第四章 おれたちの課題
第30話 上機嫌、あの子はどんな機嫌
ジュースのような青空に、白いタオルが重くたなびく。何羽かのスズメの声と共に、自転車が涼しく走り去る。空からの光を反射して、物干し竿が輝いた。秋の陽は、柔らかく淡い黄色をしている。
「今日は、げに良き日和よのう!」
紺色の帯を洗濯ばさみで固定して、コジロウは大きく伸びをした。たすき掛けした袖口から、ひ弱な腕がヒョロリと覗く。生暖かい午前の風に、束ねた長髪がバサバサ揺れた。
「そう、ですねぇ」
空っぽの洗濯ダライを抱えて、鶴屋はぼうっと視線を上げる。物干し竿にきちんと並んだタオル、浴衣、着物に袴に角帯。それらは陽光に輝きながら、石鹸の香りを漂わせていた。
緩絆創膏のとれた額が、降り注ぐ陽光に温められる。痺れるようなのどかさに、沈められるような心地がした。
「秋など好いてはおらなんだが、考え直してやっても良いやもしれぬな。なぁ?」
「え? うーん……まぁ、そうかも、ですかね」
「なんだ、はっきりせんなぁ。いずれか、好んでおる季はないのか?」
「んー……あんまり」
「風情のない奴め」
「いやー……」
鶴屋は曖昧に首を捻る。が、コジロウはそれさえも笑い飛ばした。ベランダのサッシを軽やかに開き、六畳の城に帰っていく。「まぁ良い、ここでちとひと休みしようぞ」その浮ついた声を振り返り、鶴屋は密かに溜め息をついた。開いたままの窓をくぐって、他人の城に今日も踏み入る。部屋は静かな影の中にあり、侍の鼻歌が充満していた。
右目を総長に献上してから、今日で四日目。この四日間、コジロウは異常に上機嫌だった。暇さえあれば鼻歌を歌い、炊く米の量もやや多く、生白いながらも血色は良く、笑顔も妙に溌剌として二枚目であることを思い出させる。
そんな陽気な侍の仕草、言葉、表情がすべて、鶴屋には不気味でならなかった。だが侍の陽気の理由は、言うまでもなく分かっている。
「果たしていかようなものであろうなぁ、『最後の課題』とは!」
コジロウは声を弾ませながら、湯呑みを両手に振り向いた。いそいそと座卓の前に座って、左手のひとつを鶴屋に差し出す。鶴屋はそれを受け取って、侍の対面に腰を下ろした。洗濯ダライを脇に置きつつ、湯呑みの中を覗き込む。薄い緑の水面が、緑茶の香りを漂わせていた。
最後の課題。この「最後の」という一文節に、コジロウは大はしゃぎしているのだ。星の欠片、青いバラ、緑色の石、殺し屋の右目……確かに今までの課題たちは、容易にこなせるものではなかった。険しい道に終わりが見え、望んだ未来がいよいよ近づいているのだから、浮足立つのも無理ないだろう。コジロウの痛々しいまでの切望を、鶴屋は散々目の当たりにしてきた。
しかしどうしても、コジロウのようには喜べなかった。最後の課題。「もう少しだけ考えさせて」という、総長の言葉。それを思えば、これから出される課題は絶対に、これまでで最も困難なものだ。今までのような「まぐれ」が通用するのかどうか、不安は尽きない。
そして何より怖いのは、その難題を乗り越えてまで内定を得たいと思えるのか、自分でも分からなくなっていることだ。
「まぁ、いかな課題であろうと恐るるに足らず! それがしらであれば必定、全うできるであろうがな!」
座卓を湯呑みの底で叩いて、カッカッと明るく笑う侍。鶴屋は愛想笑いを返すが、それ以上は同調できなかった。湯呑みに口をつけ、傾ける。緑茶はまだ熱く、舌先がビリビリと鈍く痺れた。息を吹きかけて茶を冷ましつつ、目だけを正面に向けてみる。曇る眼鏡のフレームの外で、コジロウは難なく喉を潤していた。
「楽しみよなぁ」
噛みしめるようにそう言って、侍は鶴屋に目を向けた。鶴屋は反射的に視線を外す。水面に息を吹く合間に、相槌を打つ。
「です、ね」
コジロウの喜びに水を差すことはできなかった。侍がどれほど目標に執着し、どれほど真っ直ぐに進んできたのか、鶴屋は知っている。それでも目は合わせられないまま、ふぅ、と緑茶をまた吹いた。
殺し屋の長い回想が、未だに頭から離れない。溝口と遠近、ふたりの仲を決定的に裂いたのは、総長が与えた課題だった。だが本当に恐ろしいのは、その課題の内容ではない。
総長はおそらく、遠近と溝口の確執を知っていた。そのうえで彼女は、前回の課題に遠近を「使わせた」のだ。その非情さが、鶴屋は怖くてたまらなかった。そして、
