✴︎✴︎✴︎


 連続通り魔殺人の数字が二十一で止まった。ずっと街の周りを囲うように進行していた事件の、最後の殺人は街中の空き家だったらしい。殺され方もまた他の人たちとは違うらしかった。被害者のもの以外にもう一人分の血が混ざっていたから、そこから犯人の身元がわかるだろうとか何とか。結局のところ素人にはよくわからないが。

 どこから現れたかもわからない殺人鬼はどこかへと消えた。

 僕はそれを、アーロンやエレナからの電話でぼんやりと聞いた。クリスタからは特に何も連絡が無いのだけが少し気に掛かっていた。


     ❇︎


 この街に来る前、かなり荒廃とした生活を送っていたのは自覚している。

 きっと、少年院から出て来て尚、それなりに金を持っていたのが悪かったのだ。あっという間に目をつけられて〈彼〉に追われた。

『あんたさ、自分が恥ずかしくないわけ?』

 そう〈彼〉は最初に言った。

『自分だけずっと生きて、親の金全部持って、虫っけらみたいに意志もなんにも無くただ生き続けて。……なあ、自分からその命差し出せよ。あんたなんかに生きてる価値ないんだから』

 ジャックは殺されかけながら必死で逃げた。色んな場所を転々として、最早自分がどこにいるのかわからなくなって。本当に存在しているのかさえわからなくなって。ただひたすらに思った。

 生きなければ、と。

 まだ「死ぬ」という概念がどこにもなかった頃。

 足がつかないように、ホテルだの宿屋だのは使わなかった。時にホームレスのように、適当な生垣にもたれかかって眠ることもあった。だが移動が連続する生活で、少しでも体調を崩せば命取りになりかねない。停滞もまた死を意味する。

 結局、場所を変えつつ何人もの女たちの家でよく寝床を借りた。変わらぬ生活に、退屈さやら飽きやら虚しさやらを抱えている女は、一定数いる。身体の要求にさえ答えてやれば、夕飯すら用意してくれる女は少なくなかった。

 とぼとぼと適当に歩いて、食料をを単なる栄養調達として適当に口に入れて、名前も知らぬ女と適当に肌を重ねた。気が向けば──というかほぼ無感情に、適当に人を殺した。すれ違いざま、追い抜きざま、追い抜かれざま。何人も何人も。何もかもを適当にしながら、ずっとジャックは凍えていた。肉体の表層から、精神の真髄まで、子供の頃からずっと温度の下がったまま。寒くて、寒くて、寒くて。

 ジャックの抱いた女は皆、身体の消えない痣に気づいただろう。不規則な模様のように青く、そして黒く残った痕に気づいたに違いない。それを見て、何も言わなかった女もいた。静かに舐めたり撫でたりした女もいたし、「これ、どうしたの?」と尋ねて来た女もいた。説明なんてしなかった。余計な同情なんてされたら、その場に凍りついてしまいそうだった。酒乱の親父に小さい頃から殴られていたんだ、お袋は弱すぎて守ってくれなかったんだ、知らないだろうけど俺も何人もの人間を殺して来た殺人鬼だぜ。そんなことを言って何になる? 沈黙されても仕方ない。「辛かったね」なんていう甘くて冷たい言葉、聞きたくもない。所詮、一晩限り利用されて忘れ去られる女たち。

 ああ、だが一人だけ覚えている。……覚えている、というのは違うか。名前も知らなければ、もう顔だってわからない。記憶に残っているのは、長くてふわふわした髪と、痣を優しくなぞった柔らかい唇だけだ。

 夜が明けたのを見てとって、ジャックは布団から抜けて素早く服を身につけた。女が気づかないうちに出ていくのが常だった。もう二度と会うことはない。さようなら。小さく呟いてドアノブに手をかけた時、「待って」と鋭く声を掛けられた。

 ゆっくりと振り向いたら、ベッドから抜け出した女が裸のまま立っていた。正面から掬い上げるようにジャックを見上げていた彼女が、どんな表情だったか──もう思い出せないけれど。

『あたしじゃ、あなたのことを引き止められないね。だけど、いつか、あなたを解ろうとしてくれる人に出逢えるから。だから──死んじゃだめだよ』

 それっきり口を閉ざした女から目を逸らして、そのままジャックはその家を出た。ドアを背にもたれかかって、しばらく動けなかった。

 俺を解ろうとしてくれる人? そんなのいらない。何も知らないくせに、適当なことばっかり言うな。ほんの少しの優しさも見せてくれるな。耳障りだ。苦しめないでくれ……。

 ふらりとジャックは身を起こし、歩き出した。何に続いているかわからない道へ。どこの方角かもわからない先へ。

 霧雨が降るともなしに漂っていた。真っ黒い雲が遠くに見えた。

 もう、心の底から疲れていた。歩くことに、食べることに、殺すことに、眠ることに、息をすることに。だけど他に選びようがないから、思考を停止させてただ足と手を動かした。寒さに身を抱えながら、握ったナイフに支えられながら。

 ──死んじゃだめだよ。

 ──いつか、あなたを解ろうとしてくれる人に出逢えるから。

 ……黙れ。黙れ黙れ黙れ。勝手なことばっかり言うな。

 父と母に支配されていた少年時代から、今日この日まで、死にたいと思ったことはなかった。生きたいと思ったこともない、ただ生きなければと思ってきた。

 ──自分からその命差し出せよ。

 ──あんたなんかに生きてる価値無いんだから。

 生きてる価値も死ぬほどの思いもないんだったら、一体どうすればいいんだよ。

 偶然に一つの街にたどり着いた時、ふと賭けてみようと思った。毛細血管のように細く細く伸びた路地を適当に歩いていたら、ベンチのある真四角の空間に出た。ここで、誰ともわからぬ人を待っていよう。次にここに訪れた人間に、俺の運命を預けてみよう。ただの気晴らしだ。誰も来なくて、凍死するのもまたいい。何も言わずに逃げてくれてもいいし、「危ないやつだ」と殺してくれるなら──本望だ。

 俺は、生きているようで死んでいる俺は、自分じゃ消えることができないから。

 ベンチに腰掛けた。ずぶずぶとそのままどこかへ沈んでいきそうだった。沈んでいってもいいやと背もたれに身を預けた。

 雨は強くなる一方で、髪もコートもいつの間にかぐしょぐしょになっていた。寒かった。顔前で両手を開くと、骨が浮き出るほど肉の薄い手のひらが細かく震えていた。この手で何度刃物を握り、何人の人を殺して来ただろう。最初に手に掛けたのは──両親だ。汚れて穢れた手で、俺は誰かに縋ろうとするのか。虫が良すぎるだろう、まるで人間みたいではないか。

 だから、どうか──。

 目を閉じた。

 どうかここに誰も来ませんように。

 半分眠ったような、意識を失ったような、そのままの状態で時間ばかり過ぎた。雷鳴が遠くで響いた気がした。嵐を感じた。夢──などというものを見る力が残っていたなら、その中でだったかもしれない。限りなく薄い現実と幻の境界線上に、ジャックは人の声を聞いた。

 おい、と。

 呼びかける声にゆっくりと目を開いた。ずっと昔から闇に順応している目で、自分を覗き込んでいる若者の顔を見つめた。

『お前見たことない顔だな。こんなとこで何してんだ?』

 暗がりでも見える奇抜なオレンジの髪とは対照的に、尋ねる彼の顔は明るくなかった。周りが暗いからこその油断。見られていることを意識していないような表情。どこか放心して自分を笑うような、何もかもを投げ出して懇願するみたいな。

『なんとか言えって。どけって言ってるわけじゃじゃねえ、俺はお前に興味があんだよ』

 そう口調だけはやたらと張り切ったように言う。

 ふと真正面──向かい合った彼の背後側で何かが動いた気がした。誰かがもう一人いるのだ、と気づいたところで合点がいった。このオレンジ髪の彼が今の表情を見せたくないのは、俺ではなく後ろにいる人物なのだ。どうして?

