第8話 回帰の竜のおとぎ話


美しい湖面に日差しが反射し、濃淡の緑あふれる木々が湖畔に広がっている。

湖畔の向こう岸にはなだらかな丘が重なり、その上で金色に輝く毛皮を持つ羊が、のんびりと草を食んでいた。


「よく晴れたわね」


木陰の下に敷かれた空色の敷き布に座ってお母様が笑い、私を膝の上に抱き上げる。


私は三歳になっていた。


中年の侍女シーラが「本当によかったですね」と頷きながら、大きなバスケットからクラッカーとレモネードを取り出してくれた。

大人しく受け取って飲むと、爽やかな酸味と蜂蜜の甘さが喉をすべりおちる。

近くの川に瓶を沈めていたのか、とても冷たい。


アウローラ王国の貴族達は、冬から春は王都で過ごすが、夏から秋にかけては涼しく狩りも楽しめる領地に戻り、領主屋敷で比較的のんびり過ごす。

小さいが薔薇の温室のある子爵屋敷も好きだが、こうやって家族でピクニックに行ける時間が取れるのはトーラス子爵領の領主屋敷にいる間だけだ。


「お母様、ベリー摘みに行ってきます! お祖父、お父様、トリアと行きましょ!」


相変わらず元気なお姉様が、小鹿のように飛び跳ねて丘を下ると、ひらりと元気な子馬にまたがって森へ突っ込んでいく。

さっき馬車の中で私に「沢山摘んできてあげるわ」と約束してくれたので、張り切っているのだろう。

お父様とお祖父様が、将来有望な運動神経を見せつける少女を慌てて追いかけていくのを見送って、私は大人しくお母様の膝の上でクラッカーをかじっていた。


「レイア、おいしい?」

「はい、おかあさま。とってもおいしいです」


私はにっこり笑って、いかにも可愛い子供です、という顔をした。


「本当にユレイア様は大人しくて賢くて、良い子でらっしゃいますね」


中年の侍女シーラが、しみじみ頷くので、私も心の中で小さく拳を握った。


やはり、主観。

この世の中は主観で出来ているんだ……!!


私の不気味はこの世の自然。

誰かの常識は私の非常識。


お母様は妖精が見える。

二年前そうと気づいた瞬間、私は即座に思ったのだ。


でも妖精が見えるお母様、どう見てもただの麗しき精霊とかそんなのだよね……? 


私は妖精を見える自分を気持ち悪いと思っていた。

不気味なホラー映画の無表情に霊を見て周囲を怯えさせる、不吉な幼女のようだと自然に考えていたのだ。


だが、お母様は違う。

銀の髪に緑の瞳。たおやかな所作に凛とした背筋。

いつも優しい微笑みを浮かべる彼女が妖精を見られたら、それはもうどう考えても神話の挿絵だ。

湖に現れる、旅人を助けてくれる精霊にしか思えない。


つまり、主観。

すなわち、私がどれ程に、不気味で不自然な知識や能力を持っていたとしても、大人しくていい子であれば許してもらえるのではないだろうか。


天啓のように気づいてしまってからは、私は人生の方針を大幅に変えた。

これこそが、私の今回の人生の必勝法。

そうだ、私は良い子。

わがままを言わない、大人しい良い子だ……!


「お母様、ユレイアー!」


決意を新たにする私に向かって、森の近くから声がした。

木陰に停まった馬車の中から、釣り竿を受け取ったお兄様が手を振っているのが見える。

お母様が手を振り返すと、彼はお祖母様と手を繋いで、律儀に私達のところへ挨拶に来た。


「お祖母様といっしょに釣りに行ってまいります」


父譲りの赤い瞳で微笑むお兄様は、柔らかい茶髪とくっきり華やかな目鼻立ちがお母様にそっくりで、相変わらずお人形さんみたいな美少年だ。

今日は釣りをするが、普段は読書とピアノを愛する、大人しくも賢い子供だ。前世の兄とは似ても似つかない。

珍しく頬を赤くして興奮している彼に、私も小さな手を振り、精一杯愛想良く微笑んでみせた。


「おにいさま、がんばってね」


そう言いながらも、本能的にお腹の底がきゅっと縮んで、笑顔が強ばるのはどうしようもない。

今世の兄たるロビンハートが優しいのはここ三年でちゃんと分かっていたが、前世で兄に虐げられてきたのは三年じゃきかないのだから。


「うん、ユレイアに絶対おいしいお魚を釣ってきますからね。シーラに包み焼きのパイにしてもらいましょうね」

「はい!」


愛されようと必死に作り笑いをしている私なんかより、長男として、末子として家族からずっと受けていた愛情を横取りした私に、分け隔てなく優しく出来る彼の方がよっぽど偉い。

