37話  役割の名


『そなたこそ、竜のレガリアなり』


神官達はそう言ったきり、ごとんと頭を床に落として目を閉じた。

悲鳴すら聞こえない痛いほどの沈黙の中、立っている人間全ての視線が私に刺さる。

私は全身が心臓になったような、爆音の鼓動を感じていた。


「まさか、本当に……こんな……本当に……?」 


すぐ傍で呆然と立ち尽くしていたレイモンド第一王子が、ふいに恐ろしいくらいの歓喜を噴き出して、ああ! と叫んだ。

床に倒れていた美形の神官の横に跪き、ぎらぎらと底光りする瞳を開いて、未だ目を閉じたままの肩を乱暴に揺さぶった。


「すまない、テラ! 頭の硬い私を許してくれ! 君はいつだって正しかった!」


何がおこったのだろう。私は一体、何者だったというのだろう。


生まれた時から自分をあひるだと信じていた白鳥の雛は、水面に映った自分の姿を見てきっと恐れたに違いない。

自分だけが、まったく異質の存在だったのではないかという、震えるような孤独を噛んだのだろう。

今、痛いほどわかる。

私は、乾いた口で震える吐息で問うた。

誰にともなく。


「竜のレガリアって、何なんですか……?」


ほとんど涙目の私の腕を取ったのは、カエルレウム公爵令嬢だった。


「おとぎ話にでてくる、王家の現実の話です」


流石は高貴の化身のような公爵令嬢というべきか、その手は震えていたし青ざめていたけれど、口ぶりだけは静かだった。


「回帰の王の錫杖を渡す者。真の王を見つけ出すもの。最も美しい虹を選べる者」


カエルレウム公爵令嬢は歌うように囁く。


「戴冠式の時に即位される王陛下へ王冠を捧げ、錫杖を渡すことが出来るのは、女性の大神官だけです。それは、妖精姫を得た回帰の竜をなぞらえてのことでもあります」


彼女にとっては当たり前のことなのだろう。語り口は滑らかだった。

けれど、周囲の神官が全て倒れて、違う口でまったく同じ少女の声を発するという異常事態の中で、まだ幼い少女がこれだけの対応が出来るだなんて、貴族というのはすごいものだ。


「回帰の王が、回帰の竜の生まれ変わりだとするならば、竜のレガリアは、妖精姫の生まれ変わりです」


それとも、カエルレウム公爵令嬢は、そもそも別格なのだろうか。そんな気もする。アースみたいのが普通なのだ、きっと……。


場違いにそんなことをぼんやりと思っていたのは、頭が勝手に、聞きたくないと拒絶して、他人事だと思おうとしているのかも知れなかった。


「竜のレガリアだけが、回帰の王を見定められる。妖精が神官達に伝え、神官はものみな伏してその名を呼ぶ。竜のレガリアとなる者を呼ぶ……」


だって、信じたくないだろう。

現実だなんて思えないだろう。

こんな、こんな──……。


「あなただけが、未来の王を決める権利を持つのです。……ユレイア様」


湖のように青く澄んだカエルレウム公爵令嬢の瞳が、まっすぐ私の顔を射貫いた。

心臓が変な音を立てて、背中に冷や汗が伝うのを感じた。

日常が軋む音が、頭蓋骨の裏で聞こえた気がする

もう二度と戻れない瞬間が、すぐそばに迫っている、そんな気がしてならない。


「そんな……」


わななく唇をつぐんで、それきり何も言えなくなってしまった私の傍で、ゆらりとレイモンド第一王子が立ち上がった。


「ああ、ユレイア!」


彼は、まるでずっと仲の良かった幼なじみとの再会を喜ぶかのように両手を広げて、いかにも親しく私を呼んだ。


「誰が回帰の王なのか、君は知っているのだろう? だから、僕の名も知らないのに、今日、この琥珀宮に来てくれたんだろう? 祖父の反対を押し切って、アウローラ城まで必死に駆けつけてくれたのは、理由あってのことなのだろう?」


