第138話 あま〜いクッキー

 栞に手を引かれてリビングへ足を踏み入れると、一層甘くて美味しそうな香りが強くなる。昼食は家で済ませてきたはずなのに、匂いにつられて小腹が空いてくるほどだ。


 ダイニングテーブルを見ると、そこにはいくつもの皿が置かれていて、その上には大量のクッキーが盛られていた。しかもプレーンなものからココアクッキーのようなもの、チョコチップが入っているものまで種類も豊富に取り揃えられている。


「もしかして、これ全部栞一人で作ったの?!」


「へへ〜、そうだよ。すごいでしょ? 涼のために張り切っちゃったっ」


「うん、すごい。すごいんだけど……、量が!」


 いくらなんでも張り切り過ぎなのでは?


 俺のためにと言ってくれているが、どう考えても俺だけでは到底食べ切れないほどの量がある。ここにいる四人全員で食べるとしてもまだ多い。


「あっ、いっぱい作ったのはね、学校の皆にもあげようかと思って。ほら、試験勉強頑張ってたし、お疲れ様って意味も込めてね」


「あぁ、なるほど……」


 俺のためだけじゃないと知って、ちょっとしょんぼり。俺へのご褒美のはずなのに。


 でも、最初は俺以外には結構ドライな対応だった栞が、皆と打ち解けて、更にはここまでのことを考えるようになったのは喜ぶべきことなのかも──


「りょ〜うっ!」


「んっ?」


 不意に名前を呼ばれて視線を上げると、栞がクッキーをひとつ摘んで俺に差し出していた。


「はい、あ〜ん」


「えっ。あ、あ〜ん……」


 反射的に口を開くと、その中にクッキーが放り込まれる。まだ粗熱が取れていなくて、中が熱々だ。でも、噛むと口いっぱいにバターの香りと甘みが広がって、ホロホロと崩れていく。


「うわっ、うまぁっ……!」


 市販のクッキーなら普段それなりに食べることがあるが、食感も味も香りもなにもかもが違う。焼き立てがこんなに美味しいものだったとは。栞が作ってくれたものだからというのはもちろんあるけれど、思った以上だった。


