第14話 栞、髪を切る
◆黒羽栞◆
「〜♪」
「どうしたの、栞? 今日はずっとご機嫌ね」
夕飯を食べ終わって、片付けをしているとお母さんにそう言われた。
「そうかな?」
「気付いてないの? ずっと鼻歌歌ってるじゃない。何かいいことでもあったの?」
そういえば私、家でもずっと暗い顔してたっけ。
これでもなるべく普通にしようとは思ってるんだ。外に出る時は下ろしている前髪だって、家ではヘアバンドで上げてわからないようにしてるし。おかげであまり家族と出かけられないんだけど。
それでも気付いてるよね。だって親だもん。あの時から私は笑えなくなって、お父さんもお母さんもそんな私にそれまで以上に優しくなったから。
でも最近は少し笑えてる気がするんだ。今日だって涼と夏休みの予定を話したせいで、まだちょっと気分が高揚してる。
言っちゃってもいいかな……?
そのうち連れてくるつもりだし……。
「あのね、私……、友達ができたの」
「あら、そうなの? どんな子?」
「えっとね、優しい人、かな? 涼って言うんだけどね……」
「男の子なの?」
「うん、そう。ちょっと前から話すようになってね、私と友達になりたいって言ってくれたの」
「その子は栞のこと大事にしてくれる?」
「うん……、たぶん」
「そっか……。よかったわね」
やっぱり……。
お母さんはどこか安心するような顔を浮かべた。
心配かけてるなぁって申し訳なくなる。
「そのうち連れてくるね」
「会わせてくれるの? それは楽しみね」
「夏休み中、遊ぶ約束してるから。宿題も一緒にやろうねって。それでね、私、髪を切ろうと思うんだけど……。今、こんなだから……」
ヘアバンドを外して、初めていつもの学校での姿を見せた。お母さんは一瞬驚いた顔を浮かべたけど、すぐに優しい表情に変わる。
「いいんじゃない? せっかくきれいな髪をしてるんだし。いつ切るか決めたら私から
継実さんというのはお母さんの親友で美容師をしている人だ。お父さん、お母さんとは高校の時からの付き合いらしくて、よくうちにも遊びに来ていた。最近は仕事が忙しいのか頻度は減ってしまったけど。継実さんには子供がいないので、昔から本当の娘のように可愛がってもらっていた。
「それはもう決めてるの。夏休みの初日にしようかなって」
「そうなのね。それじゃ後で伝えとくね」
「うん。ありがとう、お母さん」
気遣ってくれてありがとう、心配かけてごめんなさい、色んな気持ちを込めてお礼を言った。
***
夏休みはあっという間にやってきた。
涼の家に行くのは夏休み二日目と決まって、まずは一緒に宿題を片付ける約束になっている。遊んだりは、多分その後。することなんてまだ何も決めてないけれど。
とにかく初日の今日は予定通り髪を切りに行く。
まだ学校で他の人に見せるのは怖いから、夏休みに入ってからにした。けど涼にだけなら別。涼には本当の私を見てほしいって思うから。
馴染みの美容室のドアを開けると、カランと来客を告げるベルが鳴る。
その音を聞きつけて、すぐに奥から継実さんが顔を出してくれた。
「栞ちゃん、久しぶり。待ってたよ」
「お久しぶりです、継実さん。今日はよろしくお願いします」
「そんなに畏まらなくていいのに。ほら、そんなとこに立ってないで座って」
席へと案内されて、準備が始まる。
「相変わらず綺麗な髪ね。羨ましい」
「お母さんがちゃんと手入れしろってうるさいんで……」
お母さんは美容とかそういうことにはうるさいんだ。私自身がこんな感じだから、どうでもいいって思ってるんだけど。
とりあえずお母さんに文句を言われない程度にはやっている。おかげでお風呂上がりは忙しい。
けど今回はそれが役に立つかもしれない。
「
文乃はお母さんの名前。ちなみにお父さんは
「そうなんですか?」
「そうよ? 聞いたことない? 文乃ったら聡君にアタックするために自分を磨くんだーってよく言ってたんだから」
付き合った後の話はよく聞かされていたけど、その前の話は初めてだった。
「じゃあ、それでうまくいったんですね」
「そうなるのかな? 色々あったけどねぇ。文乃が綺麗になって男子からモテるようになっちゃったせいで、聡君が諦めようとしたり」
「今じゃ考えられないですね……」
むしろ今はお父さんの方がお母さんにベタ惚れって感じなんだもん。
「でしょ? ま、結局巻き込まれた私の方がハマっちゃって、こんなことしてるってわけよ」
「そうだったんですか」
まさかお母さんが継実さんの人生にそこまで影響を与えていたとは。まぁ、今の私だって涼からたくさん影響を受けているわけだけど。
人との関わりって本当にどう作用するかわからない。あの時みたいに悪い結果を生むこともあれば、継実さんや私や涼みたいに良い方向に働くこともある。