 ……まあそんなことどうでもいいか。

 どうでもいい。今はどうでもいい。

 なあ、お前は知るわけないだろうが、俺はお前たちが来ることを待っていたのだ。次にここに現れた人間に、運命を預けようと思っていたのだ。だから。

 だから。

 雨が降る。ずっと全身を打たれてる。ジャックはふらりと立ち上がった。雷鳴が近づいて来て、風を感じる。ああ、嵐になればいいのに。

 俺が出会ってしまって──

『悪かったな』

 ジャック・ブラックは、そう言った。



  ──心臓を擲った瞬間ってあるか。

 アーロン、俺にとってのそれはきっと、あの時だ。

 そしてその選択は間違っていなかった。

 生きるか死ぬか、それが問題だ。

 そう言うのなら死のうと、ようやく思えた。



 あの日のように、ジャックは何をするでもなくベンチに腰掛けている。あの日と違うのは雨が降っていなくて周りが明るいことだ。もう誰を待つでもない。誰にも影響されない。そろそろ殺人犯だということも発覚して警察なんかに追われるだろうが、死んでしまえば関係ないのだ。誰も死後の世界まで追いかけて回すことなどできないのだから。

 美しい日だ。いつも通りの街なのに綺麗だ。ようやく動きやめた連続通り魔がここにいるなんて、誰も知らず。考えもせずにただ生きている。

 今日は火曜日じゃないから。

 彼らはここには来ない。

 そう思っていた。なのに──。

「やあ、ジャック。なんとなくいる気がしたんだ」

 気がつけば目の前に、もう見慣れた青年が立っていた。瞳が空を映して青っぽく輝いていた。久しぶりに見る姿だ。

「帰って来たんだな、シアン。いつの間に」

「たった今。朝一の電車で帰って来て、そのまま直でここまで。色々クリスタたちの様子も気になってたし。でもまあ、今日はジャックに会いに来た感じかな」

「どうして」

「それもなんとなく、じゃダメ?」

 にこにこと笑う彼の顔に、ふとたくさんの表情が浮かんでいるのに気づいた。眩しさ。諦め。清々しさ。温かさ。哀しみ。愛しみ。それらを持って尚自然に笑う強さ。初めて面と向かい合って会話したあの時の、敵意と戸惑いしかない表情とは全然違う。人のために笑って人のために怒る、その安直な表情とも違う。

 シアンは実家帰りしてる、とアーロンが言っていた。あいつは家族と色々あるから、ずっと長い間顔も見せていないのにと。色々あるって言っても、あいつも悪く無いしあいつの家族だって悪く無いんだ。どこか歯車が合わなかっただけなんだ。そう、尋ねてもいないのにアーロンは色々言っていたから、彼にも感慨深かったのだろう。

 アーロンは。シアンに見せまいとしていた表情を、今なら見せることができるのだろうか。今のシアンになら。

「いや、いいよ」

 ジャックは答えた。シアンがうん、と頷いて隣に座った。「この機会に言いたいことがあるんだ」と言うから「なんだ?」と聞いた。いつも通りの牧歌的な会話だ。どこか自然で不自然。

 シアンはジャックの顔を見つめて、少し真面目な顔をした。ジャックが見返しても、その視線はぶれることなく。

「ありがと」

 小さく、だけどはっきりと、彼は御礼の言葉を謂った。目が透き通りそうなほど青く見えた。だけどしっかりと。消えたりしない、彼はここにいる。生の光を宿している。

「何が」ジャックは尋ねた。自分でも驚くほど抑揚のない声だった。……違うな。抑揚を押し殺した声だ。本当はたくさんのものが滲んだ声だ。それに気づいたはずもないが、シアンはまた少し頷くようにして話し出した。

「ジャックがここに来てから──僕らの仲間になってから、僕たちは変わったよ。何が変わったかって聞かれたら上手く答えられないけど……でも確実にいい方向に向かい出した。だから、ありがとう。ジャックのお陰だよ」

「俺は何もしてないが」

「それでいいんだよ。横にいてくれるだけで良かったの」

 そんなこと、とジャックは呟く。

 考えなしに笑って、たまに酷く悩んで悲しんで、それからまた呑気に笑って。知らないだろうな。考えもしないだろうけど。

 変えることが救うことだというのなら、俺がお前たちを救ったんじゃない。俺がお前たちに救われていたんだ。ただ近くにいただけで。

 ありがとう、ねえありがとう。そう言ったら首を傾げられるには違いないけど、感謝はしているのだ。死神だけれど、人外だけれど、それでも。

 これ以上を求めるなど自分本位が過ぎる。

 だけど仮に、全てを曝け出して助けてと今声を上げたなら、彼らは手を取ってくれるだろうか。

 不意に自分の過去の何もかもを告白してしまいたくなった。上手く喋ることのできない、出来損ないの子供。酒を飲んで暴れ怒鳴り散らし、妻にも息子にも暴力を振るっていた父。ぬいぐるみを抱える少女のように、なす術なくジャックを抱きしめていた母。全身に伝わる震え。泣き声、罵倒の声。鈍い全身の痛み。そして、思い。

 ──もう、ゆるして。

 何度思ったことか。だが声を上手く上げられなかったジャックは、どうにもできなかった。現実は、声なき子供の叫びを許してはくれなかったのだ。……なあ、聞いてくれ。

「シアン」

 短く呼びかけた。彼は何も言わずに微笑んだ。聞くよ、と目が言う。

 俺は。

 俺は俺は俺は。

「殺人鬼なんだ。今まで何人の人を殺したかわからない。最低で最悪で、どうしようもない存在なんだ」

 だから。

 だから──?

 助けて。その言葉は容易く空中分解し、粉々になる。なあ、俺のことを仲間だと言ったな。じゃあ俺のことを愛してくれるか? 愛しているよ、だから愛してくれよ。……そうじゃなくて。

 俺のことを嫌ってくれよ。

 心の底から憎み、軽蔑し、嫌ってくれ。死ねと言ってくれ。そうしたら迷わず俺は死ぬから。

 だがシアンは虚を突かれたように表情を止めてから、やがてまた口角を緩めた。

「そしたらとっくに捕まってるよ」

「目に入った人間はすぐに殺すのがルールだったから、目撃者は残らない」

「ふうん。人を殺すのってどんな感じ?」

 彼は恐れる様子もなく、淡々と聞いて来た。ジャックも形ばかり苦笑した。

「まるで自分が野生の狼になったみたいな感覚になるんだ。牙で、無差別に切り裂く。殺される側の奴らには区別なんてまるでない、柔らかくて生ぬるい羊の群れでしかないんだ。──なあ、俺はそんな人間でさえない殺人鬼で、死神なんだよ」

 それがわかっても、お前は俺の前から逃げ出さないのか? 言外に尋ねたジャックに、シアンはまた「ふうん」と呟いた。それからにっこりと笑う。

「そんなこと、──……僕はわかってるよ。全部わかってる。でもその上で、一個だけわかることがある」

 ジャックは人間が好きなんだよね。

 そう、彼は言った。

「わかるんだ。眼差しとか、ちょっとした仕草とか。口約束なんてものをずっと守って火曜日にはいつもここに来てくれた。僕も人間ってすごく好きだから、わかるよ。ジャックが仮に人を傷つけることがあるしたら……きっとそれは、本当に大切なものを守りたいからなんだと思う」

 そして悪戯っぽく笑う。

「人間好きなジャックは、多分誰よりも人間だよね。殺人鬼なんかじゃないよ。鬼なんかじゃなくて人だ」

 人は人と繋がらなきゃ生きていけないんだ。ほら。マイナスかけるマイナスはプラスになるでしょ? だけどマイナスを持っていない人間なんていないから、だから僕らは引きつけられるように出会ったんだ。偶然に、必然に、運命的に。

 出会えたから。

 僕はジャックのことがすごく好きだよ。


     ❇︎


 忍び込んだ空き家は夜でもないのに暗くて、それから血の匂いがした。クリスタは気丈に顔を上げて、一方では顔を歪めて、ビニールシートで遮られた部屋の中に入って行った。

 籠り腐ったような臭い。圧倒的な暴力の振るわれた形跡。破れた窓ガラス。壁の一部に弾のめり込んだような跡があって、周りをテープで囲ってあった。茶色なような黒いような床の染みが意外と少ないのは、きっと既に大まかには片付けられた後だからだ。だって人間一人の命を奪うだけの失血がこんなものであるはずはないのだ。目の前がぼやけた、と思ったらすぐに溢れた。じわじわと流れる熱い涙は、塩辛かった。

 そう。ここで起きたのは殺人事件だ。

 殺した人間も殺された人間も、勘づくものがあったからクリスタはここにやってきた。そして探している。自分のその予感が当たっているという証拠じゃなくて……むしろそんなわけないと裏付けてくれるものを。そうでしょ?