「ふふっ、よかったぁ。なんか勘違いしてそうだから言うけどね、焼き立ては涼だけの特別なんだよ?」


「あっ……」


 どうやら栞には俺が残念そうにしていたのを見抜かれていたらしい。


「昔ね、小学生の頃かな。お母さんに手伝ってもらって美紀と一緒に作ったことがあったの。その時ね、焼き立てがすごく美味しかったって記憶があって」


 照れくさそうに思い出を語ってくれる栞。先日、再び新崎さんと友達としての関係を取り戻せたからこそ、蓋をしていた記憶が溢れてきているのだろう。


「こうやって思い出しても辛くなくなったのは涼のおかげだし、せっかくだから涼にも食べてほしくって」


 その大事な思い出を俺に分けてくれることが、なによりの特別扱いのような気がした。


「そっか。ありがと、栞」


「えへへ」


 そっと抱き寄せると、栞も嬉しそうに俺の胸に頬を擦り付けてくる。ずっとクッキー作りをしていたせいか栞からも甘い美味しそうな匂いがして、思わずかぶりつきたくなる。


 聡さんと文乃さんの前なので、もちろん自重はする。


「あらあら、また始まっちゃったわね。ところで、栞。私達の分はないの?」


 文乃さんが呆れを含んだ声でそう言うと、栞は俺に抱きついたままでテーブルのお皿を指さした。


「そっちの午前中に作ったのなら食べてもいいよ」


「え〜……。私も焼き立て食べたーい」


「だーめっ! これは涼専用なの! だって試験で目標を達成した涼へのご褒美なんだから」


「あら、残念。それなら諦めるしかないわねぇ。涼君が羨ましいわ」


「はは……、なんかすいません」


 栞がこう言う以上、俺に決定権はない。それにここまで特別扱いしてもらえるのが嬉しいし、それを文乃さんにとはいえ譲るのは惜しい。


「いいのよ。栞は一回決めると頑固だもの。じゃあ、それは後でいただくとして」


「あれ、今食べないの?」


「えぇ。なんか仲良しな二人を見てたらあてられちゃったみたい。ちょっとお父さんとデートでもしてくるわね」


 文乃さんはいつも栞が俺にするように、聡さんの腕に抱きついてグイッと引っ張る。


「えっ、今から? 栞の作ったクッキー、食べたいんだけど……?」


「はいはい、それは帰ってきてからね。ほら、あんまりここにいるとお邪魔になるから行くわよー」


「ちょ、ちょっと文乃っ! あぁっ……、クッキー……」


 なんとも情けない声をあげながら聡さんは連行されていった。玄関の閉まる音がしたので、本当に出かけていったのだろう。


 こういう押しの強いところを見ると、やっぱり親子なんだなぁと思う。ということは俺も将来聡さんみたいな感じになるのだろうか。あれはあれで幸せそうではあるけれど。


 もしかすると、文乃さんは俺が栞にさっきの話をしやすいように気を遣ってくれたのかな。それなら、聡さんには申し訳ないことをしてしまった。


「……行っちゃったね?」


「ね。大丈夫かな、聡さん……」


「たぶん……。でも、お父さんの分は後でちゃんとラッピングしておいてあげようかな……」


「そうしてあげて!」


 栞が朝からクッキーを作っているのを見ていたのなら、聡さんも期待をしていたのだろう。俺に子供はいないので予想だけれど、可愛い一人娘が作ったクッキーなら食べたくて仕方がないものだと思うから。


「涼にも持って帰る用に包んであげるからね」


「やった! 嬉しいよ」


 焼き立てはそれはもう美味しかったけれど、冷めてもきっとまた違った味わいがあるのだろう。そう思うと楽しみだ。


「でもその前にっ!」


 栞は気を取り直すようにパチリと手を叩いた。


「せっかくだから、今は冷めないうちにこれ食べよっか?」


「あっ、そうだね」


「というわけで、涼。あ〜ん」


「あ〜ん」


 二人きりになったのなら遠慮することもない。栞が嬉しそうな顔で食べさせてくれるので、俺も素直に甘えることにする。


 でも、俺だけが食べるのも申し訳ないし、これだけ美味しいのなら栞とも共有したい。


「ほら、栞も。あ〜ん、して」


「うんっ! あ〜んっ」


 栞の口にクッキーを放り込むと、蕩けるような笑顔になる。栞はおまけとばかりに俺の指をペロっと一舐めしていってドキっとさせられる。


「ど、どう? って栞が作ったんだけど」


「ん〜! やっぱり焼き立ては美味しいね! 自画自賛みたいになっちゃってるけど」


 二人そろって似たようなことを言っていて笑ってしまった。


 それからもお互いに食べさせ合って、その合間にもイチャイチャして。そんなことをしているとやることが段々とエスカレートしてくるわけで。


「りょ〜うっ! んっ!」


 栞がクッキーの端っこを口に咥えて俺の前に突き出してきた。俺は反対側からクッキーを齧って、そのまま栞とキスをする。何度かそれを繰り返していると我慢ができなくなってきて、口の中身を飲み込んだところで栞と舌を絡ませあった。


