第195話 栞? ママ? お母さん?

 セットしてあったアラームが鳴ったところで栞は身を清めにシャワールームへと向かった。


 栞を待つ間、ひとまず浴衣を羽織り直して一人ベッドに横になった俺は先ほどのアレコレを思い出して羞恥心に悶えているところだ。


「うあぁ……。思い返すとめちゃくちゃ恥ずかしいな、あれ……」


 朝っぱらから、二人してぬいぐるみを相手に繰り広げられたおままごと。やっている最中は栞が楽しそうだったので気にならなかったのに、一人になるといったい俺はなにをやっていたんだって恥ずかしくなってきてしまった。


 栞をママなんて呼んでみたり、リョー君と一纏めに抱き締めて頭を撫でたり。さすがに、調子に乗った栞が全裸だったのをいいことにリョー君に授乳の真似事をしようとしたのは全力で止めたけど。なんというか、とっても目に毒だったので。決して、それは俺のだなんて独占欲が働いたわけではない、ということにしておく。


 ただまぁ、恥ずかしかったと思いつつも幸せだなと思ったりもして。栞はきっといいお母さんになるんだろうなとか、栞との子どもは可愛いんだろうなとか、今まで漠然と想像していたものがもう少し具体的に見えたような気がする。


「俺、いつか栞のことをママって呼ぶようになる日が来るのかなぁ……?」


 さっきは栞に合わせて何気なく口にしていたけれど、今はまだものすごく違和感がある。俺にとって栞は『栞』なわけで、お互いの呼び方が定まったあの日からずっと、永久に変わらないものだと思っていた。


 俺達にとって、今のお互いの呼び方はとても重要なものなんだ。試験での勝負報酬を使ってまで栞が俺にねだってくれたもので、俺達の関係を一歩前に進めてくれたもの。


 そんな特別で大切なものが変わってしまうのかと想像すると、寂しいような、それでいて嬉しいような複雑な心持ちになる。


 寂しいと思うのは、栞の名前が好きだから。


 まず、俺は『栞』という音の響きが好きだ。口にするのも、それを自分で聞いた時の耳馴染みもいい。


 聡さんから教えてもらった素敵な由来が好きだ。聡さん文乃さん夫婦にとってだけじゃなくて、きっとこれからは俺達の物語、その幸せなページをもしっかりと刻んでくれると思うから。


 俺が名前を呼んだ時の栞の顔が好きだ。『なぁに?』って柔らかな口調で返事をしてくれるのもたまらない。


「栞……」


 すっかり呼び慣れたはずなのに、未だに口にするだけでジンっと胸の奥が甘く痺れる気がする。


 逆もまた然りで、栞の声で『涼』って呼ばれるのが俺は大好きだ。栞はさ、俺の名前を呼ぶ時甘えるような声色になるんだ。目を細めて、嬉しそうに笑ってくれるんだよ。


 その大好きなものが、立場を指すだけのパパとママという呼び方に置き換わってしまうと思うと、とても寂しい。


 そして、嬉しいと思うのはきっとそれが俺達の関係がまた一つ進んだことを示す指標になるからだろう。子どもができれば俺達の結び付きはより強固なものになるはずだ。だから寂しさを感じながらも嬉しいって思うんだ。


「栞……、ママ……。うーん……」


 試しに、交互に口に出してみる。今、こんなことを考えたって、その時が来たらどうなるのかなんてまだわからないというのに。


 ふと、栞が置いていったリョー君をヒョイと抱き上げて語りかけてみる。


「なぁ、リョー君。将来さ、俺は栞のことをなんて呼ぶようになるのかなぁ? ずっと栞のままなのかな? さっきみたいにママになるのかな? それとも、お母さん? ……栞はなんて呼ばれたら嬉しいんだろ?」