 殺したのは彼じゃないし、殺されたのは〈彼〉でもない。そうよ。そうに決まってる。連続通り魔事件は、私たちの過去に何も関係なかった。ここで起きたのは、不謹慎かもしれないけど私にとってはどうでもいい殺人事件。ねえ、そうなんでしょ⁉︎

 だけど、クリスタは見つけてしまう。

 それは予感が当たっていると言う証拠。見つからないで欲しかったもの。どこにもなかったと信じたかったもの。

 目を止めた床の一点。血の染みから少し離れた、埃だけの積もった場所に、黒々とした文字──〈21〉。ガタガタと震えて、だけどしっかりと力を込めて書かれた数字。

 よく見れば周りに汚れた手をついた跡がついているし、油性ペンが無気力に転がっていた。その全体を、テープで銃跡と同じように大きく囲んであることに、ようやく気づいた。

 彼が〈彼〉を殺した。ここで。

 ……〈彼〉は殺されてしまったわ。

 デビルの亡骸の近くに同じ数字が書かれていたのは、ショックで呆然としつつもちゃんと見ていた。そしてその数字が全く同じように連続通り魔の最後の事件現場に残されていたこと。それが意味することは、たった一つ。

 涙が床に溢れるのも、床の汚れに服が触れるのも気にせずに、クリスタは座り込んで泣きじゃくった。哀しくて、哀しくて、哀しくて、絶えない嗚咽を上げながら、何かを祈っていた。

 それはクリスタが知る由もないことだが、ジャック・ブラックと同じ場所で、真逆のことを。

 祈り。

 その対象は一体誰なのか。


     ✴︎✴︎✴︎


 クライマックスはやってくる。

 運命に抗って、宿命を果たそうとして、踠き足掻いた僕らの日々に、結末が振り下ろされる。

 親友って何?

 友達って何?

 僕らはなんで生きているの?

 僕らの関係は何だったの?

 僕は彼に何かを残せたの?

 彼は彼女に何を求めるの?

 ──全ての答えに。


     ❇︎


 カーテンを開けると、上っていく最中の太陽の光が差し込んだ。朝が来たな、とちょっとだけ感慨深く思った。そして朝は来るのかな、きっと来るさ、夜は明けるさとアーロンは自分に言い聞かせた。

 顔を洗って着替えて、トーストにハムエッグを乗せただけの朝食を食べて、歯磨きをして、思い立って伸びた髪をジョキジョキと切って、それから身なりを整えて。

 覗き込んだ鏡の中の自分は、僅かに青ざめていながら、いつも通りに不適な笑みを浮かべていた。緊張している? 大丈夫だっての。お前は一生懸命やってきただろ、……信じてるよ。

「行ってきます──いつも通りやって来ます」

 ドアを出てから、一度振り返って誰もいない家に向かって宣言した。ギターケースの取っ手を握る手に力を込めた。一度頷いてから、くるりと安アパートの寂れた廊下を歩き出す。エレナとはいつものカラオケ店での待ち合わせだ。午前中一杯練習して、それから会場へと向かおう。

 今日は番組でのライブの日だ。

 自分のこれからを決めるかもしれない日だ。



 ジャックのことを、完全に疑っていないと言えばきっと嘘になる。もやもやした霧のようなものは残っている。

 だけどどうしようもないのだ。ただ、信じてると言おう。

 あいつはデビルを殺してねえよ。俺たちを傷つけるような、そんなことはしねえよ。でも仮に──。

 アーロンは強く首を振った。それを考えることは俺が引き入れた仲間への冒涜だ。過去の自分に対する冒涜でもある。あいつのことはあいつがどうにかする。自分にできることは、ただそれをちゃんと見つめて受け入れること。

 学園時代、勉強なんて碌にやってはいなかったけれど、それでも一度だけ真面目に考えたことがある。生物の授業か何かだ。ゾウなどの体の大きい動物ほど寿命は長くて、それでいて心臓の拍動は遅い。反対にネズミなんかの体の小さい動物は寿命が短くて拍動が速い。そんなことを学んだ時。

 寿命が長いと拍動が遅くて、寿命が短いと拍動が速いなんて、それってまるで一生に心臓を打てる数が決まっているみたいだと思ったのだ。勿論計算してみれば──面倒だからそんなことはしなかったが──その仮説は全く違うということがわかるのだろうが、それでも面白いと感じた。ゾウもネズミも、他の動物たちも、人間も。死ぬ時に向かって鼓動する。時間を刻みながら生きている。

 そしてそれは今も。大袈裟だろうが、俺は死ぬその瞬間まで、一生懸命に心臓を鳴らそう。

 限りなく散らばったパラドックスの中を、今日も行く。


     ❇︎


 夕方になったらアーロンとエレナのライブを見に行く。だけどそれまでは暇だ。二人は練習してるだろうから無理だけど、他の誰かしらに会わないだろうか、などと思ってシアンが〈いつもの場所〉近くの路地を彷徨いていたら、ちょうど見知った顔を見つけた。

「クリスタ!」

 呼びかけると、彼女は弾かれたように顔を上げてシアンの方を見つめて来た。

「シアン……帰って来てたのね……」

「……?」

 声が出ないのは、彼女があまりにも打ちのめされたような、怯えたような顔をしていたから。会っていないとはいえ二週間程度。それにその間に何度か連絡はしたのだ。電話口では割と元気そうな声だったのに。

 から元気ってやつだとしたら。

 僕は気を使って電話したつもりで、クリスタに気を使わせていたのだろうか。

「……っ」

「……違うのっ」

 黙り込んだシアンに、クリスタは慌てたように手を振った。違うの、違うの。自分でも何が違うのかわからないような虚ろな様子で繰り返す。何も見えていないみたいに、何も聞こえていないみたいに、目の中でぐるぐると暗いものが渦巻いているのを見て、シアンは我に返った。出せる限りの鋭い声で怒鳴る。

「クリスタッ!」

「っ!」

 ぴしゃりと頬を叩かれたみたいにクリスタが瞬きをして、それからくしゃっと顔を歪めた。

「あのね……」

「うん。落ち着いて、話して」

「ジャックのこと、探さなきゃいけないの。消えちゃう。引き止めなきゃ、私が──私たちが」

 シアンはクリスタに近づいて、目を覗き込むようにして頷いた。ジャックになら昨日会ったよ。平気。彼は消えたりしないから。ちゃんとこれからも僕たちと一緒にこの街にいるから。だけど……クリスタがそうしたいと言うのなら、それで安心できるのなら彼に会いに行こう。

 わかったよ、と声に出して呟く。

「ジャックのこと、探せばいいんだね。できる限り早く」

 クリスタは目を見開いた。

「理由を、聞かないの……?」

「ん、理由?」

 シアンは軽く首を傾げた。なんと言ったものか、と考えてから、結局笑って誤魔化す。

「別にいいかな。クリスタにとっては探す理由があるなら、それでいい」

 ややあって、クリスタが両目をきゅっと瞑った。小さく礼を言ったそこに、笑顔の失敗作があった。細い線が頬を伝って落ちる。シアンは気づいた。彼女の目の周りが少し赤くなって、腫れていた。一晩中泣いてたのかな。どうして君が泣かなきゃいけないのだ。