満面の笑みで大きく一歩詰め寄られ、私は思わず後じさった。

彼は構わず素早く膝をつくと、私に視線を合わせて胸に手を当て、もう片方の腕を差し出した。


「伝説がここに今、よみがえった。君こそが、私が待っていた妖精姫なんだ!」


第一王子に跪かれて熱烈に求められる、元貧乏貴族の娘。

かつて私もそんなおとぎ話を夢見て愛していたし、胸躍らせていた。

けれども、どうしてか今は、肺を冷たい手で握られたかのようだ。


「ユレイア。君は知っているのだろう? 回帰の王が誰だか……その口で教えてくれ!」



トパーズ色の瞳がぎらぎらと底光りして、私を映しているのに、目が合っている気がしない。

大広間中の人間が私のことを見て、呼吸すらも止めているのが痛いくらいに分かる。


「そ……れは……」


知りません、と言おうとした瞬間だった。

指先に、肩に、つむじに、肘に、背骨の真ん中に。

ありとあらゆる場所が急にカッと熱くなり、ばちばちと、身体を何かが流れる音がした。

魔術を使った時の感覚に近い。知らない熱が私の身体に張り巡らされた管を伝ってめぐり、踊り、筋肉を震わせる。

私の身体がびんっと勝手に背筋を伸ばし、口が勝手に動いた。


「回帰の王、それは、ウィリアム王太子殿下です」


一気にあたりの空気が冷えた。

レイモンド第一王子は、魂が抜け落ちたような顔をして、半笑いのまま固まっている。

私は、私ではない者から勝手に口を動かされた不気味さに、両手で口を押さえて青ざめる。


「……どうして」


レイモンド第一王子の、かすれた声がこぼれ落ちる。

ぞっと背筋の産毛が逆立った。

思い通りにならない怒りを、相手にぶつけなければ我慢ならない人間の声。

そういうのは、一度聞き慣れてしまえばわかるようになるのだ。聞き分けられてしまう。例え前世の経験であっても。


「どうして! どうして! どうして! そのようなくだらない嘘を!」


レイモンド第一王子が、立ち上がって激しく腕を振った。

火山のように噴火する怒りの感情に、ひゅっと喉の奥が固まって動けない。

さあっと視界が白くなり、呼吸が浅くなった。まるで自分が縮んでいくようだ。頭の中がぎゅっと声の圧に押しつぶされて、何も考えられない。

経験的に知っている。

怒りに満ちた雷雲は突然で、いつも私はそいつを前にしてすくんで、震えて、立ち尽くすことしか出来ない。いつだって、いつだって……。


「も、申し訳……」

「なんて失礼な!」 


鋭い悲鳴に振り返れば、顔を真っ赤にしたシレーネ大叔母さんが、靴音高らかに私の元へと大股で歩いてきているところだった。


「そのような発言、王家に対する……いいえ、我がアウローラ王国の未来に対する不敬ですよ!」


肩をいからせて目をつり上げて、淑女にあるまじき大股で走ってくる姿はいっそ滑稽で、まさしく短絡的で意地悪な貴婦人に見えた。


「シレーネ大叔母様……」


けれど、何故かその時、私の肩からは、どっと力が抜けたのだ。


トーラス子爵家で大切に育てられた幸せな日々が、ふいに頭をよぎる。

お姉様と一緒にひまわり畑を仔馬で駆け回って迷子になり、帰り道が分からなくなった日。

私達を見つけたお祖母様は、カンカンになって目をつり上げ、鼻息荒く駈け寄ってきた。あの牛のような形相のお祖母様に、私とお姉様は泣きながら駈け寄って飛びついたのだ。


「私、どうしましょう。私……!」


シレーネ大叔母さんは、呆然と立ち尽くす私の肩を掴むと、耳元でひそかに囁いた。


「足をひねったと言いなさい」


とん、と柔らかく身体を押され、私は安堵と共にへたりこむ。

大仰に身体をくねらせたシレーネ大叔母様は、勢いよく扇子を開いて口元に当て、金属を叩いたような声で叫び散らした。


「なんって馬鹿なことを。お前は私の心臓を潰したいのかしら! さあ、やり直しなさい、今すぐに……! 謝罪し、己の過ちを認めるのです!」


子供を突き飛ばして恥じることもない、ひどく高圧的な口ぶりに、レイモンド第一王子は逆に冷静になったようだった。