「まっこと、総長のお慈悲には感謝せねばなるまいな!」
総長に従うコジロウのことも、怖い。
「あの総長が、かような機会をくださったのだ。必ずや、そのお心寄せに応えねばな」
その声は、一分の隙もなく柔らかかった。鶴屋はまた息を吹き、眼鏡の曇りが晴れてから顔を上げる。向かいに座るコジロウは、夢見るような遠い目をしていた。湯気を浴びていた鶴屋の頬から、するすると熱が失われていく。
「そう、です、よね。せっかくここまで、頑張ってきたんですしね」
そしてまた、すっかり日和って迎合した。語気の弱さを誤魔化そうと、冷ました緑茶に口をつける。舌にはまだ少し熱かったが、喉を通すのは難しくなかった。
「左様! 最後の課題を達成して、それがしは宿願を叶えるぞ。人並みの、否、それ以上の力を得、まことに強き侍となるのだ。さすればもう、かような暮らしともおさらばよ!」
侍は笑う。それはカラリとして明るく、それでいて煮えるように熱い、狂気すら秘めた笑顔だった。鶴屋は再び愛想笑いして、湯呑みの中身を口に含む。白湯と違って緑茶には味があり、しかしそれでも、薄かった。
*
門柱を抜けて十一歩進むと、スマートフォンが短く震えた。鶴屋はビクリと肩を跳ねさせ、思わずキョロキョロと周囲を見回す。見慣れた車道、歩道、講義棟。通り過ぎるのは数人組の学生ばかりで、怪しげな人影はどこにもなかった。冷静になって息をつき、ポケットからスマートフォンを取り出す。
犯罪者に囲まれているせいか、最近はどうも神経質だ。大学生である自分が、なぜ大学でまで怯えているのか……。溜め息をつきつつ画面のロックを解除する。メールが届いているようだ。心臓がどくんと高鳴るが、次の瞬間にはもう、いつも通りに戻っていた。
隕石の日からおよそ一か月。その間、企業に書類を送ったことも面接を受けたこともない。となればこれは、就活サイトからの「お知らせ」だろう。そう思いつつ通知を開くと、予想はぴったりと当たっていた。「まだ間に合う! 就活見直しセミナーへのご招待チケット!」だそうだ。
就活サイトというものは、どうしてこうもハイテンションなのか。人生そのものに悩む若者を、ビックリマークふたつ程度で応援しているつもりなのか? ギリギリと軋む上下の奥歯は、どう努力しても離れない。
歯軋りをやめられないままで、液晶の光を落とす。ひどい表情になっていることは鶴屋自身にも分かっていた。それでも感情に抗えず、その顔のままスマートフォンを仕舞う。そうして最悪の顔を上げ、瞬間、「へっ?」と奥歯が離れた。
「大丈夫ですか?」
目の前にある阿潟の顔が、こてんと左に傾いた。「あ、わ」と音を連続させつつ、鶴屋は三歩後ずさる。
なんで、いつの間に、大丈夫です、大丈夫じゃないです、さっきの表情を見ていましたか。言いたいことはいくつも浮かぶが口にできない。まごついているうちに、阿潟のほうから答えがひとつ明かされる。
「なんか、すごい顔してましたけど」
さっきの表情はしっかり見られていたらしい。「ぇあー……」と無意味な声を出し、無力な鶴屋はただ俯いた。だが、情けない姿を見せ続けるのも耐えがたい。往生際の悪いプライドに振り回されて、手だけを左右に振ってみる。
「い、いや、その、大丈夫です。全然、はい」
「そうなんですか? 体調悪そうというか、色々やばそうでしたけど」
「いや全く、やばくはない、かな、はい、ので」
「そうなんですか」
俯いた顔を覗き込もうと、阿潟が軽く身を屈める。その拍子にシャンプーの香りが漂って、鶴屋はとっさに顔を背けた。が、今のは失礼だったのではと後悔する。いや違うんです、と言おうと少しだけ顔を上げると、淡白な声に遮られた。
「これから、ゼミ出るとこですよね。あれ、ですか。一緒に行くやつ、しますか」
「……え」
宇宙空間に投げ出されたような、痛みも音もない衝撃に包まれる。一緒に行く? それはつまり、阿潟とふたりで講義室に行くということか? にわかには信じられなかった。
同級生と、しかも憧れの女性とふたりで、並んで歩く。それは鶴屋にとって、隕石が自宅に落ちることより現実味のないことだった。