 いいよ。うん。

 理由は聞かないから。

 ジャック・ブラックを探しに行こう。



 散々探した。

 ジャックと連絡先を交換していなかったことに今更気づいた。そもそも彼が電話機なるものを持っていたかさえわからない。持っていなかったんじゃないかな……。クリスタのはとこの〈彼〉から逃げてこの街に来たという彼は一体何を持っていて何を持っていなかったのだろう。あれ、そういえばそうか。ジャックがクリスタとそのはとこの家族を殺したのだ。なのに僕は昨日、「俺は殺人鬼だ」とジャックに言われて、わかってると答えたんだよな。ジャックは人間が好きなんでしょ、と。人を傷つけるならそれは大切な誰かを守るためなのだと。

 それが本当だとするのならば。

 ジャックが守ったのは誰だったのだろう。

 路地という路地を見て回って、街中歩いて。不思議と疲れはしなかった。何故だか子供の頃──今もまだ子供ではあるから、過去のこと──を思い出した。

 例えばずっと小さかった頃。弟と共に虫取り網を背負って、近所の公園や小さい山を冒険した夏。

 例えばもう少し大きくなって、初めてこの街に来てひたすら歩き回った雨の日。

 例えば学園を卒業して、立ち入り禁止の森の中へ四人で飛び込んで行ったあの時。

 疲れも、足の痛みも感じない。迷子になるのではないかと不安になりながら、どこか漠然とした好奇心のようなものに突き動かされながら、シアンはいつだって歩いている。木々の枝付き、街の造形、色の変わりゆく空、生きてそれぞれに〈物語〉を持った人々。それらの一つ一つに感動するなんて変なやつだと思われても仕方ないが、落ち着くというか気休めになるのは事実だった。

 変な個性を持っているようで、案外どこにでもいるような、どこにもいない僕は──。

 ──ちゃんと自分というものに折り合いをつけて、少しずつ進歩していく。

「……」

 クリスタが何も言わずに隣でスッと背筋を伸ばした。横目に表情を伺ったが、少なくとも表面上平静を保っている。気がつけば街を一周して、いつもの路地へと戻って来ていた。

 歩かなかった道が無いぐらいにはどこも見て回ったし、恐らく拠点としていたのではないかと思う宿泊所では「こんな人を見ていないか」という具合に聞いて回った。だがわかったのは、小さくて古そうなカプセルホテルを、夜明けとほぼ同時に引き払っていたらしいことだけだった。もぬけの殻で。手遅れで。

 ジャック・ブラックは、街にいなかった。

 二人がかりでどれだけ本気で探しても、見つからなかった。

「シアン」

 クリスタは視線を遠く前にやったまま、声を発した。

「……なに」

「あと一箇所だけ、私には当てがあるの」

 連れてってくれる……? そう、彼女は呟くように問いかけてきた。南中を越えてじりじりと降りる方向に向かい出した陽が、顔半分を明るく照らしていた。

『行きたいところがあるんだが……少し付き合ってくれるか?』

 言われたことがあるからこそ、クリスタの当てというのがどこだかわかる気がした。ねえ、あそこなんでしょ?

 それはジャックとクリスタの始まりの場所だ。

「もちろん。──一緒に行こう」

 元高級ホテルであり、廃墟。トーレ・ディ・アマネセルに。


     ❇︎


 アーロンに続いて改札を通ろうと、電子カードを機械に当てた丁度その時に「あっ!」という声を後ろに聞いた。

「──え」

 エレナが驚いて振り返ると、クリスタとシアンが駅に入って来たところだった。走るか歩き回るかしたのか、頬が紅潮していた。どうしてここに、と言いかけたところで改札の向こうでアーロンが笑った。

「エレナ、とりあえずそこで止まってないでこっち来いよ」

「あ、そ、そうですね」

 カードがピッと鳴ったところで立ち止まっていたので、かなり間抜けなことになっていた。改札口が閉まりかけるギリギリで通り抜ける。シアンたちもついてきた。天井に取り付けられた電車の発車時刻を知らせる掲示板の下で、四人で向かい合った。

「──で、お前たちは何やってるんだ?」

 訝しげでありながらも、また笑いながらアーロンが尋ねる。「一応、ライブに来てくれるつもりなら時間がかなり早いぜ? 俺たちは打ち合わせだの何だのがあるけど、観客の入りは多分一時間ぐらい遅い……」

 その彼の声に被せるように、シアンがガッと顔を上げて叫んだ。

「ごめんっ‼︎」

 申し訳なさそう、というよりはひたすらに必死な声で彼は謝った。本当にごめん。

「というと……?」エレナが首を傾げると、それまで黙り込んでいたクリスタが俯いて胸の前で手を組み合わせた。強張った顔で微笑む。

「ごめんなさい。今から私、行かなきゃいけないところができた」

「──どこなのですか……?」

「トーレ・ディ・アマネセル」

 エレナはアーロンと顔を見合わせた。突然の聞いたことがある、という程度でしかない固有名詞に、彼はぽかんとして目を見開いていた。

「どうして⁉︎」「えーっと、じゃあ会場とは真反対だな?」

 そう、とシアンが頷く。「だから、二人のこと、観に行けない」

 彼らの心配はエレナにとってよく理解できるものだった。二人の晴れ舞台を観に行けない。それは裏切り行為かもしれない。そうでないに違いないし、そうでないと信じているけれど、それでも、僕たち、バラバラになっちゃわない……? そうやって向かう方向ばっかりどんどん違くなっていって、それでも友達でいられるんだよね?

 ゴォォォォ……と頭上のあたりで風を巻き込む轟音がした。ホームを快速列車が通り抜けているのだろう。聴覚がおかしくなったみたいに、キーンと高い音まで頭の中で響いて、そしてやがてまた静かになった。周りの音が戻ってきた。

 掲示板が光って、乗ろうとしている時刻の電車がまもなく来ることを知らせる。点滅する文字の幾つかは、電球が壊れているらしく、ところどころ欠けている。チカチカと、それでも強く光を放つ。

「……あのさ」

 気詰まりな感じの沈黙を打ち破って、アーロンが声を発した。三人同時に彼のことを見たが、アーロンはその視線にたじろぐ様子もなく真顔で一度瞬きをした。

「謝ってるけどさ、でもその用事ってどうしても行かなきゃいけないと二人が思ったんだろ?」

 クリスタが神妙な顔で頷いた。「……うん」

「なんとなく思ったのは、ジャックになんか関係あるんじゃねえかってことなんだけど」

「……それも、そうよ」

 アーロンはやっぱりな、と納得する表情になった。〈21〉とブラックジャックを関連づけた説を彼に話したのはエレナだ。だからわかる。今、ジャックとわたしたちの関係は佳境にある。

 いや、もしかしたら。

 わたしたち四人の関係も、かもしれない。

 アーロンがクリスタから今度はシアンに顔を向けた。シアン、と。彼は……勇気づけるように微笑んでいた。無意味な他人のための笑顔など嫌いなのに、エレナは何も言えなかった。本来今、励ましを欲しているのは彼であること、彼が今、ずっと望み続けてきた初めての機会を前に緊張と不安で一杯のはずであることを知っているから。

「ジャックに俺たちのこと説明した時、お前が言ったんだろ? 俺たちは四人でひとつの仲良しグループなんかじゃない。〈四人でよっつ〉なんだって」

「……あ」

 シアンの表情を見て、アーロンは少し満足気に見えた。

「だから、俺たちにはちょっといる場所がバラバラになるくらい、何でもねえよ。もとから四つなんだから、どこにいたって四つだ。それに気づくのにこんなに時間がかかっちまったわけだけど、でもまだ手遅れじゃないだろ」

