第15話 覚悟が見えたら、長方形
夜が明け、朝になり、昼が過ぎて、また夜が来る。鶴屋とコジロウはただ呆然と日中を過ごし、昨日と同じように、しかし昨日の三倍は重い足取りでミヅキらの店に出勤した。
スタッフルームは昨日の四倍暗く見え、昨日の五倍硬くなった椅子で、昨日の六倍眩しい液晶と向かい合う。今日の業務は昨日の続きと、ターゲットたちにダイレクトメッセージを送る手伝い。そう指示を飛ばすミヅキの態度は昨日と変わらず、しかし昨日の一・五倍はやつれていた。
一方、ニーナは元気そうだ。ごくマイペースに仕事を進め、好きなタイミングで休憩を取り、鶴屋にヘラヘラと話しかける。そのたびにミヅキの視線が刺さるので鶴屋は気が気でなかったが、ニーナはまるで気にしていないか、そもそも何にも気づいていないようだった。
ねぇねぇ、とスーツの肩を叩く左手を、鶴屋は見る。その中指には、琥珀の指輪がしっかりと嵌められていた。その美しさと、昨晩の記憶が鶴屋のみぞおちを圧迫する。
しかしそれでも仕事は続く。ミヅキがキーボードを叩き、ニーナが鼻歌を歌い、アサヒコが音もなくコーヒーを飲み、コジロウが強張った呼吸を漏らし、鶴屋は奥歯を軋ませる。ヒリヒリとした雰囲気の中で時間は過ぎて、液晶の隅のデジタル時計が零時三十二分を示した頃、鶴屋とコジロウはようやく店を出ることができた。
「どうします? これから」
店の裏口を出て十一歩。鶴屋が発した第一声は、漠然とした問いかけだった。深夜の歩道は昨日と同じだけ暗く、しかし昨日の街灯は、昨日の二倍ほど遠くに見える。
「さて、なぁ」
コジロウの台詞も昨日と同じだが、昨日の三倍は疲れていた。草履がズリズリと、呻くように引きずられている。
「よもや指輪の主より、その朋友が強く執心しておろうとは」
「本当に……そうですよね」
昨夜ミヅキが露にした、激しい動揺をまた思い出す。充血した目、歪んだ頬、鶴屋の手を止める細い指。それらすべてが、あの指輪への強烈な執着を示していた。鶴屋はスーツの袖をまくって、掴まれた手首を確認する。ミヅキの五本の指の痕が、まだうっすらと残っていた。痛みが蘇り、身震いする。
「もう二度と、って、言われちゃいましたし」
ぐ、とコジロウの喉が詰まる音がする。「左様な
「そう、ですけど」
そうですけど。繰り返して、鶴屋は何も言えなくなった。「むぅ」と焦った声で唸って、コジロウが鶴屋の一歩前に出る。
「よ、弱気になっておる暇はあるまい! ともかく、ミヅキ殿さえいかようにかすれば指輪については一件落着なのであろう。案ずるな、必定、此度も何とかなろうて」
「何とか、ですか?」
「うむ、何とか、だ!」
侍は大きく胸を張るが、強がっているのが見え見えだった。鶴屋はそうですかね、とだけ返し、また黙る。革靴がひどく窮屈で、歩道を踏むたびに爪先が痛んだ。不安げなコジロウの目から逃げ、俯く。
ミヅキを説得し、あるいは打ち負かし、ニーナからまた指輪を受け取る。言葉にすれば単純だが、昨夜のミヅキを思い出すと、果てしなく遠い道のりに思えた。そしてその遠い道のりの先に、ゴールがあるかも定かでない。あの琥珀で総長が満足する確証はないし、仮に満足したとしても、課題はまだまだ続くだろう。「課題をこなせば、企業に紹介する」。その約束に嘘がないとしても、ゴールはまだまだ見えてこない。