だからこそ、無意識に怯え、懐いてあげられない自分が申し訳なかった。

頭を撫でようとお兄様が延ばした掌を、お母様に抱きつくことでさりげなく避けて、私は機嫌がいいふりをして手を振った。


「マリー。ロビンには私がついてるから、座っていなさい」

「ありがとう、お母様。シーラ、私は大丈夫だからお母様についていてあげて」

「かしこまりました、当主様。大奥様、参りましょう」


お兄様、お祖母様、シーラの順で列になり魚釣りに出かけて行る一行を手を見送って、私もまた木陰で一息つく。

さわさわと湖畔から登ってきた涼しい風が木漏れ日を揺らし、枝に座った妖精達がくすくすと笑う声が降ってくる。


「レイアもお散歩する?」

「だいじょうぶです。まっています」


何しろ、いくら羊毛が主産業ののんびりした領地とはいえ、トーラス子爵家当主の重責を一手に背負っているお母様だ。

目元のわずかな皺すら彼女を美しく見せていたけれど、たまの休みの時くらいゆっくりさせてあげたい。

子供の身体は遊び回りたい、動き回りたいと好奇心に満ちてうずうずしていたけれど、私はその衝動をなだめて、お母様の傍らで、丘から湖をじっと見下ろした。


「きれい……」


澄んだ水面は晴天を反射して、どちらが空か分からないほどだ。

ゆっくりと雲が水面を滑っていき、澄んだ水面を渡っていく。

葦の生えた岩だらけの小島には、人魚がのんびりと日向ぼっこをして寝そべり、隣り合って転がった仲間の髪に花をさしあって笑っている。

かなり遠くに居るのに、小さな鼻歌でも届くのは、人魚だからだろうか。

楽しげな歌声にうっとりとしていると、ふいに、お母様がまったく同じメロディを口ずさみはじめた。


ぎょっとして見上げると、彼女はいたずらが成功したお姉様のような顔をして微笑んだ。


「あら、やっぱりあなたには見えているのね、かわいい妖精姫さん」


私はひそかに悲鳴を飲み込んで、ぱくぱくと口を開け閉めした。


「お、お母様……き、気づいて……?」


私の今までの努力が完全に道化である。

頬が真っ赤になって、変な汗が出てくる。しきりと瞳を左右する私に、こっくりとお母様は頷いた。


「もちろん。トーラス家の子供にはよくあることなのよ」

「そんな……」


自分だけが異常だと思って懸命に隠していたのが馬鹿みたいだ。

がっくりうなだれる私の元へ、梢に腰かけていた妖精が次々降りてきて額なんかを撫でてくれる。


「安心してちょうだい。私も見えるし、うっすらだけれど、お兄様も見えるわ。けれどお姉様は見えないようね。お父様似だからかしら」

「えっと、でも、だって……。わたし、似てないですから……家族のだれも、私と同じ髪の色をしていません」


母の茶髪とも、父の銀髪とも似ても似つかない黒髪を掴んで、私は小さく呟いた。

せめて姉兄と同じように目だけでも似ればよかったのに、これまた誰にも似ない紫の瞳だ。


「あら、それは気になってしまうわね。でも大丈夫よ。お父様のお姉様もお母様も……つまりユレイアの叔母さまとお祖母様ね。お二人は、あなたとまったく同じ髪と目をしていたわ」

「そうなんですか?」


ぱっと顔を上げると、お母様の指先に、緑の服をまとった妖精が楽しそうに腰かけていた。

妖精が、お母様の指にはまった金の指輪を撫でては、嬉しそうに羽をキラキラと震わせる。

こうして見ると妖精の顔立ちとお母様はどこか似ていて、まさしく妖精姫という感じだ。


「ええ。お祖母様はあなたが生まれる前に亡くなられたけど、叔母様は立派な騎士様よ」

「そうだったんだ……」

「ごめんね、教えてあげればよかったわね。ユレイアは心配性だから、自分だけって悩んだでしょう」


見透かされていたことが気恥ずかしくて、そんなことないです、と小さくつぶやいた。

親ってこんなに子供ことを知っているものだっただろうか。

前世のお母さんは、私が泣いて嫌がる虫の名前を覚えていなかったのに。

困って袖口をいじっている私に、でもね、とお母様は柔らかく囁いた。


「あなたがどんなに愛されることを怖がっても、あなたは愛されてしまうのよ。ユレイア」


まるで何もかもを見透かしているようなお母さまの瞳に、どきりとした。

まるで、私が一度生まれ変わったことも、必死で三歳の演技をしていることも、何もかもお見通しのように思えたのだ。


まさか、流石にそれはない。

そもそも荒唐無稽にもほどがある話だし、本当にそうなら、全力で泣き喚いていた一歳時代のことは何としてでも忘れてほしい。


「なんのことですか、お母さま?」

「そうね、お母様変なこと言っちゃったわ。ごめんね、かわいいかわいい、私の妖精姫さん」


全力でとぼける私の身体を膝の上に抱き上げて、お母様は人魚の歌のように澄んだ柔らかな声で囁いた。


「大丈夫よ、大丈夫。もうあなたは大丈夫だからね……」


何となく泣きそうになったのを誤魔化して、私は小首をかしげてみせた。


「お母様、私達に妖精が見えるから、お父様も、お母様を妖精姫さんって呼ぶんですか?」


幸いなことに、お母様は話をそらしたことにも何も言わずに、あれはね、と頷いてくれた。


「妖精が見える人の話じゃないの。ただの愛称よ。トーラス領では、特別に大好きな人のことをそう呼ぶの。このあたりに伝わる昔話に、妖精のお姫様が出てくるから……。そういえば、まだレイアには話していなかったわね。聞きたい?」