 だから、それぞれ描く未来に向かって生きていこう。大丈夫。それでも同士であることに違いはないのだ。

 ──ずっと一緒にいよう。

 過去の森を抜けて、未来へと出ていったあの日。あの空の色を──セピア色に染めていいのだ。だって、過去をどれだけ振り返っても未来を変えることはできない。

 また頭上で電車の走る音がする。スピードを緩めながらも強い強い風の音を纏って、ホームに入ってくる音。

「エレナ、行くぞ」

 アーロンはあっさりと身を翻して、ホームへの階段へと向かう。エレナもそれを追って行こうとして、それから少しだけ振り向いた。言いたいことはすぐに見つかった。

「クリスタ、シアン」

 呼びかけて、腕を上げて手を振った。

「一生懸命、やって来ます」

 らしくない一言だっただろうか。らしくない行為だっただろうか。でも自信を持って欲しい。

 わたしにこんな顔をさせるのは、貴方たちだけなんです。

 エレナは今度こそ踵を返して、アーロンと並んで階段を登り出した。そっと彼の背負うギターにケース越しに触れた。アーロンは軽く驚いたように眉を上げた。

 向かってる。

 心の中で呟く。学園に入った頃には、学園を出た頃でさえも、想像しなかった、わたしたちのステージへ。

 四人で進む。同じ場所にはきっと辿り着かない。ずっと一緒にいる、という言葉は停滞しか意味しない。それぞれの別のゴールラインに向かって走っていく。あるかもわからないゴールラインに。

「僕らも、行ってくるから──」

 声が後ろから追いかけて来た。振り向いたりはしなかった。彼らの行くホームは、反対側の階段の上だ。


 サヨナラ──。

 でもこれは別れの言葉じゃないわ。


     ❇︎


 夕暮れの光の中で、ジャックは建物の中を見渡した。シャンデリアが取り外されて天井に黒々と空いた穴も、割れ落ちて光を屈折させるガラス飾りも、カーペットの床に残る、もとは人の一部であったはずの赤黒い染みも。全部が全部、当時のままにある。十年前からここで息を潜めている。

 ここに前に来たのは──もう少し遅い時間だった気がする。シアンを連れて来た、というかついて来てもらったのだった。人目につくのは嫌だったために、一人での遠出は気が引けた。だけど今はもう──何でもいいな。

 もう彼らは気づいたはずだ。シアンはジャックの「俺は殺人鬼だ」という告白にも、わかってると答えた。ジャックがデビルを殺しに関わっていることにも、連続通り魔事件の犯人であることにも、全部彼は気づいている。そして他の三人にも伝えてくれるだろう。

 シアンの沢山のものがごちゃ混ぜになった笑顔が思い浮かんだ。アーロンの鋭くて挑戦的な目の色が思い浮かんだ。エレナの凛と響くはっきりとした声が思い浮かんだ。……クリスタの。

 ──ね、

 ──泣かないで……?

 自分を真っ直ぐに見つめる透明な瞳が思い浮かんだ。

 互いに影響し合いながらも、なんだかんだで出会ったのは割と最近なのだ。なんだか可笑しい。ずっと前から彼らのことを横から見つめている気がしているのに、実際には彼らからすればそんなことはないのだろう。

 こんなことを言ってもいいのなら。


 あぁ、愛してる。


 ジャックがあの嵐の夜に擲った心臓を、彼らは受け取ってそこに何かを穿いた。

 だけど君は──君たちは、お前たちは、俺みたいになってはいけないんだ。明るいところにいなくてはいけないんだ。この出会いが、ほんの神の悪戯とか、気まぐれなんかだったというのなら、そんなに残酷な神などいなければ良かったのに。夕焼けは夜闇に変わって、やがて死神も産神も消え失せる。彼らは行くのだ。

 日の当たる方へ。

 光の射す向こうへ。

 神のいない、世界へと。


     ❇︎


 電車の走る音が振動となって、心臓の鼓動と共に体に溶ける。

 クリスタは俯いて静かに揺られていた。隣でシアンが向こうの窓の景色を眺めているのを感じた。

 アマネセルは、意外と遠い。思っていたよりもずっと。駅を三つぐらい通過したところで数えるのはやめてしまった。快速列車だ。同じような景色を窓の外に映しながら、ビュンビュンと過ぎて行く。停車駅に近づいてスピードが緩むたび、落ち着かずにクリスタは顔を上げた。

「……大丈夫」

 シアンがクリスタを見遣って呟いた。車内はがらがらに空いているために、彼との間には一人分の空白がある。誰もいないシートの上のシアンの手は、その隣のクリスタの手よりも一回り大きかった。

 私は。

 私は、あの人を繋ぎ止めることができるだろうか。この世界とあの人を繋ぎ止める杭になれるだろうか。

『あいつと僕は似ているから……』

 シアン、あなたは電話口で、自分とジャックは似ていると言っていたわね。でも本当は全然似ても似つかない。

 もうわかっているはずだ。ジャック・ブラックの瞳は全てを映す。シアンも、エレナも、アーロンも、そしてクリスタも、皆んなが皆んな彼の中に自分を見ていた。だけどそれは……、一部の結果だけを見て占いを当たったと言っているようなものだ。ほんの欠片に意味を見出しているだけなの。

 きっと私に似ている人なんてどこにでもいる。だけど、そのうちの誰にも私は似ていない。私という存在はただ一人で、それはあなたもなのよ?

『自分のために心の底から泣いてあげられるのは、自分だけなんだよ』

 一人で土を掘り返す私に、あなたは笑って良かったのに。なのにそうしなかった。私はジャックに泣かないでと言って、あなたは私に泣いていいと言った。

 電車がカタンと揺れるのと同時に、並んで下がった吊り革がシンクロした動きで跳ねた。

 黒っていう色は、何の色にも染まらない。

 ジャックは誰にも似ていない。

 クリスタたちが何を言おうと、ジャックはもう決めたことを覆したりしない、ただ闇に溶けて行くのかもしれない。今クリスタがアマネセルに向かっていること、そしてシアンがそれについて来てくれたこと、それらには何の意味もないかもしれないけど。

 信じてほしい。何もかもを全部共有できるわけではない、言ってしまえば他人であったとしても、生きてと願うことはできる。


     ❇︎


「スタンバイをお願いします」

 腕章を身に付けたスタッフに促されて、アーロンはパイプ椅子から立ち上がった。二つのステージを使ってのライブ番組だ。アーロンの今いる側の反対にあるステージでは、同じようなデビューしていない新人歌手が歌っていた。向こうにスポットライトが当てられ、こちら側が暗くなっているうちに入場しておけということだろう。エキストラのベース、キーボード、ドラムなんかの奏者たちは既に準備を開始していた。

 ステージで歌う。自分で書いた曲を、沢山の観客を前にして。

 それができるだけでもう夢のようなのだ。サイリウムを手に握った客たちを、高い位置から見下ろせるだけで胸が一杯になる。感極まって叫び声を上げそうになる。だけど。

 でも駄目だ──。まだ夢が叶ったなんて言ってはいけない。ステージを今だけじゃない、未来まで続けろ。どこまでも高みを目指せ。貪欲に、強欲に。……まだここはスタートライン。

 既にケースから出してあったギターを、バンドで首から下げた。一番低い音の弦を静かに弾いてから止めたところで、エレナがずっと無言なことに気づいた。彼女はパイプ椅子に座ったまま床の一点を見据えていた。

「……出番、だぜ?」

 恐る恐るとも言える口調で声をかけると、彼女はぱっと顔を上げて狼狽えたように立ち上がった。がたん、とパイプ椅子が揺れる。この様子だとスタッフの声も耳に入っていなかったようだ。

「大丈夫かよ」アーロンが聞いたそばから、エレナはその場にしゃがみ込んだ。

「……エレ」「無理……無理です」

 アーロンは無言でエレナを見下ろした。ぎゅっと膝を抱えた彼女は、いつもよりさらに小さく見えた。

「わたくしは、きっと貴方の足を引っ張ってしまう。無理です。わたくしは歌ったりなんてできないわ」

 ずっと、生かされて来ました。エレナは小さく喘ぎながらそう言った。

「家というものに拘束されていることを恨みながら、わたくしはずっと、ずっと、心のどこかでは安心していました。だって将来に関して心配することはない、親について行きさえすれば、理想的ではなくても必ずそれなりの暮らしが守られる。そんな場所から、貴方たちのことを見ていたのです。……狂っているわ。わたくしは、わたくしは……」