途方もない。そう、途方もない道のりを完走するだけの覚悟が、自分にあるだろうか。
ポケットには、今日も隕石が入っている。こいつがいれば大丈夫だろうか。こいつがここにいなければ、こんな苦労はしなかったのに。ふたつの心がぐちゃぐちゃに混ざり、それでも隕石にすがりたくなってポケットに触れかけたとき、反対側のポケットが震えた。ブーンブブブと、軽い震動。スマートフォンにメッセージが届いたらしい。
電話でもメールでもなく、メッセージ。友人のいない鶴屋にとって、それはちょっとした奇跡に近かった。実家の親からだとしても、そう頻繁なことではない。何やら嫌な予感に襲われ、スマートフォンを取り出す。訝しげなコジロウに「すみません」と断ってから、その場に立ち止まり液晶を点けた。
ロック画面に現在時刻と、メッセージ通知が表示される。そしてその通知の文面を見て、鶴屋の体は、左右に真っ二つになった。
『阿潟です。夜分遅くにすみません。明後日あたり会えますか?』
仰向けに倒れそうになり、ギリギリのところで踏みとどまって、やはりまた倒れそうになる。「あ、え、お」と口が勝手に母音を垂れ流し気が遠くなり、しかし指だけは素早く動いてロックを解除した。それでも内容の変わらない通知に「う」とまた声が漏れていく。
そうしてぐらぐら揺れていると、肩を掴まれて支えられた。だが結局、前後に激しく揺さぶられる。
「おっおい、いかがしたツルヤ! 何ぞ毒でも盛られたか!」
「ち、ち、違います、違います」
混乱の中から否定すると、ぴたりと揺れが収まった。焦りに満ちた侍の顔が眼前に迫る。
「ならば何だ。今の報せのせいか? いかような報せが届けばそうなる?」
「いや、あの、えっと」
その顔と手元の画面を見比べ、鶴屋は説明の言葉を探す。好きな人から、気になってる人から。思いついたのはそのふたつだったが、どちらも気恥ずかしい。かといってどう濁すべきかも分からず、口にした説明には結局、ちょっと余計な情報が加わってしまった。
「大学の、女子からのメッセージで」
「女子!?」コジロウが後ずさる。「おぬし、おなごの連絡先を知っておるのか!?」
侍の両目は、異星人でも見たかのように丸くなっていた。予想外の過剰反応に頬がカッと熱くなり、鶴屋は「いやいやいやいや」と首を振る。
「知ってるっていうかその、お、同じゼミの人なので! ゼミのあの、連絡用のグループみたいなのがあってたぶんそこから見つけて、あの、俺のとこに連絡してくれたんだと思うんですけど」
「な、何を言うておるのかサッパリ分からぬが!?」
「あーそうか、えぇと、そうですよね、コジロウさんはこういうのはよく知らないのか」
「な、お、おぬし、それがしを侮っておるのか!」
「え!? ま、待ってくださいよ、そんなつもりは」
「えぇい、やかましい!!」
夜道に侍の絶叫が響く。そのうるささに再びよろめく鶴屋の額に、ビシリと指が突きつけられた。
「左様な報せ、どうせなりすましの紛い物であろうが!」
と、突き出された指がふにゃりと曲がる。
「……む? 紛い物?」
そのまま引っ込めた指先を、コジロウは自らの顎に当てる。同時にふっと真顔に戻った。突然の変化に置いていかれ、鶴屋は立ち尽くす。「どうしたんですか」と声をかけようとしたが、ど、を発音する直前で侍の顔が上がった。風を切るほどの勢いに仰け反る。何だ、一体どうしたっていうんだ?