混乱に全身が熱くなり、脳のヒダというヒダが逆立つ。混乱の中で舌が送り出したのは、い、という頼りない音だった。
「いい、ん、ですか」
「はい。いいですけど」
阿潟はあまりにもあっさりと頷く。鶴屋は体が熱気球のように浮かぶのを感じながら、またしても一音、お、と発した。
「お願い、します」
「分かりました」
こくりと軽く頷いて、阿潟のスニーカーが進み始める。鶴屋の体はふわふわと宙に浮かんだまま、黒いリュックを追いかけた。分かりました、という淡白な響きが、鼓膜の奥で甘く色づく。半歩前を行く柔らかな頬は、今日も美しくつるりとしていた。
スニーカーと革靴の音が、揃わないままで前進する。学生たちの話し声、搬入トラックの走行音、秋風の音に鳥の声。歩道を進み、講義棟とコンビニとカフェの前を過ぎ、ふたりは言葉もなく歩を進める。
初めこそ喜びに浸っていた鶴屋だが、だんだん沈黙が痛くなってきた。阿潟の様子をチラリと窺う。彼女は普段と変わらない真顔で、ただ前だけを見つめていた。話しかけてくる気配はない。視線を革靴の先に落として、鶴屋は意味もなく息を潜める。
最近の阿潟はなぜこうも、自分を気にかけてくれるのだろう。チョコレートを渡されたときには単に浮かれるばかりだったが、今はなんだか不安すら覚えた。
入学式から今までずっと、彼女はひとりだったはずだ。それがなぜこうして、自分と歩いてくれているのか? 隕石に家を潰された、哀れな同級生を心配している……本当にそれだけなのだろうか。それだけで、ここまでしてくれるものなのだろうか?
疑問に引きずり回される。が、このままでいいはずはなかった。せっかく並んで歩いているのだから、何か会話をするべきだ。とはいえ、話題が見つからない。ただ俯いて歩を進め、そうするうちに目的の講義棟は近づき、時間の猶予はなくなっていく。しかし焦るほど脳からは言葉が消えていき、あぁなぜ自分はこうなのだろうと余計な自己嫌悪に苛まれ始めたとき、声がした。
「どうですか、最近」
ハッとして顔を上げる。半歩先から、気だるげな目が鶴屋を見ていた。思わず立ち止まりそうになるが、どうにか歩き続けることと、口を開くことだけはできた。
「どう、というか、えっと」
「あ、すみません」言葉に詰まっていると、謝罪が飛んでくる。「ちょっと抽象的でしたね」
「いっいえそんな。最近は、その……まぁ、それなりに……?」
最近の記憶が列を成し、ずらずらと思考を横切っていく。どれも非常に「濃い」記憶だが、口にできるものはひとつもなかった。はは、と半端な笑いを漏らして、この場を誤魔化そうとする。もしこれ以上突っ込まれたら、一体どうやってやり過ごそうか。緊張の中回らない頭を回していると、「そうですか」と声がした。
「それならいいんですけど。色々、頑張ってくださいね」
阿潟の声はやはり静かだが、どこか硬い響きもあった。前方へ戻る黒い目を追って、鶴屋は彼女の横顔を見る。さきほどまでの真顔とは違う、確かな温度のある顔だった。薄い唇が半開きになり、小さな前歯が覗いている。ほのかに覗いた彼女の隙に、鶴屋は強く惹きつけられる。
「あの」
と、阿潟の口が動いた。鶴屋は我に返り、慌てて目を逸らす。しまった。こんなにジロジロ見るなんて、どう考えても失礼だった。顎から首にかけての肌がサァッと冷たくなっていく。阿潟がどんな顔をしているのか、とても確かめられそうになかった。そうして首から背中、背中から腰までが冷えたところで、鼓膜が震える。
「本当に、応援してます」
決して戻すまいとした目線を、思わず戻した。シャンプーの香りが鼻腔に触れる。すぐそこの横顔はさらに柔らかく、隙を開いていた。
「鶴屋さんはすごく、頑張ってると思うから。すみません、なんか嫌味みたいに聞こえちゃうかもしれないですけど」
はい、ときまり悪そうに言って、阿潟は少しだけ俯いた。冷えた腰、背中、首、額に一気に血液がのぼって、カッと燃えるように熱くなる。ありがとうございます、と自分が返せたのかどうか、鶴屋にはよく分からなかった。
ただ気がつけば講義室の席に着いていて、聞き慣れたチャイムが鳴り響いていて、どうして自分を応援してくれるのか、訊きそびれたことを悔やんでいた。
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