 アーロンは腕でギターを抱えて、そっと床に膝をついた。黒いズボンの膝頭が埃で汚れた。「あのなあ……」呟いてから、言葉を考える。俺にはシアンみたいに、人を傷つけない言葉を見つけるのは苦手だ。クリスタのような暖かな優しさも、エレナのような尖ったほどの真っ直ぐさもない。

 緊迫感に押し潰されかけているエレナの姿が意外といえば意外で新鮮だった。統一感を出すために二人で見繕った、エレナの黒いスカートが床に押し付けられてくしゃりとなっていた。らしくないと言えばこの格好だってらしくない。いつものふわふわしたクラシックワンピースなんかではなく、黒い革ジャケットに同じ色のレザースカート。……らしくないのが当たり前なのだ。だけど、スポットライトの下ではそれをちゃんと自分のものにしなければいけない。

 立て。

 アーロンは淡々とした口調で言ってから、自分が立ち上がった。

「スカートが汚れるだろ。……もうすぐ、俺たちの出番だ」

 出番、だ。繰り返しながらぱんぱんと膝を払った。エレナが目を見開いて顔を上げる。華奢な首の喉元が微かにグッと動いた。

「ほら」

 半ば強引に立ち上がらせて、向かい合った。エレナは泣きそうな目でアーロンを見上げて来た。自分より二個分近く低い位置の頭を思わず撫でようとして、やめた。もう本番だってのに、ぐしゃぐしゃにしてどうすると言うのだ。代わりに中途半端に出した手で、壊れ物を扱うように優しく彼女の髪先に一度だけ触れた。

 この髪型、俺は結構いいと思うぜ? 前までの小難しく編み込んで纏めた髪型よりずっと。

「気分変えたい時は顔叩くといいらしいぜ。こうやって、片手で顔押さえてから、手のひらの上の方で叩くと、安全。そんなことを言ってた奴がいたな。顔叩くのに安全ってなんだよって思うけどさ」

 軽口を叩きつつ背後側を振り仰ぐと、反対側のステージでの歌がよく聞こえた。ちょうどサビの部分に差し掛かっているようだ。自分と同じようなアマチュアの、がむしゃらな歌声。一緒懸命で、すごく緊張していて、無様で、必死な。

 誰もが苦しんでる。

 エレナだってその苦しみを知ってるだろ。

「狂ってんのはお前だけじゃねえ」

 みんなどっかしら狂ってる。俺だって狂ってるさ。ほんのガキの頃、蟹の姿をした神に、木の塊に息を吹き込んだ彫刻師に、人生の何もかもを狂わされた。祖父に嫌々個展に連れて行かれさえしなければ、今頃こんなに苦しみすら感じるほどギターに向き合うことなんてなかったのに。

 人一人の心を動かし、その人生さえ変えてしまえほどの歌声が欲しい。いつか、それができるぐらいの歌手になりたい。

 エレナと瞳の中を覗き込んで、もう大丈夫だと思った。緊張で揺れながらも、いつもと同じ強い光がそこに戻っていた。強いな、本当に。

「行こう」

 もう余計な言葉なんていらない。アーロンは誰も注目していないステージに歩み出した。

 暗くなった舞台の上は、夜が明ける前の街に似ている。冬の早朝、バイトに出かけたりしながら触れた世界だ。建物も、道路も、空気までも眠っているみたいで、自分だけが一人起きて歩いている。

 いや、今は一人じゃないのか。

 振り向かなくても、自分についてくる足音が後ろに聞こえる。

 準備が整って、こちらにライトが向くまでのほんのひと時。膨大な観客たちがこちらに目を向けるまでのただ一瞬。エレナが完全に動きを止めて目を閉じた。アーロンは息を呑み込んで、僅かに微笑んだ。がちがちに張り詰めた沈黙。時間よ止まれ。……むしろ、動き出せ。

 今この場にはいない奴らのことがすっと頭を──心を過った。聞こえるわけはない。聞こえなくていい。届けばいい。

 わっと向こうで歓声と拍手が上がった、と思った瞬間に黄金色の強い光がアーロンとエレナの二人に振って来た。まるで太陽だ。真っ赤に塗られたステージの床が光を反射する。知らなかった。スポットライトって、こんなに皮膚がぴりぴりするほど熱いんだ。底から燃えているみたいに。

[続いては、アーロン・カーターさんとエレナ・フローレンスさんで『Radical Blue』です。どうぞ]

 エレナがこちらを見て頷いた。いつでも。貴方と、どこまでも。

 アーロンも頷き返した。きらきらと煌めいているマイクをスタンドごと両手で一度包み込む。

 聴いてください──。

 呟いたのは、目の前にいる観客たちに向かって。それから、誰よりもあいつらに向かって。

 ──ギターをジャン、と鳴らしただろう? その、何音もが重なった音に、光を感じた。

 ジャック、お前はそう言ったな? ……届け。届け。

 マイクから手を離しざま、右手をそのまま振り下ろした。曲を開始するその一瞬は、アーロンだけに決定権がある。『Radical Blue』。この曲は──ジャンッと鳴らした音から始まる。


     ❇︎


 駅を出てから、何も申し合わせたりはしなかったのにほぼ同時に走り出した。僕らの街と比べるとやっぱり都会だなと思う。ビル群やネオンの沢山の光が眩しいほどに空まで輝かせているので、星なんて一つも見えない。ふと都市の喧騒の中に、ゲームセンターの上に取り付けられたテレビスクリーンから音楽が聞こえた気がした。見上げたりはしない。ただ、背中を押されたように走る速度を上げる。

 短い呼吸。

 軽快じゃない足音。

 どこかに繋がる。

 向かうは二人の始まりへ。

 一度ジャックに連れられて来たことがあるために、道に迷うことはなかった。クリスタは終始無言でシアンの横をついてきた。彼女は道順を覚えているのだろうか。ほんの幼い頃に見たであろうトーレ・ディ・アマネセルでの景色を思い出したことはあっただろうか。……どちらにせよ、それはシアンの知らないクリスタの姿だ。

 門の前に来た。立ち入り禁止のオレンジ柵を越えた石の階段に、そこだけ砂や埃が抉れた、靴底の痕が残っていた。隠そうともされていない足跡。クリスタがとん、とん、とその上を進んで行ったのを見て、シアンは立ち止まった。

「行ってらっしゃい」

 それだけ言って笑う。

 クリスタがエッと声を上げて振り向いた。シアンは? その目が怯えたように問うていた。

「僕は、ここにいるから。行っておいで」

 思えばあの嵐の夜、初めてジャックに会った時もまた自分は離れたところで見ていただけなのだった。アーロンとジャックが言葉を交わすのを、壁の陰から見つめていた。ジャックには完全に気づかれていたらしいが。……その験を担ぐわけでもないし、傍観者としての自分に意味を見出したわけでもない。ただ、ね。

 この、ここからの物語の主人公は僕じゃない。

 クリスタ、君なんだ。

 十年前にあったことも、ジャックとの関係も、彼のことも、君のことも、全部君が解かなければいけない。

 僕はジャックに、ちゃんと伝えることは伝えた。あとはちゃんと見守るだけだ。大好きな人たちの選ぶ結末を、どうであっても見届けるだけ。辛くても、悲しくても。それが今の僕の役目。

