第19話 暖炉と老人
「待たせたな」
そう言って、スぺラード伯爵はさして時間もかけずに戻ってきた。
使用人は減っていたが一人ではない。
後ろに、スぺラード伯爵と同じくらいの年の侍女と、お父様より十くらい年上だろう騎士が控えている。
「いいえ、またたきの時間でした」
お母様がよく言ってくれた挨拶を、黒いドレスの裾を持って告げると、スぺラード伯爵はちょっと黙って、軽く頷いた。
スぺラード伯爵の表情が険しいまま一切変わらないので不安だったが、ウィルが「うん、上手上手!」とぱちぱち拍手をしてくれたので、ひとまずは安堵する。
「ついてこい」
スぺラード伯爵が、また一言で歩き出すので、私も一生懸命小走りで追いかけた。
老人とは思えぬほどしっかりとした足取りで、相変わらず早足だ。
ずっと急ぐのは辛かったが、侍女がスぺラード伯爵の方に寄って何かを報告してから、足取りが重くなったので、何とか肩で息をせずに済んだ。
てっきりあの倉庫に戻るものだと思っていたけれど、何故かスぺラード伯爵は三階を素通りして、最上階の四階まで歩いて行く。
やがてたどり着いたのは、屋敷の一番奥、廊下の突き当たりにある大きな部屋だった。
金の飾りがある扉を開くと、中は重厚にして華麗な、威厳のある部屋だった。
信じられないくらい細かな模様の絨毯が敷かれ、艶やかに輝く巨大な机がある。
難しそうな本が並んだ棚が壁一面に並び、磨かれた甲冑が剣を床に刺して飾られている。
「へえー、真面目そうな執務室だなぁ」
流石将軍伯爵、とふむふむ呟きながら、ウィルが面白そうに甲冑の中に入って遊んでいる。
「見て見て!」と楽し気に兜の中から手を振っているが、腕が透けているので騎士は三本腕の化け物になっていた。
執務室と言うことは、ここはスぺラード伯爵の部屋なはずだ。
何か話があるのだろうかと思って立ち止まったが、スぺラード伯爵は振り返りもせずに奥の部屋に行って扉を閉じてしまった。
「あれっ、行っちゃったね将軍伯爵? どうしよう、遊んでろってこと?」
ウィルが小首をかしげながらふわふわ戻ってくるのに、本当に、と目線で応じる。
お母様だったら、どんなに忙しくても一人で執務室に放り出したりなんかしなかった。誰かに言うか、あるいは少し待っていてねと笑って、座っていいソファを指さしてくれたのに。
子爵屋敷の十倍はありそうな執務室で、私が困り果てて所在なくたたずんだ。
けれど、幸いながら放置される時間はそう長くなかった。
「ご案内いたします、お嬢様。こちらへ……」
残っていた老婆の侍女がするすると影のように近寄ってきて、燭台を手に私をうながしたのだ。
ほっとして後に続くと、スぺラード伯爵が消えていったのとは別の扉から、続きの間に連れていかれる。
中は応接間のようで、低い金色のテーブルと、黒いびろうどのソファが、他者を寄せ付けない気配でたたずんでいた。
老婆の侍女は、私を部屋の隅に飾ってあった巨大な馬の彫像の影に連れていく。
そして、ほとんど聞き取れないような掠れた声で「着替えを」と告げて畳んだ寝間着を渡した。
「ありがとうございます……」
私もつられて小声になって受け取る。
渡された寝間着を広げたら、やや古びた誰か大人の女性のものだった。
ぶかぶかで、辛うじて襟ぐりだけが縫い縮められ、袖が折り返して縫い留めてある。
襲撃された子爵屋敷から救出されて、まだ三日しか経っていなかったから、子供用の寝間着がないのは当たり前だ。
それでも、成長する私の大きさにいつでもぴったりで用意してもらっていた、可愛らしいミントグリーンの部屋着を思い出して悲しくなった。
あの女の人の私物だったらやだなぁ……。
そう思ったが、雨に濡れた服を着替えられるだけでありがたい。
着替え終わると、私はまた老婆の侍女に案内されて、更にまた奥の部屋へと入る。
