第9話 いま見えたのが未来ですか
集団の靴音が小さくなり、やがて完全に消えたとき、コジロウがすり足で駆け出した。角を曲がり、マントルの元へ一直線に飛んでいく。
鶴屋もすぐに続こうとしたが、足に力が入らなかった。しゃがんだままの足首の上で、膝がガクガクと震えている。両手で膝の皿を押さえ、どうにか立ち上がって歩き出しても、重心が定まらなかった。
バランスの取れない視界の揺れに、また気分が悪くなる。あぁ、と喘ぐような息が漏れ、慌てて口元を手で覆った。どんなに気分が悪くとも、音を出すわけにはいかないのだ。さっきの一団に見つかった日には、自分はどうなってしまうのか。そう考えると吐き気は強まるが、それもきっと、マントルの痛みには及ばなかった。
よたよた歩きで怪我人の側へ辿り着く。だが、その姿を直視することさえ躊躇われた。眼鏡を上げるふりをして目を逸らすと、気弱な問いが飛んでくる。
「ツ、ツルヤ、いかがする」
名指しで訊かれ、視線を向けざるを得なくなる。おそるおそる目を動かすと、そこには侍の引き攣った顔があった。さっきまで偉そうだったくせに、と思うと同時に、濃い染みのできたズボンが視界に入る。ハッとして唾を飲み込んだときにはもう、すべてを直視していた。
ズボンの裂け目から覗く、赤い血を流し続ける傷口。ぐにゃぐにゃと折れた右手の五指。殴られた箇所を庇うように、不自然な角度に曲がった背筋。鼻血。額から流れる血。ぼうっと空を見上げている、真っ暗な洞のような瞳。
「え……と」
膝がまた震え、鶴屋は手で押さえた。いかがするなんて言われても、こんな状態になった人間を鶴屋はこれまで見たことがない。
「まずいぞ、このままでは、まずい」
侍は蒼白な顔で言う。左右対称な両目の中で、瞳が不規則に震えていた。
「どうにか、い、いかようにかしなければこやつは、こや、こやつの体は」
その声に、鶴屋の恐怖はさらに強まる。コジロウのうろたえぶりは、ある種異様なほどだった。震える瞳はマントルの体を見ているようで、他の誰かをじっと見つめているようでもある。何か、遠い記憶を呼び起こされているような。
ボロボロのマントル、激しく動揺する侍。逃げ場のない混乱の中、鶴屋はふいに右手の指に違和感を覚えた。マントルの手を見ながら、慌てて指を曲げ伸ばしする。全ての指はちゃんとそこにあり、関節も問題なく機能していた。
ヒュ、と無理やり息を吸う。大丈夫、大丈夫だ。俺はマントルではない、コジロウでもない。かすかな安堵をどうにか掴んで頭を回し、中学で習った保健体育の内容を思い出す。
「え、と、まず……そうだまず止血、しないと、だからえっと、何かあの紐みたいな、ものがあれば、あの」
「止血……そ、そうだな止血、そう、であったな……あ、お、おぬしのそれが良かろう!」
わずかに落ち着きを取り戻した様子で、コジロウが鶴屋のネクタイを指す。鶴屋はあっと声を上げ、結び目を解いた。侍の家に置いておくのも気が引けて毎日無意味に締めていたが、こんなところで役に立つとは。解いたネクタイを握りしめ、それを差し出そうとした瞬間、コジロウが立ち上がった。
「よっよしツルヤ、おぬしはここでこやつの面倒を見ておいてやれ! それがしは車を回してくるゆえ!」
「えっ!?」
目を丸くする鶴屋に構わず、コジロウは走り去る。置いて行かないでくれ、と叫ぶこともできない鶴屋はその背中をただ見送って、ネクタイを片手に立ち尽くした。
が、そうする間にもマントルの流血は続く。我に返ってその場にしゃがみ、痩せた太腿にネクタイをあてがうが、どこでどのように縛ればいいのか分からなかった。傷口でコポ、と泡になった血が、弾けて流れ落ちていく。焦燥が背筋を這い上がった。