「行ってらっしゃい」

 シアンはもう一度言った。背中を押せるように。

 彼のこと、引き留めてあげてね。それができるのは、同じ過去を共有したクリスタだけだから。

 多くは語らなかった。だけど、言いたいことはわかったのかクリスタはぎゅっと拳を握りしめて頷いた。踵を返して駆け出す。

 大通りの車のヘッドライトが点滅して、去っていく背中を照らしていた。



 暗い、暗いその中にただ夢中で駆け込んだ。彼はずっとこんなに真っ暗な場所にいたんだと思った。

 社長であった祖父が開いた宴会。トーレ・ディ・アマネセルで。豪奢に着飾った人々、シャンデリアの絢爛な煌めき、美しい花のように作られた料理の数々。何もかもをくっきりと思い出せる。祖父が、弟の息子に──つまり自分の甥っ子へと会社の社長という立場を引き渡すための儀式として開いた、宴会。

 クリスタは奥へ、奥へと走った。彼はどこにいるの? 決まっているじゃない。……そう、決まってる。

 私と彼が初めて会ったのは。

 更に深く。テラスへと続く大きな窓があるところ。

 足がもつれて転びそうになりながら、隠しきれない人がここで何人も死んだという事実に息が詰まりそうになりながら、殺したジャックや殺された〈彼〉のことを考えて意識を失いそうになりながら、同じ過去に存在していながら幸せに暮らして来た自分を、嫌いになれない自分に呆れ愛おしみながら。

「ジャック・ブラック……っ」

 喘ぎながらその名を呼んだ。開け放たれた窓の外のテラスで、彼はゆっくりと振り向いた。崖に飛び出すように造られたバルコニーは、長年の風化と劣化で手すりが既に崩れ落ちていた。こっちに来て。クリスタは叫んだ。風が吹いていた。大して強くもないのに、何故だか自分の声はどれだけ喉を振り絞っても聞こえない。

 こっちに来て。ねえ、お願い。落ちちゃうよ。

 だが彼は、ゆるゆると首を振る。優しく、静かに凪いだ瞳はいつも通り黒々と闇を映している。あなたはそうやって、誰かの闇を自分のもののように映し出す。だけどあなたの苦しみを映してくれる人はいないから、あなたは自分の痛みの在処を見つけられない。

 クリスタは無我夢中でテラスの彼に駆け寄った。

「どうして死のうとするの? 苦しいから? 痛いから? 生きる意味が無いから⁉︎ そんなの──あるわ。あなたがわからなくっても、私たちが生きて欲しいって思ってる。理解し合えなくても、何もかも共有できるわけじゃなくても、そばにいたいって思ってる!」

 私は、あなたを引き留めたいの。自分勝手かもしれないけれど、共に生きていきたいの。言ったでしょう? ……『一人じゃない』。

 彼の服を勢いで掴んでいた。ジャックはそっと身を引いて、微笑を作る。手遅れだ、と言う。

「どうしたって──一緒には、生きられない。わかっているだろう? 俺の存在は、君……、お前たちを不幸にする。一度血で汚れた手はどうやったって血の匂いから逃れられない。シアン、から聞かなかったか──聞かなくても気づいているだろうが──俺はもう何人もの人間を手にかけて来た」

「嘘よ! そんなことは、ない!」

「嘘なんかじゃない。お前たちの住む街で、連続通り魔事件を起こしたのは俺だ。君の肉親を全員消し去ったのも俺だ」

 そんなことを言わないで。あなたは悪くないのに。

 人外の殺人鬼。

 またそんな比喩を言う。俺のようなものだ、ではなく俺だと言う隠喩。聞いていて心地よいものではない。クリスタは言いかけていた言葉を飲み下した。ふとその時、ジャックの表情に目を止めた。彼は固まった薄い笑みを浮かべていた。笑っているのだろうけれど、なのに泣いているような、重苦しい何もかもが重なって、逆に白くハレーションを起こした目。真っ黒なのに真っ白な、目。

 もしかして。

 クリスタは自分まで目の前が白く霞むのを感じた。嘘でしょ? 嘘であって欲しいとは思う。そんな哀しいことがあってはいけないと思うのに。……ジャック、あなた。

 人外の殺人鬼。

 それをメタファーなんかじゃなくて──本気で、言っているのね?

 クリスタは叫んだ。正気に戻って。



「あなたは……あなたがこれまでに殺したのはただ一人よ! あなたは私とただ二人、十年前の事件を生き残った私のはとこなのよ⁉︎」



「何を、言って」

 ジャックは頬を歪めた。全く何を言われたのかが理解できていなかった。縋るように伸びる彼女の手に恐怖すら感じて、もう一歩後ずさった。冷たい風に首元を冷やされて、ジャックは悲鳴のような声を上げた。

「俺が殺したのがただ一人⁉︎ そんなわけがないだろう、通り魔事件の殺された人数を見なかったか⁉︎ この街の周りだけで二十人以上、殺した、殺した殺した殺したんだっ」

「いいえあなたが殺したのは一人だけ──〈彼〉を街の中で殺しただけ。だけって言っても人殺しは罪だってわかってる……でも、あなたが〈彼〉を殺したのは、今度こそ大事なものを守るためでしょう? 私たちを守ってくれたんでしょう?」

 思い出して。〈彼〉は、私たちの肉親を殺した殺し屋よ。財を稼いで巨大化を進める、祖父の会社に恨みを持った敵会社が雇った殺し屋。全部、後で教えてもらったの。

 もどかしそうに、クリスタはそう言う。青ざめた顔は僅かな外からの光に透き通りそうだ。

「私の祖父がね、あなたのお父さんに当たる甥っ子に、会社の統治権を譲ったのよ。そのための宴会だったの」

「でも、俺はあの時、確かに人を……殺した。その後、ずっと少年院に入れられていた……っ」

「違う! それは、孤児院よ! あなたは事件の犯人なんかじゃなくて被害者なの! ……っわかってよ……お願い……」

 瞬きをした瞼の裏に、あの時の光景が思い浮かんだ。

『じゃあ、これからの私たちの会社をよろしく頼むな』

 皺が目立つようになった顔を綻ばさせたスーツの老人に言われて、父親は笑った。もちろんです、と。その表情は家で家族にだけ見せる暴君の表情とは全然違っていた。ピシッとした正装。撫で付けられた髪。何もかも胡散臭く思いながら後ろに突っ立っていたジャックの方を、父親は突然振り向いた。歯を見せて笑いながら、ぽん、とジャックの肩に手を乗せた。

 にっこりと、怖くなるほどの笑顔で父は大らかそうに口を開いた。

『ぼくには、後継ぎの息子もいますから』

 今こんなに苦しいのに、ぼくは大人になってからでさえ拘束されるの? 飲んだくれで暴力を振るう父親。圧倒的な支配。何もかも見目だけの笑顔。空っぽ。ああ、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。

 あの瞬間、何かが切れた。

 ──もう、ゆるして。

 ──ゆるしてよぉぉぉぉ……っ!

 これ以上無いぐらいにずたずたで、ぼろぼろで、今にも砕け消えてしまいそうな心を守るためだった。笑顔は朽ちて、涙も枯れ果てて、声はとっくに消え失せて。それでも何故だか死にたくなかったから、生きるため。


 自分にしか見えないナイフを、握りしめた。


 銀に冷たい光を放つ刃を振るった。心も、体も、自分の人生も、誰にも殺されたく無かった。父を殺した。母を殺した。他の人間たちも、目に映った人間は皆殺しにした。ばらばらになる人体。気持ちいいほどの悲鳴。美しくて魅惑的な血の色。あれらは全部、たかが妄想だったと言うのか。そんなことが許されていいのか?

