第98話 夏休みの終わり

 気付けば夏休み最終日を迎えていた。あれから栞とは会えていない。寝る前の日課になっていた電話ですらできずにいる。


 ただ朝と夜に『おはよう』と『おやすみ』のメッセージが届くのみになった。俺も挨拶は返しているものの、会話はそこで途切れてしまう。


 そのわずかな繋がりだけが、今の俺達の関係だ。本当は会いたいと言いたかった。会って、栞が何を抱え込んでいるのか教えてほしかった。あの苦しげな表情のわけを知りたかった。


 でも、聞くのか怖いんだ。俺の言葉が栞には重すぎたんじゃないかとか、気付かないうちに栞の嫌がることをしてしまっていたんじゃないかとか。もしかしたら俺が頼りないから何も言ってくれないのかもしれない。


 そんな悪い考えばかりが浮かんでくる。


 別れ際にも『大好き』と言ってもらっているくせに、そんなマイナス思考が止められない。昔からの悪い癖、一人になるといつもこうだ。栞と出会ってからはだいぶマシになったと思っていたのに、全然そんなことはなくて。


 結局、俺は成長なんてできていなかったんだ。栞がいてくれるおかげでどうにか立っていただけで、それがなくなれば元通り。すっかりヘタレに戻っていた。むしろ、栞と付き合う前よりも弱くなってしまった気がする。今更ながら、どれだけ栞に支えられていたのかが身に沁みる。


 こんなにも孤独が辛いなんて、寂しいなんて知らなかった。心が通じたと思っていた栞のことがわからなくなるのがこんなにも苦しいなんて。


 栞と会えなくなってからの数日、朝起きて無為に時間を浪費して、夜になったら眠る。食事は喉を通らなくてほとんど食べられず、寝付きが悪いせいで夜中には何度も目が覚める。そんな生活を送っていた。栞と一緒にやっていた時はあんなに捗っていた二学期最初の実力テストに向けての勉強なんて、全く手につかなくなってしまった。


 今日もぼんやりしているうちに夜になっていた。


 夕飯を半分以上残して席を立つと、母さんに心配そうな視線を向けられる。それから逃れるように自室へと戻ると、机の上に置きっぱなしにしていたスマホに栞からのメッセージが届いていた。


『明日から学校が始まるね。寝坊したらダメだよ。おやすみなさい』


 栞はどんな顔をしてこのメッセージを送ってきたのだろう。まだ泣きそうな顔をしているのだろうか。顔も見れず、声も聞けなくて心配になる。


 いや、泣きそうになっているのは俺の方だ。明日からの学校、どんな顔をして栞に会えばいいのかがわからなくて。同じクラスなのだから、必然的に顔を合わせることになる。この時初めて栞と同じクラスであることを憂鬱に思った。


 会いたいのに会うのが怖くて、矛盾した感情がせめぎあう。まるで自分の心がまっぷたつに引き裂かれるような気分だ。


 それでもどうにか返信だけはする。栞を無視することなんて、どんな状態だろうが俺にはできなかった。


『うん、気を付けるよ。おやすみ』


 そしてまたグッタリとベッドに横たわる。目を閉じると、楽しかった思い出ばかりが浮かんできた。


 栞に初めて『大好き』と言われて、ベッドで悶えたこと。告白をし合って、付き合うことになった時は本当に嬉しかった。


 デートをして、髪を切って、初めてのキスをして。不安になりながらも二人で乗り越えた登校日もあった。うちに泊まりにきた栞との二人きりの時間では更に栞のことが好きになって。初めて身体を重ねた時は幸福感で満たされた。


 そしてプールで遊んではしゃぎまわって、……そこで思い出は途切れている。あの日から俺の中の時間は止まってしまっていた。


 夏休みの二日目からあの日まで、俺達は毎日、一日だって欠かさずに一緒にいたんだ。雨の日だって、猛暑日だって。それが最後は……。


 楽しいことばかりだと思っていた夏休みが、まさかこんな形で終わることになるなんて思いもしなかった。


 大好きなのに、ずっと一緒にいようと約束したはずなのに、今は栞がこんなにも遠くなってしまっていた。



 翌朝、無慈悲なアラームに起こされる。セットしたのは俺なのだから、誰に文句を言えるものでもないが。


 顔を洗いに洗面所へ行くと、鏡に情けない顔をした自分が映った。ここ数日寝付きが悪いせいで、目の下にはくっきりと隈ができている。髪はボサボサで、顔には覇気がない。顔はどうにもできないので、髪だけ適当に直した。


 自室に戻ってノソノソと制服に袖を通して。食欲がなくて朝食は食べられず、コップ一杯の麦茶だけを流し込んだ。


 家を出る時間が近付くと、もしかしたら栞が迎えに来るんじゃないかと淡い期待が膨らんで。でもそんな夢みたいなことは当然起こらない。約束もしていないのだから当然だ。


 仕方がないので前と同じように一人で駅へ向い、一人で電車に乗り、一人で学校へ、そして教室へと向かった。その間、登校日の朝に栞と並んで歩いたことばかり思い出してまた気分が沈む。


 教室に入ると、すでに栞は自分の席に座っていた。その正面には楓さんと橘さんがいて三人で話をしているらしい。


 俺が自分の席に近付いていくと、気配に気付いた栞が振り返る。


「あっ、涼、おはよ」


 ニコリと微笑んで挨拶をしてくれる。


「うん、おはよ、栞」


 この数日が嘘であったかのように、心に光がさした気がした。でもそんなわけもなく、挨拶が済むと栞はまた俺に背を向けた。拒絶とも取れる仕草。でも挨拶はしてくれたわけで、またわけがわからなくなる。


 斜め後ろに立つ俺からは栞の横顔がわずかに見える。笑いながら普通に楓さん達と話をしているように見えるけど、その顔は明らかに無理をしている時のそれだ。


 この数ヶ月の間、俺はずっと栞だけを見てきたんだ。だから手に取るようにわかってしまう。ただ、わかるだけに苦しくて。


 俺は椅子にも座らずに、栞の横顔を眺めていた。

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