コジロウは頬を紅潮させて眉を吊り上げ、瞳を
「紛い物だ」
コジロウの声は、腹の奥底で反響するように震えている。何がですか、と鶴屋は声に出したつもりで、しかし喉からは静かに空気が逃げるだけだった。
街灯はまだ遠く、侍の輪郭は夜の暗闇に滲んで見える。光のない濃紺の中、乾いた唇がもう一度、開いた。
「あの指輪の紛い物を、作ってしまえばよいのだ」
*
「で、僕に頼ろうってわけ?」
回転椅子を回さないまま、くりくりとした瞳が振り向く。前回同様足の踏み場もない部屋には、やはり砂糖と油のにおいが充満していた。鼻を押さえる鶴屋の隣で、「いかにも」とコジロウが頷く。
「此度こそおぬしの力を貸してくれぬか、天使」
指輪の「紛い物」を作る。そう言い出した侍は、鶴屋に相槌の隙も与えず作戦内容を説明した。といっても、今回の作戦も単純なものだ。
まず、指輪の偽物を作る。その後ニーナと密かに交渉し、彼女の指輪と偽物の指輪を交換する。ニーナには偽物を身に着けてもらい、それでミヅキを欺くことで、コジロウたちは平穏に指輪を手に入れる。それが作戦の全容だ。
ニーナ自身は指輪に執着していないので、交渉はおそらく難しくない。今回重要なのはむしろ、偽物の指輪の完成度だ。とにかくまずは、本物のそっくりの指輪を作れなければ話にならない。
ということでその次の朝、鶴屋とコジロウは技術者・天使を訪ねたのだった。鶴屋は正直天使に会いたくなかったが、私情で作戦は止められない。昨夜は必死に阿潟への返信に取り組んでいたので、体はずしりと寝不足だった。
侍の嘆願を聞くと、天使はにっこりと微笑んだ。愛らしい両目のすぐ上で、長い睫毛がふさふさ揺れる。そして陶磁器のように滑らかな指が、デスクを小刻みに叩いてみせた。トントントンと規則的な動きに、鶴屋は確かな苛立ちを見る。天使の内面が「天使」でないことは、前回で身に染みていた。貧乏侍、と言い放った声が耳に蘇る。
天使を頼る。それは当然、金を払うということだ。それがコジロウにできるのか、鶴屋には疑問だった。隣を横目で見上げてみると、侍は青白い顔で天使を見下ろしている。
トントントン、机を叩く音は続く。その忙しないリズムに反して、技術者はゆったりと口を開いた。
「コジロウ。君は何か勘違いをしてるみたいだけど、力は『借りる』ものじゃない。『買う』ものだよ。人間社会っていうのは、供給側から消費された何らかの物質的な、あるいは非物質的な資源に対価を支払うことで成り立ってるんだ。たとえば力を一時的に『借りる』のだとしても、貸し手側からは必ず『貸す』というエネルギーが、つまり非物質的な資源が失われていることになる。ということは力を『借りる』とき、君はその失われた資源に対価を支払わなければならないわけで……」
「七万」
回りくどい嫌味を、コジロウの声が遮った。天使の眉が跳ね、鶴屋も鋭く空気を吸う。今度は顔ごと動かして、侍を見上げた。下瞼をかすかに歪め、口角だけを見るからに無理やり笑わせて、コジロウはじっと天使の瞳を射抜いていた。
「七万円。おぬしが力を貸してくれたらば、これをきっかりと払おうぞ」
そう言い終えたコジロウの喉がごくりと唾を飲み込むのを、鶴屋は見る。
七万円。侍が提示したその金額に、驚かずにはいられなかった。隣のぎこちない表情を見れば、その額の重さはすぐ分かる。
コジロウはそれだけの価値を天使に、この作戦に、総長の課題に賭ける気なのだ。
侍は卑屈に、しかし真っ直ぐに天使を見つめ続けている。その引き締まった横顔が、鶴屋には信じられなかった。
それだけの金を支払って、もし作戦が失敗したら? もし、ミヅキに見破られたら? そもそも献上すべきものが、あの琥珀ではなかったら? 今回の課題を達成しても、次の課題に失敗したら? 課題を最後までこなしても、総長一行に加わることが叶わなかったら? 叶ったとしてもその先に、何も得るものがなかったら?
そんな恐怖を、コジロウは感じていないのか。それとも感じているうえでなお、自らの成功を信じているのか。
これが、「覚悟」だというのか。
「ふぅん。まぁ、金額としては許容範囲かな」
天使はそう言い、ニヤリと笑った。さきほどの微笑みとは違う、陰湿な、油のにおいに似合う笑顔だ。鶴屋には、コジロウの覚悟も天使の微笑みも何もかも、絵画の中の、知らない世界のものに思えた。
「いいよ。対価のぶんだけ、僕も資源を消費してあげる」
それじゃあ、指輪の特徴を教えて。天使は言いつつ、傍らの棚からスケッチブックを取り出した。コジロウに「ほれ」と肩を叩かれ、鶴屋は困惑のまま指輪の形を説明していく。輪の色合いや琥珀の形、中に収まった蟻の体勢。思い出し、言葉にできる限りのことを四苦八苦して伝えていくと、天使はそれを元に指輪の造形を描き出す。そうして鶴屋が説明を終え、技術者の右手がオッケーサインを作ってみせると、コジロウは鶴屋を「ようやった!」と褒めちぎる。
しかし、侍の黒い瞳を、鶴屋は直視できなかった。
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