 だが──。

 必死に覆い隠そうとしていただけで、どこかにいる真の自分はそれを知っていたかもしれない。なあ、俺は一体何を見せられていたんだよ。教えてくれよ。もう──何が本当で嘘だかわからない。壊れたっていいよ。壊れてしまいたいよ。

 〈彼〉を殺した。それは、〈彼〉が、クリスタたちの大切にしていた黒猫を殺したからだ。自分のような人外が彼らと並ぶことなんて烏滸がましいとわかっていたが、それでも。それでも彼らを傷つけたのを、到底許容できなかった。だって〈彼〉があの街まで来たのは自分のせいじゃないか。自分の持つそれなりの金を目当てに追って来たのだ。

 だが、俺が「それなりの金」を持っていたのは何故だ? それは、父親や親戚の財産があったからだ。

 他にいくらでもやりようがあったにも関わらず〈彼〉がわざわざ俺を追って来たのは何故だ? それは、金だけが目当てじゃあなかったからだ。

 あの事件で……ほんの子供でしかなかった俺と、彼女は、生かされた。必要がなかったためだったのか、他に人材として利用することを考えたのかは知らない。だが、そんな一時の考えなんてすぐに覆る。結局、俺は狙われるようになった。そして、彼女すらいずれは殺されるはずだったのかもしれない。当時の事件を目撃した人間として、復讐を恐れて、とかなんとか理由はいくらでも考えられる。

 人を殺していたのは、〈彼〉だ。思い出せば、奴は言っていた。『なんで猫一匹殺された程度で死ぬ気になったわけ? あんたのせいで、膨大な数の人間が死んでるってのに、たかが猫で』。人殺しは、〈彼〉の快楽と一つの手段でしかなかったのだ。街に逃げ込んだジャックを呼び寄せるための。

 自分のためにこれだけの人が死んでいるから、それを止めるために命を投げ出そう。自分から殺し屋の手に飛び込もう、だなんて。そんな風に考えると思ったか。……いや、普通の人間ならばそうしたのだろう。だが、ジャックにとってただの数字ではない人間なんて、彼女たちしかいなかったのだ。

 ずっと〈彼〉に生かされて──殺されようとしていた。

 なんて無力。なんて無情。

 〈真実〉に繋がる矛盾点は無数にあったというのに、自分は自分に嘘をつき続けた。自分は殺人鬼だ。強い強い強い殺人鬼だと念じ続けた。

「戻って来て」

 クリスタがまた手を伸ばしながら言った。

「私たちと生きて。一緒に生きて欲しいの……あなたのこと、好きなのよ……ほんとうに。だって仲間じゃない」

 ふらり、とジャックはよろめいた。目の前に立ちはだかる彼女を見て、へら、と嗤った。息をするたびにひゅうひゅうと喉が鳴る。

 これからどうする? 決まってるだろう。



 いい加減、自分のことを許してあげて。クリスタは叫んだ。声はもう出なかった。目の前が霞む。私は都合よくここで泣くのか。涙を流そうと言うのか。……そう思うのに、堪えようとする気持ちに反して水滴は零れ落ちる。

 もう私は、誰の不幸も願ったりしないから。平凡でいい。平和なだけで何もない世界でいい。

 ──なかないで……?

 私があなたに呪いをかけた。あなたばかり苦しんで、傷ついていた。ごめんなさい。ごめんなさい。何度謝ったって足りないよね。いいわ、私のことは許してくれなくていいから、自分のことを救ってあげて。全部覚えてる。言い訳はしない。だけど、あの時幼い私の目には確かに見えたのだ。あなたは泣いてなんていなかったけれど、深く傷ついていた。

 あなたがこれまで見てきたという赤い血が、他の誰でもない、あなたの傷ついていつまでも治らない心臓から流れ出したものであることに、気づいて下さい。

 願って、これ以上ないくらいに祈った。なのに彼はまた一歩身を引く。クリスタが手を伸ばしても届かない。「こっちに来て。落ちちゃう。こっちに来てよぅ……」泣いたって喚いたって、彼は戻っては来ない。


 愛してる。

 愛してる。

 愛してる。

 ぐらつく足。微かに持ち上げた指先。

 ……愛してた。


 もう、いいな。

 生きたかった。死にたくなかった。生きたいと初めて思った。

 ジャックは微笑んだ。それまでの昏く憂がったものとは違う、晴れやかで清々しいほどの笑顔だ。このただ数ヶ月。救いようのないほどに短くて長すぎた人生の最後の最後で俺は生きた。一人じゃない、とあの静かな部屋で、彼女が俺を透明な瞳で掬い上げるように見上げたその瞬間から。君のおかげだ。彼らのおかげだ。

 愛した?

 ああ、愛された?

 もう本当にいいのだ。

 人間であれなかった。殺人鬼にすらなれなかった。何者でもなくて、結局人間だった。

 大好きな人を傷つけたくなかったから、デビルを手にかけた〈彼〉を殺した。大好きな人を傷つけたくなかったから、不幸しか呼ばない自分は闇に消えようとしていた。

 〈21〉。全てを自分のせいにすれば──、ジャックの罪に気づけば、彼らも自分を嫌ってくれるだろうと思った。殺してやる、と突き放し憎んでくれるだろうなんて思っていたのだ。

 だけど、違った。

 違ったんだな……。

 ジャックは素早くクリスタの手を取って引き寄せた。彼女が弾かれたように目を見開いた。きら、と飛び散った雫がダイヤモンドのように輝いた。

 俺が死ぬことすら君たちを傷つけると言うのならば。

 地獄に堕ちて。

 地獄でも、生きて。

 一つだけ教えて欲しい。君はこんなに無慈悲で残酷な世界であっても生きようと、生きたいと思う?

 ──じゃあ、さようなら。



 どん、と突然に肩を押され、クリスタは空中に突き飛ばされた。崖の方へ。息が止まる。何もかもスローモーションだ。なん、で……? 私は死ぬの?

 無重力。

 耳元で唸る風。

 淡い光。

 嫌だ、と思った。

 それは意外にも強くて消えない思いだった。嫌だ。嫌だ。死にたく、ない……っ。

 無我夢中で手で宙を掻いた時、右手が彼に握られたままであることに気付いた。目が合った。涼しそうな顔。唇が薄く開いて言葉を作る。……「良かった」。次の瞬間には、クリスタが腕を振った反動で彼との位置が入れ替わっていた。クリスタは彼を軸に窓側へ。彼はクリスタを軸に崖側へ。

 0.1秒に満たない宙間点。

 力の抜けた手が解ける。

 バルコニーの床に崩れへたり込んだクリスタの視界で、彼は落ちて、谷底へと消えていく。重力が当たり前にはたらく。背中で風を切りながら、彼は少しだけ頷くような素振りを見せた。クリスタはぺたんと座ったまま崖の下を覗き込んだ。くらくらするぐらいに地上が遠かった。

 信じ、られなかった。

 私が、彼のことを突き飛ばした。私が彼を落とした。私が、私が、私がっ……。拭えない涙。このまま一人で泣き続けたのなら、崖の下まで全部埋めて、いつかここに海ができるかな。そこに魚たちが泳いで、海藻が揺らめいて、人魚が歌ったなら、あなたは孤独じゃなくなる? あぁっ、美しく流せる涙があるのなら、そんなものは紛い物だ。泣きじゃくって、顔をぐちゃぐちゃにして、私は。

 私は……。

 微かに足音が聞こえた。

 それを無意識に耳が捉えた時には、クリスタは背中から抱きしめられていた。

「あ──……あ」

「大丈夫」

 聞き慣れた声は、言った。覆い被さった体温に息が詰まる。っは、と吸い込もうと開いた口から、嗚咽が漏れた。シアン。私、あの人の、杭になんて、繋ぎ止めることなんて、でき……。

「大丈夫」

 耳元でもう一度声が囁いた。

「そうやって、生きていくよ。忘れられない記憶を積み重ねて、眠れない夜を過ごして、後悔に潰れそうになって、それでも生きていくんだよ……」

 どれだけ涙を流したって海なんてできないわ。それは私が孤独じゃないからだ。泳ぐ魚なんて、揺らめく海藻なんて、歌う人魚たちなんて、いない。抱きしめられて、狂いそうなほど沢山のの思いに包まれながら、一晩中泣こう。そうしたら、いずれ朝日が昇る。新しい太陽が、私の悲しみも苦しみも溶かしてしまう。

 トーレ・ディ・アマネセル。

 朝日の塔。

 夜闇にばかり目を慣らせたあなたは、それでも朝を模る場所で始まって、同じ場所で幕を閉じたのだ。


 ごめんね。それから、ありがとう。


 夜が明ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る