 もちろんぬいぐるみであるリョー君に尋ねたところで返事が返ってくるわけがないってわかっているけれど。


「あれー? 涼もリョー君と遊んであげてるの?」


 栞が濡れた髪を拭きながら出てきて、俺を見て笑う。


「うわっ……! あっ……、とと……。ふぅ、危なぁ……」


 突然のことに驚いた俺はうっかりリョー君を放り投げてしまって、落とす寸前でどうにかキャッチした。


「あぁっ。もう、涼……? 可哀想だからリョー君落としたりしちゃダメだよ?」


「そ、それはセーフだったけど……。もしかして、今の聞いてた……?」


「ううん。なんかブツブツ言ってるなぁとは思ったけどね」


「そっか、よかったぁ……」


 もし栞に聞かれていたらこの短期間で二度も悶えるはめになるところだった。


「よかったって? なにか変なことでも言ってたの?」


「いやっ。なんでも、ないよ? えっと……、リョー君にね、ママの可愛さを教えてあげてただけだから!」


 つい、またママなんて言ってしまった。


「本当にぃ〜〜?」


 ジトッとした目で栞が俺を見る。うっかり白状しそうになるが、ここはボロが出る前に一時撤退だ。


「本当だって。とにかく、俺もシャワーに──」


「あっ、待って」


 立ち上がった俺の腕を栞が掴んで止めた。


「な、なに……?」


「えっとねぇ……。あのね、涼」


「うん……?」


「栞って、名前、呼んで……? さっきまでパパとかママとか言ってたからかなぁ、なんかムズムズしてきちゃって……」


 ……もしかして、本当は聞こえてたんじゃ? それとも、栞も俺と同じことを考えてた?


 それはわからないけれど──


「栞」


 いつものように栞の名を呼ぶ。しっかりと目を見て、大好きな気持ちを込めて。


 すごく落ち着く。動揺していたのもスッと消えていくようで。


「うん、涼」


 栞から名前を呼ばれると、じわっと温かな気持ちが溢れてくる。やっぱり栞の声で呼ばれるのは心地が良い。


 だから、もう一度。


「栞」


「涼」


 いや、何度も。


「栞」


「涼」


 想いを乗せて、更に呼ぶ。


「栞、好き」


「涼、好きだよ」


 呼び合っているだけなのに、こんなに幸せで。初めて呼び合った時のドキドキは今はもうないけれど、代わりに身体と心にすぅっと染み込むような感覚がある。


「ねぇ、涼?」


「うん、なに?」


「結婚してもね、子どもができても、名前で、栞って呼んでくれる? 二人きりの時、だけでもいいから」


 あぁ、そっか。俺は勘違いをしていたのかもしれない。別に呼び方を一つに絞る必要はないんだ。子どもの前ではママと呼んで、二人の時は栞と呼ぶ。ただ、栞の呼び方が増えるだけの話だったんだ。


 それなら、うん、嬉しいだけかもしれない。


「うん、もちろん。俺、栞の名前が大好きだから、たくさん呼ぶよ」


「えへへ。私もね、涼の名前好きだよっ。いっぱい、いっぱい呼ぶねっ?」


「ん、ありがと、栞」


「ふふっ、どういたしまして」


 栞は優しい顔で笑う。


 やっぱり栞は俺の呟きを聞いていたのかもしれないな。こんなことならさっさと素直に打ち明ければよかった。


「ほら、涼もシャワー行っておいでよ。さっぱりするよ」


「うん。でもその前に。栞」


 また名前を呼んで抱き寄せる。そして、


 ──ちゅっ


 幸せな気持ちのお返しにキスをする。


「それじゃ、行ってくるね」


「ん、いってらっしゃい」


 洗面所に入って鏡を見ると、俺の顔は気持ち悪いくらいにニヤけていた。


 ……お返しのつもりだったんだけどなぁ。


 キスに乗せた分の倍の幸せが俺の手元に戻ってきたんだ。さすがぶっ壊れの栞ポイントシステムだよ。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 皆様、いつも本作を読んでくださりありがとうございます。


 このお話が投稿された10月7日で、この物語を初めて公開してから丸一年になります。

 ここまで途切れることなく(体調を崩した時は除いて)更新を続けてこられたのは、ひとえに読者の皆様のおかげでございます。

 読んでくださる方がいなければ途中で投げ出していたと思います。

 この場を借りて感謝を申し上げます。


 作中時間、およそ五ヶ月で涼君と栞さんの関係は行き着くところまで行き着いてしまったわけですが、せっかくですのでこの先もまだ続けていこうと思っています。

 せめて高校卒業までは、と。

 いつまでかかるのかはわかりませんし、途中でネタが尽きて足踏みすることもあるかもしれません。でも、読んでくださる方がいる限りはなんとか頑張る所存です。


 どうかこの先も二人の行く末を見守っていただけると幸いでございます。

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