次に現れたのは、薄暗く豪華な寝室だった。
色調が暖かな静物画のタペストリーがいくつか飾られていて、吐く息が白いほど冷えている。
燭台がぽつりぽつりと並んではいたが、その灯りが届かないほどに広い。
重たそうに天蓋が垂れた寝台の上で、ウィルが「おかえりー」とリラックスした様子で手を振っていた。
彼のお陰で、陰鬱な部屋が少しだけ明るく感じられる。
それにしても、さっきからのあまりに気さくな行動を見ていると、ますます彼が本当に王太子かどうか怪しく思えてくる。
私が着替えるのだと察するなり、客室から退散していたから、育ちはいいのだろうが。
部屋の中には先客がいた。というより、私の方が客だ。
スぺラード伯爵が、すでに寝間着に着替えて、暖炉の前にたたずんでいる。
私に背を向け、火掻き棒を使って火を掻き熾こしている。
威厳のある外套に包まれていた時と違って、その背中には、重く、深い、近寄りがたい疲労が漂っていた。
パチパチと薪がはぜる音が静かな部屋でいやに響く。
まさかウィルのように寝台に寝転ぶわけにもいかず、私は寝室の半ばで立ち止まった。
どう声をかければいいか分からなくて、私は長い影を落とす背中を、ただ見つめる。
重たい沈黙の後、スぺラード伯爵は炎から目を動かさずに低く言った。
「まだ夜中だ。もう少し寝ろ」
どこで、と聞きかけて気付いた。
スぺラード伯爵の斜め後ろ。暖炉の前に、古い子供用の小さなベッドが置いてある。
おそらく、使用人の誰かが用意したのだろう。
急ごしらえだったのか、毛布は大人用のものを折りたたんだ上で床に落ちていたが、木箱の寝台とも呼べない板の上とは比べるべくもない。
「あの……これは、私のですか」
「それ以外に何がある」
可愛らしい曲線のきゃしゃなベッドは、重厚で陰鬱なこの屋敷には、あまり似つかわしくない。
誰のものか、この気難しそうな老人に聞いていいのだろうか。
迷っていると、彼は何かを勘違いしたのか、苛立たしげにふーーーっとため息をついた。
「あの部屋に行けと言った者の指示に、そんなに従いたいいか」
そんなことある訳がない。
私はぶんぶんと首を横に振ってから、あれっと思って首をかしげる。
「誰だかわかるのですか」
「調べはついている」
私はまばたきした。
私なんか、自己紹介されたのに誰だか覚えていないのに。
「あの人は誰ですか」
「妻の弟夫婦だ」
「おばあさまの……」
どうやら、私を倉庫に突き飛ばしたのは、もう亡くなったらしい祖母の、弟の妻の方らしい。
ちょっと考えて、私にとって、知の繋がらない大叔母にあたあるのかな、と思い当たった。
道理で誰にも似ていない訳だ。
大叔母さんはそれなりにお年を召していたけれど、スぺラード伯爵の年を考えると随分若い。
会ったことはないけれど、きっとお祖母様はかなり年下で、その上で弟とは年が離れていたのだろう。
そんなことを考えている私の前で、祖父は火掻き棒を片付けると、黙って横を通り過ぎた。
「もう寝ろ。寝ることも仕事だと思え」
それだけ言って、スぺラード伯爵は重たい足取りで寝台に向かい、億劫そうに敷き布をめくる。
歩いている時には気付かなかったが、どうやら膝が痛むらしかった。何度もゆっくりとさすりながら、のろのろと寝台の中に滑り込む。
衣擦れが収まった後に、長く深い深いため息が漏れ聞こえる。
私は急に胸が痛くなった。
ああ、この人は、本当にくたびれているんだ……。
スぺラード伯爵が寝台に入ると、側に控えていた侍女の老婆は、黙って燭台の火を消して寝室を出て行った。
私は暖炉の前に取り残されて、子供用のベッドと、炎に合わせて揺れる影を眺める。
動けなかったのは、何故だか、恐かったスぺラード伯爵が、急にとてもかわいそうに思えてきたからだった。