「いや、そんな風におどかしてはいけないよ、シレーネ夫人。こんな小さな子供なんだから。間違えることくらい、いくらでもあるだろう」


レイモンド第一王子は、大きく息を吐くと無理矢理に引きつった笑みを浮かべて、改めて私に向き直る。


「けれど、ユレイア。君は勘違いをしているよ。回帰の王は間違えない。何度でもやり直せるのだから……。冥府の王の外套に包まれたならば、それは回帰の王ではない」


あ、と私はまばたきをした。


そうか。生き残った人しか、歴史の話は出来ないのだ。


多分、歴代の回帰の王だって間違えた。

そして失敗して、だからこそ正しいと思える道を選んだ。

でもそれは、最後に回帰の王が生き残ることが出来たからだ。

それ以外の存在の声は、失われて戻らない。


ウィルが本当に回帰の王ならば、ここに居る私達はみんな、間違った歴史を生きているのだ。

でも、誰もそんなことは信じたくない。

今生きている自分が、間違った方の歴史を過ごしているだなんて、思いたくないのだ。


「やり直しは何度でも出来ると私は信じているよ。そうだ。こんなに人が沢山居るところでは緊張してしまうかな。立ってくれたら、王家の席に案内できるよ」


矢継ぎ早に話を進めようとするレイモンド第一王子を見上げるふりをして、私はシレーネ大叔母さんを見た。

本当に大丈夫かと、すがるような目で。

わずかに目線だけで、彼女は頷く。


「あ、足をくじいてしまって……」


だから私は震える声でそう答えたし、見計らったように人垣を割って現れたスペラード伯爵の姿を見て、泣きそうなくらいにほっとした。

全身から不機嫌そうな気配をまき散らしたスペラード伯爵は、当たり前にひざまづいて私のことを大切に抱き上げると、実に慇懃な渋い声で低く呟いた。


「我が孫娘が怪我をしたようです。もったいないお誘いですが、このたびは御前を失礼させていただきたく。お伝えした通り、身体の弱い子供なのです」


態度だけはうやうやしく頭を下げたスペラード伯爵は、ちらりとシレーネ大叔母さんを見てため息をついた。


「シレーネ、後で沙汰を出す。片付いたら執務室に来るがいい」

「まさか……私のしたことを間違いと仰るのですか?」

「その話は後だと言っただろう」


わなわなと唇を震わせるシレーネ大叔母さんも、流石の貫禄で話を片付けるスペラード伯爵も、裏で示し合わせているのだとしたら、本当に大した演技力だ。

きっと、スペラード伯爵は、自分の一族を統率しきれない男だと思われるだろう。シレーネ大叔母さんは、自分の利益ばかりを追い求める女だと思われる。

それが申し訳なくて、悔しくて、でも胸がどうしようもなく熱くなる。

私は大広間中に自慢したくてたまらない衝動にかられていた。


すごい人なのよ。誰が何と言おうと、この二人は、素晴らしい人なんだから!


大人が二人、私のために必死になって駆けつけてくれた。

評判を落としてでも、戦って、抱き上げて、私をスペラード伯爵領の、黒くて頑丈なお城に連れ帰ろうとしてくれている。

それは、全身が崩れ落ちそうなくらい安心して、のべつまくなしに自慢したいくらい、ありがたかった。


「孫が不安がっている、失礼させていただこう」


そう言いながらスペラード伯爵が私の背中をそっと撫でた時、とうとう私の涙腺が壊れた。どっと涙がこぼれ落ち、皺のきざまれた首筋に抱きついて、震える息を吐く。


「か……かえります……。私、黒翼城にかえりたいです……おじいさま……」


細い声で嗚咽しながら、私はスペラード伯爵の、ダイヤモンドの宝石飾りがついた襟に鼻先を押しつけた。

スペラード伯爵は、しばし固まったあと、どうにも参ったような風情で私の背中をぽんぽんと叩いた。


「もちろんだ、ユレイア。心配することは何もない」


老いてなお鍛え上げられた、鉄板のごとき胸板。近くで聞いてもなお静かな声。子供を抱き上げるのに慣れ始めた腕。

雷雨に襲われて安全な小屋に駆け込んだような心地になりながら、胸の中にぞっとするような思考が忍び寄る。


──いつか、この腕が失われる?


