が守らなきゃいけなかったのに、全然駄目で、その、ほんと、駄目で」


 一度言葉を発すると、まるでブレーキが利かなくなった。疲労に隠れていた感情に、なす術もなく振り回される。


 阿潟に対してどんな表情で接すればいいのか、鶴屋にはもう分からなかった。意気込んでおいて誘拐を防げず、助けに来れば怒りに任せた大喧嘩をして、肝心のところで結局阿潟に救われてしまった。


 自分の行いを振り返り、赤面する。すみません、と繰り返しながら手首の縄に指をかけるが、思うように力が入らない。


「いえ、大丈夫です」


 だが今回も、阿潟の答えは淡白だった。彼女は滑らかに首を捻って、鶴屋の顔を横目に見上げる。そして薄く、花の蕾が開くように、紫がかった唇で微笑んだ。


「鶴屋さんが頑張ってくれたのは、分かったので」


 心臓を起点に、鶴屋の体温がぶわりと上がる。どくどくどくと心音が速まり、送り出された血液が疲労を蹴散らしていく。焦燥に似た喜びが胸で爆発し、どういうわけかいたたまれなくなってくる。


 すみません、あるいはありがとうございます、そのどちらかを返そうとするが、下顎が震えるばかりでなかなか声を出せなかった。数秒かけて「ありがとうございます」を絞り出し、俯く。縄に集中し、今度こそ結び目を緩めた。


「おぉー……い」


 すると今度は、嗄れた声がした。鶴屋はまた慌てて顔を上げる。が、視線の先に人影はなかった。眼鏡の縁の少し下から、声が続く。


「あれほどのことを言うてすぐ、それがしを除け者にするつもりかぁ?」


 力なく伸ばされた語尾を追い、目を下げる。コジロウは床にべったりと座って、柱に背中をつけていた。腫れた瞼の下から睨まれ、鶴屋の肩はビクリと跳ねる。上がった体温が急激に下がり、疲労と痛みが戻ってきた。またしても罪悪感に駆られる。


「あっ、い、いえその、すみません、えっと、そんなつもりじゃなくて、ただちょっとその、いや言い訳、になっちゃいそうですけど」


 要領を得ない謝罪に、コジロウは深い溜め息を返す。それからゆらりと、倒れるように天井を仰いだ。少し前までの動揺はすっかり息を潜め、虚脱を全身で体現している。


 彼が今何を考えているのか、鶴屋にはまた分からなくなった。対応に悩んで黙り込むと、呟くような、反響のない声が届く。


「おぬしのせいで、それがしの夢は潰えたのだぞ」


「……すみません」


 言葉を探すまでもなく、鶴屋にはそれしか言えなかった。


 総長は明言しなかったものの、おそらくもう、課題はここで終わりだろう。コジロウの夢を鶴屋が途絶えさせたのは、逃れようのない事実だった。


 だが、これこそが鶴屋の背負った責任だ。そしてこの責任に耐えるために、あんな覚悟を決めたのだった。拳を固く握りしめると、コジロウからの追及は続く。


「それがしの努力が、おぬしのために水の泡と消えたのだ」


「すみ、ません」


「この課題のために、それがしが天使にいくら払うたと思っておる」


「えぇと……」


「どうしてくれる。え? それがしの人生計画を、そっくり狂わせおってからに」


「……すみません」


「すみません、ではなかろうが」


 億劫そうに顔を下げ、コジロウは再び鶴屋を睨んだ。だがその眼光はすぐに消え、気まずそうな色だけが残る。そしてボソボソと、彼は小さく口を動かした。


「おぬしは一体いかようにして、それがしを認めてくれるのだ?」


 躊躇いがちなその問いに、鶴屋はハッとする。


 そうだった。今の自分がするべきなのは、ただ謝罪することではない。コジロウを認めることなのだ。「え、と」と焦りの声を返しつつ、疲れた頭のスイッチを入れ直す。認めると言ったはいいものの、方法については何も考えていなかった。


 褒める、称える、評価する。とっさに思い浮かんだ三つは、どれもほとんど同じなうえにいまひとつ納得感がない。失われた夢と努力と金銭を補うためには、もっと大きな何かが必要に違いなかった。コジロウの言動だけではない、コジロウという人間そのものを、丸ごと認められるような何かが……。


「あ」


 ひとつだけ、思い当たるものがあった。コジロウそのものを認める方法。きっと、おそらく、ただ褒めるより大きな何か。


 だが、それを口にするのはどうしようもなく気恥ずかしかった。心の中で唱えただけで、思わず叫び出しそうになる。そんな自分が情けなかったが、これだけは仕方ないような気もした。生まれてからの二十二年間、鶴屋はこんな提案を、たったの一度もしたことがないのだ。