それからしばらく継実さんはお父さんとお母さんの話をしてくれた。両親のことなのに知らないことだらけで少し面白かった。
「さて、昔話はこれくらいにしときましょ。文乃にバレたら怒られちゃう」
「お母さんに言ったりしませんよ?」
「ふふっ、ありがと。でも次の人の予約もあるからね」
「あ、そうですよね。すいません」
継実さんの美容室はこの辺りでは割と人気店なんだ。いくら可愛がってもらっていると言っても迷惑をかけてしまうのはよくない。
「いいのいいの。私が始めた話だし。それで、今日はどうする? 伸びた分切る感じ?」
私の髪に触れながら継実さんが尋ねる。
やっぱりちょっとだけ怖い。ずっと隠してきたものをさらけ出すのだから当然だ。それも自分で良くないものと思い込んでいたものを。
でも、今はそれ以上に手に入れたいものがある。いや、ものなんて言っちゃダメか……。
「あの……今回は前髪、切りたいなって思って……」
「……いいの?」
継実さんには小さい頃から髪を切ってもらっていて、私の前髪の事情を知る唯一の人だ。髪を触られたらどうしてもわかってしまうから。
両親にも言えなくて、辛くて苦しかった時に継実さんにだけは事情を話したことがあった。優しく抱きしめてくれて、たくさん泣いたっけ。それでも全然傷は癒えなかったけど。
事情を知る継実さんだからこそのこの言葉だ。意味までちゃんと理解してくれてるんだと思う。だからそんなことして平気なのかと聞いているんだ。
でも私の答えは変わらない。
呼び方だって私が手を伸ばしたから掴めた。手に入るかどうかはわからなくても、まずは手を伸ばさないことには始まらないから。
「いいんです。思い切りやっちゃってください」
「……わかった。とびきり可愛くしてあげるから覚悟なさい?」
望むところだ。まずは見た目から変えていく。
「はい、お願いします」
そう答えて私は目を閉じた。
霧吹きで髪を濡らされる。
継実さんの指が前髪に触れる。
櫛で梳かれて、ハサミが──。
サクッという音の後に少し遅れてパサッと髪が落ちる音がする。
もう後には引けないと思うと、弱い自分が顔を出して震えそうになる。
無理やり抑え込む。動いたら継実さんがやりにくいだろうし、仕上がりもおかしくなるかもしれない。
大丈夫、大丈夫──。
何度も自分に言い聞かせる。それでもまだ足りなくて。けど涼の顔を思い浮かべるとそれは自然におさまった。
依存し過ぎだって思うけど、今の私には他に縋るものがないのだから。
いつかちゃんと変わるから……。
だから今はもう少しだけこのままで……。
*
私は終始目を閉じていた。途中シャンプー台へ移動する時も鏡は見なかった。
「はい、完成。栞ちゃん、仕上がり確認してくれる?」
そう言われてようやく目を開けた。
鏡に映る自分を見る。
どう頑張っても、もう顔を隠せない長さの前髪。しっかり両目が露わになっている。
でもこれなら……。
「ねぇ、栞ちゃん。好きな人できたでしょ?」
「へっ?」
突然の質問にドキッとした。一気に顔が熱くなるのを感じる。
私、口に出してないよね……? なんでわかるの?
「なーんかそんな顔してるよ。昔、聡君を追いかけてた頃の文乃にそっくりだし。いやぁ、親子だねぇ」
「いや、その……できたのは友達ですよ? 一応男の子ではありますけど……」
「ほら、男の子だった。別に友達を好きになっちゃダメってことはないでしょ?」
「それはそうですけど……」
「髪を切ることにしたのも、その子のおかげってことかな?」
「まぁ……、はい」
「ふ〜ん。そっかそっか、安心したよ」
本当に色んな人に心配かけてたんだって改めて思った。
「うまくいったら連れておいで。私が彼のことも格好良くしてあげよう。大丈夫、今の栞ちゃんとっても可愛いから、どんな男の子もコロっといくって」
バシッと背中を叩かれた。
涼以外の男の子なんてどうでもいいんだけど。
「……はい」
どうなるかなんてわからないけど、ちょっとだけ自信がわいた気がする。
継実さんにお礼を言って店を出ると、夏の日差しが眩しくて少しだけクラっとした。
でも久しぶりの前髪というフィルターを通さない外の世界はとても明るくて、こんなに色に溢れてたんだって気付いた。ずっと灰色だと思ってたのに。
涼はなんて言うかな? 驚くかな? 可愛いって、思ってくれるかな……? 思ってくれるといいなぁ……。
明日がとっても楽しみになってきた。ウキウキと心が弾むようで、足取りまでも軽かった。
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