 口内に残る甘みを二人で分け合って、いつもよりも甘いキスに頭が痺れる。試験の間は控えていたので、こういうキスもしばらくぶりだったりする。


 夢中でキスをして、気付くと栞にがっちりと頭をホールドされていた。絶対に離さないと言わんばかりの栞に俺はされるがまま。息が苦しくなるまで、あま〜いキスを楽しんだ。


「ねぇ、涼……」


 唇を離すと、栞の瞳はトロンと潤んでいた。


「なに……?」


 きっと俺も同じような顔をしてるんだろう。それに、考えていることも多分同じで。


「あのね、私の分のご褒美、私が決めちゃ、だめ……?」


「いいよ。って、栞の言いたいこと、なんとなくわかってるけど」


「えへへ。じゃあね、私の部屋、行こ……?」


 俺は無言で頷いて栞の手を取り立ち上がる。


 それから栞の部屋に場所を移して、聡さんと文乃さんが出かけているのをいいことに、俺達は疲れ果てるまで愛し合ったのだった。


 俺への追加のご褒美になっているような気がしなくもないが、栞も満足してくれたようなので良しとしよう。


 くったりと俺の胸にくっついている栞の頭を撫でながら、俺はそこでようやく先程の話を切り出すことに。


「あのさ、栞」


「ん〜……? なぁに〜、涼?」


 ふにゃふにゃになって、舌足らずな声で栞が答える。こういう声も可愛くて好きだ。


「栞の誕生日なんだけどさ、学校が休みじゃない?」


「うん。学校祭の振替休日になってたね」


「そうそう。でね、せっかくの休みだから旅行にでも行ってみたいなって思ってて……。その、泊まりがけで……」


 俺がそう言うと、くったりしていたのが嘘のように栞は飛び起きた。


「それって、もしかして二人だけで……?!」


「うん。さっき後で話すって言ってたのがこのことなんだけどね、聡さんと文乃さんにはもう許可もらってるんだ。だから、後は栞の返事だけなんだけど……」


「〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」


 栞は裸のままの身体を抱きしめて、プルプル震えたかと思ったら、勢いよく飛び付いてきた。


「行くっ! 行きたいっ! 涼と二人で、旅行っ!」


「よかった……。これでもし栞に断られたらどうしようかって、少し心配だったんだ」


 栞のことだから断られることはないと思っていたけれど、万が一ということもある。そうなったら、勢い込んでご両親に許可までもらった俺はとんでもなく恥ずかしいやつになってしまう。


「そんなの断るわけないでしょ! 誕生日に涼と二人で旅行なんて夢みたいだもん」


「夢じゃないよ。ほら」


 栞の頬をふにふにと撫でるように摘まんでみる。


「ふふっ、全然痛くないから夢なのかなぁ。でもちょっとくすぐったいからやっぱり夢じゃないね。はぁ……、嬉しいなぁ……」


「喜んでもらえたみたいで良かったよ」


「うんっ! あっ、思わず喜んじゃったんだけどさ、どこに行くの? 泊まりってことは体育祭の次の日からだよね。大丈夫?」


「うん。たぶん二人とも疲れてるだろうから、ゆっくりできそうなところにって考えてて。えっとね、温泉とか、どうかな……?」


 俺達の住んでいる地域から、電車を使って3時間ちょっとで結構有名な温泉があるのだ。色々と調べてみると、効能には美肌とか疲労回復なんていうものがあった。栞は美容に気を使っているというし、疲労回復もタイミングとしてはちょうどいい。


 そう思って選んだのだけど──


「涼のえっち」


 またこう言われてしまうのだった。


「っ……!」


 というか、散々そういうことをした後だというのに、これはないだろう。


 栞は黙り込む俺の顔を見て吹き出した。


「──ぷっ……。なんてね? 冗談に決まってるでしょ。温泉楽しみだもん。それにもちろんね……」


 俺達の他に誰も聞く人間がいないというのに、栞は俺の耳元に口を寄せて囁く。


「そういうことも期待してるから、ね?」


 よく俺にえっちだと言う栞だけど、やっぱり俺より栞の方が……。


「……もう、栞はっ!」


「きゃっ……!」


 俺は栞を強引に抱きしめて、再びベッドへと押し倒した。


「余計なことばっかり言う口は塞いでやるからね?」


「ふふ〜ん、そんなの望むとこ──んんっ!」


 長く長くキスをして、顔を離すと栞はうっとりとした表情をしていた。


「……もう、終わりなの?」


「……もっとする」


 一旦は栞を黙らせることには成功したが、栞の方が一枚上手うわてだ。栞を黙らせるためのキスだったはずなのに、いつの間にかすっかり俺が手玉に取られていた。


 やっぱりどこまでいっても、俺は栞には敵いそうにない。

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