いや、いつかではない。

再来年の冬になれば、ウィルは時間を巻き戻すのだ。回帰の王の権能を使って、この歴史をそもそも無かったことにする。

そもそも私は家族を取り戻すために、誰よりもそれを望んでいた。

そのはずだった。


だけど、だけどそれじゃあ、今の私は?


ここに居る、傷ついた私を大切に抱きしめてくれているスペラード伯爵の存在は、なかったことになってしまうの?


今更、恐ろしい予感に身を震わせる私をよそに、レイモンド第一王子が苦々しそうに呻いた。


「スペラード伯爵。わかっているだろう。こうなっては、ユレイアは既にあなたの孫娘だけでは留まらない存在だ」

「どのような価値がついてまわろうと、私の孫娘であることもまた、変わらないことと存じます」

「氷の伯爵が随分と人の親らしいことを言う! 銀麗の騎士にもそう言ってあげていれば、彼も銀の翼を引きちぎり、妖精の国に逃げ出すこともなかっただろうに」


流石に今のは、お祖父様がお父様と喧嘩別れをして家出したのを当てこすられたのだとわかって、涙が滲んだ目でレイモンド第一王子をこっそり睨み付ける。

スペラード伯爵が、お父様と仲直りできなかったことを、どれほど後悔しているかも知らないで!


けれど、スペラード伯爵は、眉一つ動かさず、岩のように落ちつきはらって頷いた。


「愚かな老人の過ちを、多くの人が見ていたことでしょう。長く残るものです、そういった態度は。そしてまた、怪我をして怯える子供をあなたがどう扱うのかも、また長く人々の記憶に残るものなのだと、人生の年長者としてご忠告させていただきたいものです」