私は、暖かく包んでくれた家族を全て奪われたと思って、そればかりで気持ちがいっぱいになっていた。
けれど、スぺラード伯爵だって身内を亡くしていることに変わりはない。
あの疲れ果てた老人は、奥さんも、娘さんも亡くして、今、息子夫婦と二人の孫にまで先立たれてしまったのだ……。
暖炉の火が高く燃え、踊っている。
新しく投じられたらしい薪は熾火から燃え移り、赤々と燃え始めているが、部屋が暖まるにはまだかかるだろう。
「寝ないの?」
流石にスぺラード伯爵が寝転がったので寝台から退散したウィルが、私の頭の近くにふよふよと漂ってくる。
私はウィルを振り返ると、口元を手で覆って、ごくごく小さな声で
「香油、どこか、わかる?」
と耳打ちした。
ウィルはぱちぱちとまばたきしてから、くるんと空中を一回転する。
「んー、ちょっと待ってね。探してみる」
そう言って部屋の中を飛び回り始めた彼の後をついて、私も大小の小さな戸棚の近くを歩いた。
ウィルは、戸棚の中に直接頭を突っ込んでは「だいたい貴族ってこういう所に置きたがるんだけどなー」とぼやき、後頭部を掻いた。
私達はしばらく部屋の中をうろついていたが、やがて、
「ああ、あったあった!」
とウィルが叫んだので足を止めた。
彼は、静物画のタペストリーの真下にある、ガラス戸のついた低い戸棚の真ん中あたりから顔を生やして手を振った。
私は口の動きだけで『ありがとうございます』とお礼を言って、ウィルが指さしてくれる戸棚を開く。
花の彫刻がついた箱には埃が積もっていたが、中にはウィルの言った通り、香油の小瓶と小さな皿があった。
私は慎重に皿へ香油を垂らすと、暖炉の前に運び、香油がよく香り立つだろう、暖かな床に置いた。
「へえ。こういう習慣はトーラス子爵領でも王宮でも変わらないんだ」
ウィルが物珍しそうに呟くので、私も頷いた。
子爵屋敷では、冬の寒い時期や疲れているのに眠れない時、こうやって寝室に香油を焚いてくれたのだ。
私は、ちょっと考え直して朝来る侍女が蹴ったりしないような位置までずらしてから立ち上がり、大きな寝台へ向かって指を組んで目を閉じた。
眠りを司る羊の神様。せめて、スぺラード伯爵がよく眠れますように……。
祈りを捧げ終えると、ようやく、用意された子供用ベッドにもぐりこむ。
毛布はほどよく温まって、暖炉からふんわり良い香りが漂ってくる。おかげで、私の肩からも、ようやく緊張が抜けてきた。
居心地の良い場所を探して寝返りをうつと、ふいに下手くそな文字が木枠に刻まれているのが目に入った。
誰かが寝転がりながら爪でひっかいて刻んだのだろう、いたずら書きだ。
『ランドルフ・スペラード』
ふいに、幼いお父様が、この子供用の寝台で眠っている姿が目に浮かんだ。
元気いっぱいで、明日が楽しみで、でも眠れなくなって気まぐれに爪でいたずら書きをした小さな少年。
いずれすらりと長身になることも知らず、まだこの小さなベッドに入る程度の身長しかなかった子供。
彼はもう、この世にはいないのだ。
途端に、ぼろぼろっと涙がこぼれ落ちて、私は唇を噛みしめた。
「え、どうしたのユレイア! どうしたの? 寝台の中に毒蛇でも入ってた!?」
慌てて私の寝台に顔を突っ込み「わあごめん!」と叫んで出て行ったウィルに、私は首を横に振る。
「だ、だいじょうぶ……大丈夫だから……」
もう、今日だけだ。
これで泣くのはおしまい。
私は、明日から絶対に強くなる。
負けない。絶対に負けるもんか。
必ず、必ず力をつけて、あの王弟を苦しめて殺して仇を取ってやる。
それでも、ここでゆっくりと安心して眠った少年が、もうこの世にいないのだと思うと、悲しくて悲しくて。
私は毛布にもぐりこんで丸まり、声を殺して長いこと泣いた。
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