どうすればいい、どうすれば。このままではマントルが、自分の目の前で人が、死ぬかもしれない。
「もう、いい」
かすかな声が耳に触れ、顔を上げた。額から流れる血の両岸で、虚ろな双眸が鶴屋を見上げていた。ヒュ、と掠れた咳の後、声が続く。
「いいよ、もう、いい。このまま放っておいてくれ」
マントルの目尻から涙がこぼれた。その透明な流れを見て、鶴屋は何も言えなくなる。
このまま放っておけるのなら、そんなに楽なこともない。鶴屋にとってマントルは他人で、死なれたところでそれほど悲しいわけでもなければ、不都合があるわけでもない。むしろこの場で死んでくれたなら、彼のポケットやカバンから、あのドアの鍵を盗んでいける。こんなにありがたいことはない。
しかしそれでも、「じゃあお言葉に甘えて」とは言えなかった。ほんの少しの良心が、圧倒的な恐怖が、ついさきほどの侍の言葉が、それを許さなかった。
――もしマントルの身に何ぞ起これば、責任があるのはそれがしであろうな。
このままマントルが倒れたら、自分にも責任がのしかかる。
「よく、ないですよ」
スーツのポケットからスマートフォンを取り出し、「止血 方法」で検索をかける。適当なサイトをクリックして余計な前置きをスクロールし、書かれたとおりにネクタイを巻きつけ、結んでいく。
この場でマントルを見殺しにすれば、責任を負わされるのは自分だ。鶴屋の両手を動かしているのは、そんな薄情な恐怖だった。コジロウの青白い顔が、マントルの指が折られる音が脳裏に蘇り、全身の神経を駆り立てている。
あんな風にはなりたくなかった。弱く、孤独で、他者に対抗する術も持たない、彼らのようになりたくなかった。もしどうしてもなるのなら、マントルの股間を蹴り上げて去った、あの靴の主になりたかった。強く、仲間と並んで歩けて、他者の責任を問うことができる、あの残酷な者たちのようになりたかった。
「よくないです、絶対」
絶対に、絶対に、責任を取らされたくなどなかった。
ネクタイを結び終えたとき、草履の音が戻ってくる。鶴屋とコジロウはふたりがかりでマントルを担ぎ、車に運び込んだ。後部座席にそっと寝かせ、鶴屋もその隅に腰を下ろす。座席はひどく狭くなったが、マントルひとりで寝かせるわけにもいかなかった。
運転席に収まったコジロウが、すぐに車を発進させる。座席シートについた血に気づき鶴屋がアタフタしていると、「車は処分する手筈ゆえ、案ずるな」と声が飛ばされた。ついでにハンドタオルを渡され、マントルの額に押し当てる。侍がタオルを持っていることに疑問を挟む余裕はなかった。
「どうするんですか、これから」
代わりに、漠然とした問いを投げる。車は左右に細かく曲がりつつ進んでいるが、裏路地の出口はまだまだ見えない。焦ったような唸り声の後、運転席から返答がある。ルームミラー越しのコジロウにはもう、あの異様な動揺は見えなかった。
「ひとまずは、事務所に戻る他なかろうな」
「事務所……」
繰り返しつつ、マントルを見下ろす。血を流し、真っ白な顔で浅い呼吸を繰り返す男が、ソファーに寝るだけで回復するとは思えなかった。
「で、でもやっぱり、病院に行かないと。普通のとこには行けなくても、こう、ないんですか、闇医者みたいな」
「闇医者はいるが銭がかかる。それほどの怪我を直すとなれば、マントルやそれがしなどには払いきれぬぞ」
侍は苦しげに目を細めていた。鶴屋の奥歯がガチリと噛み合う。
医者にすら診せてやれないのか。自分はこのままマントルを置いて、すごすごと逃げ帰るしかないのか?