「はい」


大きく頷いた私に、それじゃあ、と言ってお母様は穏やかに話し始めた。

それは、こんな話だった。




むかしむかし、穏やかな内海に面した神々の世界に、妖精の国がありました。

人魚が水底の花を摘み、妖精は笑い、銀雪の薔薇が咲き乱れ、黄金の羊が草を食んでいる。それはそれは穏やかで美しい国でした。


神々はある日、美しい妖精の国に変化が無いことを退屈に思いました。

そこで夜空の遠い星を摘んできて、星の魂をからっぽの人形に注いで、妖精の国のお姫様にしたのです。

妖精姫は望み通り、新しい物を次々と生み出して、神々はとても満足しました。


そんな妖精姫に、神々の中でも強い力を持つ、回帰の竜が恋をしました。

竜はその宿命に従って、幾度も死んでは蘇り、失敗を繰り返しながら、とうとう星の魂を持つ妖精姫の心を射止めたのです。


やがて回帰の竜と星の魂を持つ妖精姫は、二人で手を取って旅に出ました。

長い旅の果てにたどり着いた、緑豊かなこの場所で、二人は国を作りました。

二人は長い間幸せに暮らし、死が二人を分かつまで睦まじく暮らしました。

命尽きた妖精姫はトーラスの山奥で眠り、回帰の竜の子供達は国を治めました。

それこそが、私達の今暮らす、アウローラ王国なのです。




つい夢中になっていた私は、目をぱちぱちしながらお母様の方に顔を向けた。


「それじゃあ、回帰の竜はどうなったんですか? 竜は不死身じゃなかったんですか?」

「回帰の竜はね、妖精姫が死んでしまった時、一緒に眠ることを選んだの。代わりに、ウィプス王家に時々回帰の王が現れて、まばゆい平和の時代を作ってくださっているのよ」


なんだか、おとぎ話が急に現王家の話に繋がってしまって、私は唇を尖らせた。

大人の政治の話じゃなくって、純粋な伝説が聞きたかったのに。


「本当にそんな王様がいるんですか? 妖精姫みたいに、あだ名じゃなくて?」


疑り深く理屈をこねる私の額に張り付いた前髪を、お母様は愛おしそうに指でなぞって整えて笑った。


「そうねえ、少なくともヘンリー三世とかアース一世は、回帰の王って呼ばれているわ。古い本にもちゃんと書いてあるし……あら、歴史のお勉強になっちゃったわね」


ごめんなさいね、と笑っていたお母様に、私はぎゅっとしがみついて首を横に振った。

妙に胸が苦しかった。指でなぞられた額が暖かい。


──私、親におとぎ話をしてもらいたかったんだ。


子供の頃に叶わなかった憧れは、胸の中で小さなからっぽの穴になる。

穴の中には、諦めや、子供っぽいと馬鹿にする気持ちが埃のように詰まって、でも自分ではどうにもできない。

時折嫉妬で燃えたりもするけれど、こんな風にふいに叶ってしまうと、切なさが胸に迫って、苦しいくらいだった。


「いいえ。お母様。私……もっと、もっとお勉強したいです」


そして役に立って、良い子ねって褒めてもらいたいの。


「そう? それじゃあ、沢山お母様もお話をしてあげるわ」


息巻く私の決意を柔らかく包まれて、私は困って首をかしげた。

努力は苦しいはずなのに、これじゃあ私に得しかない。


しかめっ面する私をほのぼのと私を見守っていたお母様の耳元で、妖精がこそこそと何か囁いた。

お母様はぱっと顔を上げて、それから明るい顔で手を振る。

つられて振り返れば、森の中から、ちょうど小さな女の子を乗せた子馬が飛び出してくるところだった。


「あら、ベリー摘みのおてんば組が帰ってきたわ。お祖母様達にも声をかけてきましょうね」

「お母様、私が行ってきます。座っていて」


そのままで、と両手を前にだして、私は自分で小さな靴をはき、帽子を被って木陰の外に出る。

丘の上からは見晴らしがいいので、湖の縁に生えた木陰で釣り糸を垂らしている、大人しい釣り組がすぐに見つかった。


「そんなに頑張らなくても、大丈夫よ」


お母様が小さく呟いた気がしたけれど、私はもう、湖に向かって走り出していたから、気のせいだったかも知れない。


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