「そ、その」


 それでも、口に出さなくてはどうにもならない。握った拳を少しだけ緩め、再び硬く握り直す。廃ビルの前に着いたときとも、銃口を向けられたときとも違う真新しい恐怖が、体を包み込んでいた。しかしどうにかそれを押し退け、深呼吸する。


 埃っぽい空気を吸い、吐く。残りわずかの勇気を全部注ぎ込んで、言う。


「改めて俺と、トモガラになってくれませんか」


 コジロウの口が、じわりと半開きになった。ぱちり、ぱちりと繰り返される瞬きを、鶴屋は真っ直ぐ見つめている。つむじから蒸気が噴き出そうなほど、顔全体が熱かった。


 友達との接し方など、これっぽっちも知りはしない。それで相手を認められるのかどうかすら、分からない。自分なんかを夢の代償にするなんて、それこそひどい自惚れかもしれない。


 それでも鶴屋に思いつけるのは、この方法だけだった。鶴屋にはひとりも友達がいない。だからこそ、その存在は、意味は、どこまでも重く大きく思えた。


「ははは」


 弱々しい笑い声が、鼓膜を叩いてすぐに消える。コジロウは柱に背をつけたまま、今度はがくりと俯いた。着物の肩が、深い呼吸に合わせて揺れる。それから再び上げられた顔を見て、鶴屋はついつい、頬を緩めた。


「よかろう」


 コジロウは笑っていた。「侍」の出で立ちとはかけ離れた、気弱な青年の表情で、へにゃりと柔らかく微笑んでいた。


 むずむずむずと、鶴屋の肌が痒くなる。コジロウの返答が、笑顔が、弱さが嬉しくてたまらなくなって、照れくささのあまり俯いた。


 自分とコジロウのふたりでは、強い集団とはとても言えない。それでも、ほんの小さな薄い盾くらいは、これで手にできたような気がした。ひとりで生きていくには弱い、それでも集団には馴染めない、ひ弱な腕でも持てる盾くらいは。


 痒くなる肌が、じわりと熱を持ち始める。


 この小さな盾は、自分に支払われた対価だろうか。その対価を受け取ってもいいくらいには、自分にも価値が生まれただろうか。情けなくても、結局阿潟に救われてしまっても、求められるものに応えられたと思っていい、のだろうか。


 いつかの圧迫面接の記憶が、ふいに脳裏に蘇る。あの場であざ笑われた自分は、どう考えても本当の自分だ。けれど今、コジロウというトモガラを得た自分にもまた、嘘はないのだろうと思えた。


 と、眼下の阿潟と視線が合った。彼女はまた薄く微笑んで、手首をくいくいと動かしてみせる。緩めただけの結び目にハッとして、鶴屋は慌てて縄をほどいた。続けて足首の結び目もほぐす。確かに緩く縛られていて、阿潟の手首にも、足首にも、痣は残っていなかった。


 解放された阿潟は、鶴屋に礼を言って立ち上がる。ふぅ、と息をつく横顔には疲れが見えたが、それでもやはり落ち着いていた。両腕を上げて伸びをする仕草に、鶴屋は思わずドキリとする。


 気恥ずかしくなって視線を逸らすと、コジロウが立ち上がるのが見えた。彼はそのまま、居心地悪そうに袂を握る。そして深く、阿潟に向かって頭を下げた。


「こ、此度はまっこと、申し訳……」


 と、謝罪しかけた震える声を、柔らかな手のひらが制する。不安げに顔を上げたコジロウに、阿潟は淡々と言葉を降ろした。


「いいですよ。謝罪なら今度、高くて大きくて美味しい菓子折りを持ってきてくれれば」


「……面目ない」


「だから、菓子折りでいいですから」


 首を縮めるコジロウと、普段より少し姿勢の良い阿潟。鶴屋はそんなふたりを眺め、ひとりこっそりと苦笑する。


 阿潟の強さは眩しくて、コジロウの弱さは侘しくて、どちらも薄闇に映えていた。自分の陰気な弱さもきっと、この暗さに似合っているだろう。それは嬉しくも誇らしくもなかったが、この瞬間はとりあえず、薄闇に馴染んでいられれば良かった。


「ツ、ツルヤおぬし、どこぞ美味い菓子の店を知らぬか?」


「鶴屋さん。こういうときはあんまり、甘やかさないほうがいいと思います」


 モノクロの景色の真ん中で、コジロウと阿潟が鶴屋に振り向く。疲労は重く、体は痛み、頭もいよいよ働かなくて、後悔と罪はいくらでもあって、力と強さは得られないままで、それでも今は、笑い出さずにはいられなかった。

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