レイモンド第一王子がぎゅっと眉をしかめた。

流石に、足をくじいて帰りたいと泣く子供を無理矢理に連れて帰るのは、今後の即位を目指す者として心証が悪いと思ったのだろう。

彼はわざとらしくため息をつくと、肩をすくめた。


「では、元気な大人の方を招集しようか。スペラード伯爵、私の客室に来なさい。それから、聡明なシレーネ夫人も」

「まあ! なんて光栄なのでしょう。身に余るお言葉ですわ。夫と息子も連れてまいります。紹介したいお友達も沢山おりますわ。連れてきても……?」

「シレーネ。人を呼びに行くならば、ユレイアを送り届けよ」

「そんな……」


シレーネ大叔母さんが、心底嫌そうな顔で私を睨む。

私の方はと言うと、うっかり両手を差し出さないように何とかこらえながら、必死で神妙な顔を作った。

シレーネ大叔母さんならば、私を安全な場所に連れていってくれるに違いない。

けれど、レイモンド第一王子はにこやかに首を横に振って、周囲の護衛騎士に目配せをした。


「いや、シレーネ夫人とスペラード伯爵だけだ。あまり大仰にぞろぞろと連れ歩くのは好きじゃなくてね。ユレイアは、私の近衛騎士に送らせよう」


びりっと、スペラード伯爵の腕が緊張したのが分かった。顔だけは変わらず無表情だったが、私の背中を抱きしめる指先に力がこもる。

その警戒を感じれば、にこやかに現れ、うやうやしく両手をあげる第一王子専属の騎士達が信用ならないことは嫌でもわかった。

そして、断ればあまりにも角が立つことも。

思わずスペラード伯爵の肩をぎゅっと握りしめた時、澄んだ声が足下から響いてきた。


「レイモンド第一王子の身をお守りする剣を減らしてはなりませんわ」


カエルレウム公爵令嬢が、近衛騎士の間に入って、ゆったりと貴族らしい笑顔で微笑んでいる。

彼女は小鳥のように軽やかに振り返り、私とスペラード伯爵を見上げて告げた。


「わたくしが、スペラード伯爵家まで送り届けましょう。銀の鷲のようにまっすぐ、静かに」


何故か、スペラード伯爵が息を静かに詰めたのがわかった。

レイモンド第一王子が、悔しそうに顔を歪めている。

スペラード伯爵は、私の護衛騎士のバーナードを振り返ると私を預け、胸に手を当てて深く頭を下げた。


「恵み深き青き湖のごとき慈悲に、感謝いたします」


何か、貴族同士でしか伝わらないやりとりなのだろうか。

私のことを受け取ったバーナードは、すっかり青ざめながらも、使命感に満ちた熱いまなざしでカエルレウム公爵令嬢を見つめている。

混乱する私を置いてけぼりに、何故かバーナードに預けられたまま、素早くカエルレウム公爵令嬢の一行に紛れてしまった。


「では、参りましょうか。第一王子のお呼びとあらば、いくらでも参上いたしましょう」

「この名誉を、末の末まで語り継ぎますわ、レイモンド第一王子」


そう言って、スペラード伯爵とシレーネ大叔母さんは、レイモンド第一王子を誘い、王家の席まで引っ張っていく。

彼らの姿を見送って、カエルレウム公爵令嬢は柔らかに微笑んだ。


「参りましょうか?」


疑問形ではあったけれどそれは決定事項で、彼女は滑るような足取りで会場を銀の魚のようにすいすいと歩いて行く。

バーナードに抱えられたまま、アメリとイヴリンを伴って追いかけた私に、彼女はひそやかな声を投げかける。


「レイモンド王子は、自分と同等の身分をお持ちの方を宴席に呼ぶのを嫌がられます。ですから、今日この会場にはもう、わたくしに許しなく話しかけられる者はおりません」


カエルレウム公爵令嬢は迷いなく大広間を進んだ。彼女の言葉の通り、周囲の貴族達は私達を遠巻きに見守るだけで、近づいてくる気配はない。

よっぽど世間知らずの幼い子供でも無い限り、自分より身分が上の相手には話しかけられないのだから、当然だ。


拍子抜けするほどあっさりと大広間の扉にたどり着き、私達は廊下を歩いた。

多くの護衛騎士達が私達の後ろから着いてくるのを感じたけれど、ちらりとカエルレウム公爵令嬢が手を振れば、それだけで彼らは石化したかのように立ち止まる。

私はちょっとした魔術を発見したと思ったけれど、彼女も魔法が使えるんじゃないだろうか。


そんなことを思っているうちに、長い廊下を抜け、やがて庭の見える扉にたどり着いた。

カエルレウム公爵令嬢は立ち止まると、私を抱き上げるバーナードを振り返って、彼女は厳格な女主人のように指示を出す。


「スペラード伯爵家の馬車を呼んでありますわ。それに乗って、このまま黒翼城までお帰りなさいませ。オーブに居る限り、もはや安全な場所などございません」

「カエルレウム公爵令嬢の、仰せの通りに」


そんなに急なことなのか。

静かに息を飲む私の目の前で、広い庭園の端から、銀の鷲がついた馬車が近づいてくる。スペラード伯爵家の馬車だ。

ちらりと眺めながら、私はおずおずと頭を下げて、カエルレウム公爵令嬢へ首をかしげる。


「あの……」

「わかっています。どうして、わたくしが家門の名をもって誓うほどにユレイア嬢を庇うのか不思議なのでしょう? 名誉をかけた破れぬ誓いですもの」


そんな文化があったような気がする。

確かに、言われてみればウィルから習った気がするし、行儀見習いの先生も言っていたかも知れない。いろいろなことがありすぎて忘れていたけれど。


「ええ……」


神妙な顔をして話を合わせると、カエルレウム公爵令嬢は、くすりといたずらっぽく微笑んだ。


「実は、本当は、わたくしにも分からないの」

「え?」


カエルレウム公爵令嬢が? 

この、幼いながらも全てを計算と調和の元に動いていそうな完璧な淑女が?

目をまんまるくする私に、カエルレウム令嬢が可愛らしく微笑んだ。高貴な人形さながらというよりも、頼れる年上のお姉さんのように、からりと楽しげに。


「でもわたくしの元婚約者殿の名誉を守ってくださったこと、心から嬉しく思っているのです」

「私は、その……レティシャ様のためにああ言った訳では……」

「わかっています。それでもなお、です」


カエルレウム公爵令嬢は、にこりと笑って優雅にドレスの裾をつまみ、お手本のような淑女の一礼をしてみせた。


「どうかお元気で、ユレイア様。次にお会いする時は、こんなに真心で親切にしてはあげられませんわ」


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