そんなのはごめんだった。自分にできることはした、これ以上のことはできなかった、そう胸を張って言えるくらいにしておかなくては。
「じゃあ、じゃあ俺が払います! ちょっとだけ貯金があるんで、それで」
「やめろ」
今にも消えそうな声に、遮られた。再び目を下げる。切れた唇をぎこちなく動かして、マントルは続けた。
「やめろ、もう、こんなこと。俺はこれでいいんだ。こうじゃなきゃ、おかしいんだ」
ゴムハンマーで殴られたような衝撃に、鶴屋は息を吸う。
マントルの口調は、これまでのように投げやりではなかった。はち切れそうなほど感情が詰められた、ぐちゃぐちゃとした響きだった。恐怖も、怒りも、悲しみも、何もかもが混ぜ合わされて溶け合って、狭い出口からチョロチョロと流れ出すような、そんな声だった。
マントルはそのまま切れ切れに、咳や呻きを挟みながら、言葉を続ける。
「こんな、ここまで落ちた時点でもう、全部諦めてるんだよ」
「今さら何も、期待したくなんかない」
「なんにもだ、そうだよなんにも、どうせ上手くいきやしないんだ」
「俺が何をやったところで、上手くいかない」
「誰も、誰も手伝ってなんか、助けてなんかくれない、仲間になってなんかくれない」
「そう思ってなきゃ、生きていけねぇだろ、こんなところで」
鶴屋は何も言えず、動けず、呼吸の音を漏らすことすらできなかった。ただじっとハンドタオルを押し当てるばかりで、その下を流れる涙さえ、拭えなかった。
マントルがどれだけ苦しんできたのか、どうして裏路地に生きているのか、鶴屋は知らない。彼の独白に泣けなどしないし、かけるべき言葉も思いつかない。だからといって、他人事だと突き放すこともできなかった。
もしもこのまま内定を得られず、どこまでも落ちていったとしたら。何もかも諦めることで、心を守る道を選んだら。マントルのようにならない保証が、一体どこにあるだろうか。
「お前らに、何も期待したくねぇんだよ」
それはもう、ほとんど悲鳴のようだった。鶴屋はやはり何も言えず、コジロウも口を開くことはなく、それでも車は裏路地を抜けて、快晴の表通りへ出た。
*
マントルを背負い、鶴屋は歩道へ降りる。運転席のコジロウは、小さな頷きだけを残して車道の流れへ戻っていった。このまま車を処分するらしい。
あの人、このまま逃げるつもりじゃないだろうな。鶴屋の頭には不安がよぎったが、よく考えればコジロウが逃げ出すはずもなかった。彼は鶴屋よりずっと激しく、あの青いバラを求めているのだ。今はそれすら虚しく思えて、溜め息が漏れた。
マントルを背負ったまま歩き、裏路地へ入る。小柄とはいえ成人男性の体は重く、非力な鶴屋はあっという間に息が上がった。
とはいえ止まるわけにもいかない。もはや一言も発さないマントルを支えながら、入り組んだ路地を進む。辿り着いたビルの外階段をのぼり、やっとの思いで事務所の前まで来ると、ヒィ、と情けなく気管が鳴った。
切れた呼吸の合間を縫って、マントルに鍵のありかを尋ねる。わずかな間の後、背後から左手が差し出された。その手のひらには、ヒビの入ったキーリングが載っている。そこには二本の鍵がついていた。
「こっちが玄関、こっちが……俺の寝室」
親指が鍵を順に指す。マントルの慎重に片手を離し、鶴屋は鍵を受け取った。寝室、と説明された鍵は小さく、おもちゃのように見える。
「寝室、っていうのは」
「案内する」
疲れた声に頷き、玄関扉を開く。
本当は案内などされなくても、寝室の場所は分かっていた。この事務所に、鍵のかかる扉はひとつしかない。速まる心音が、マントルに伝わらないか不安だった。
靴を脱ぎ、廊下を抜ける。コジロウとふたりで掃除した部屋は、初めて来た日よりはるかに清潔になっていた。ひとまずマントルをソファーに寝かせ、靴を脱がせる。玄関へ引き返して靴を置き、洗面所からフェイスタオルを借りて戻った。マントルの腿からネクタイをほどき、同じ位置にタオルを結ぶ。
と、細い左手がゆらりとあがった。
「そこだ、そこの棚。横にずらせる」
指差されたのはやはり、あの扉を隠す棚だった。鶴屋は驚きを下手くそに演じ、立ち上がる。棚を真横へ引くとやはり、ずらすことができた。「あ……」とわざとらしい声を出してから、寝室の鍵を鍵穴に構える。
「こ、ここが寝室なん、です、ね」
「隠したって、大した避難所にもならねぇんだけどな」
あは、と誤魔化すように笑い、鶴屋は唾を飲んだ。構えた鍵を鍵穴にあてがい、押し込む。軽い凹凸の感触と共に、鍵はするりと飲み込まれていった。
ガチャ。手首を捻る。鍵を抜き、ドアノブを掴み、軋む扉を押し開く。
その寝室は狭く、味気なかった。毛布のかかったシングルベッドが中央に置かれ、その左脇に背の低い棚、右脇に簡易テーブルがある。ベッドの奥の小さな窓から差し込む光が、宙を舞う埃を照らしていた。
淡白で簡素で、汚れた寝室。だからこそ鶴屋は、一瞬で「それ」を見つけられた。この部屋の中で、それが唯一美しいものだったからだ。
ベッド脇の棚に、両の瞳が釘付けになる。吸い込んだ空気が、ぐ、と肺に詰まる。
プラスチックのコップを花瓶に、あの青いバラが飾られていた。
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