第40話 茫漠の部屋-2
「あいつの――ハンプティ・ダンプティの声がしつこくぼくを呼ぶんだ。リングバーンに来い、自分を一人にするなって。何度もしつこく……もう何年も」
彼女は顔を強張らせて、うん。と口にする。
「茉莉伽さんが言うには父は一度リングバーンで
「ないわけない!」
言葉の途中で彼女が声を荒らげて身を乗り出す。がたん、とベッドに手が置かれ、ぼくの眼前まで彼女の顔が迫っていた。
「そんなわけない! だってアリスには舞さんがいるし! お母さんもいるはずでしょ!」
「……二人と血が繋がってないとしたら?」
ぼくの声は、手はいよいよ震え始めてきた。
こんなことを自分の方から他人に喋るのは初めてだ。ぼくの隠しておきたかった部分を話すのを頭は拒否感を訴えるが、一方で口は一向に止まらない。
ぼくの、ぼくでない部分が、彼女には話を聞いてほしいと願っているようだった。
「不貞の子って奴なんだよ、ぼくは。父が調子に乗っていた時に職場の年下の女と不倫して出来た子なんだ。母さんとは血が繋がってないから、義理の娘ってことになってる」
ベッドの上の彼女の手と、彼女の表情が強ばる。
「だから、ぼくには居場所がないっていうのもあながち間違いじゃないんだ。本物の母親だって父が落ち目になる前から別の男と逢ってて、最後はぼくを置いて逃げるようにいなくなった」
ぼくはふふっ、と自分を嘲笑うように鼻を鳴らして、続ける。
「母さんもぼくには少しよそよそしくて、そこにあいつの声がして……それに耐えきれなくなって、姉さんを頼ってこの街に来たんだ。だから、今もあいつの声に屈しそうになる」
そうやって自嘲気味に事実を口にした次の瞬間、今度は彼女にいきなり手を掴まれた。
「……それこそハンプティ・ダンプティの嘘を信じてるだけだよ」
これ以上無いほど力強く、彼女は言った。
「アリスがあいつに勝てない理由が今わかった」
彼女はぼくの手を強く握ったまま、気を吐く。
「アリスは剣をちゃんと使えてないんだよ」
「剣を、使えてない?」
ぼくは苛立ちの籠もった声で返す。輪上の乙女なりたての彼女に、ぼくの戦ってきた時間全てを否定されている気がして気に障ったからだ。
だが灯里は語調を崩さず、それどころかより強めてぼくに言う。
「確かにアリスの剣裁きや立ち回りは凄いと思う。でも、剣道やってるうちの弟が言ってたの。刀は軽い力や変な方向に力を乗せると折れる。正しい方向に真っ直ぐ全部の力を乗せて叩きつけないといけないって――『心』の剣も多分同じで、アリスが自分自身で否定し続けたら、魔法の力で自分を傷つけて、力も散っちゃうんだ」
体温が高いのか、熱を帯びた彼女の手はぼくの手を包みこんで、離そうとしなかった。
「何回か会っただけだけど、舞さんはアリスのことを本物の妹だと思ってる。よそよそしいんじゃなく、アリスがあの街に捕まって死んじゃいそうなのを怖がってるだけ」
それに、と彼女がそこまで言って付け足す。
「一応、わたしもいるから」
ぐ、とさらに強く、彼女の手に力が込められる。
彼女の眼の真っ直ぐさと言葉端の熱に、いっときの同情や演技ではないのもわかった。
「わたしがアリスの味方になる。なんて言っても、味方する」
「なんでそこまで言えるんだ」
ぼくは呆れ返った。彼女の真っ直ぐさにも、それを期待してしまう自分自身にも。
「何度も守ってくれたし、友達って認めてくれたから」
「まだ半月くらいしか付き合ってないよ、ぼくたち」
「それでも」
そう力強く言い、やっとぼくの手を包む彼女の手が解かれる。
「誰かに一途すぎるって言われたことない?」
彼女は、灯理は笑って答えた。
「まだない」
灯理は優柔不断で流されやすいように見えるが、根っこはとても一途だ。
その一途さがあったから、彼女は松谷さんやお母さんをリングバーンから生還させたのだろう。
そして、その一途さに惹かれて、ぼくも彼女に全てを話してしまったのかもしれない。
ぼくは灯理が持ってきたスポーツドリンクのキャップを開け、口をつける。隣にいる灯理はぼくの様子を見守ってくれていた。
「ねえ、なんであいつのことハンプティ・ダンプティって呼ぶの?」
彼女が訊ねる。
「……父の聞かせてくれたお話の悪役なんだ」
「『鏡の国のアリス』のハンプティ・ダンプティじゃなくて?」
「
ぼくは一度首を振って、つけ加えるように言う。
「後で色んな小説や漫画のパッチワークだって姉さんに言われたけど」
「パッチワークでも、なんか面白そう。わたしはそういうの好きかも」
「うん」とぼくも首肯する。
実際姉さんも「オリジナリティは全然無い」とばっさり切り捨てたが、面白さだけは認めていた。
「ハンプティ・ダンプティはその中の悪役で、卵の体に嫌味な高いスーツを着て、いっつも葉巻を吸って嫌らしくニヤニヤ笑う奴。人を傷つけて笑いものにしたり、言葉の魔法で大勢の人を操って、地下鉄の国の王様を気取ってる。ダニエルも言葉の魔法に乗せられて大切な友達や自分の夢や魂を奪われて、魂はハンプティ・ダンプティに取り込まれた――だからぼくは、あいつをハンプティ・ダンプティって呼んだ」
そこまで言った時に、突然黙って聞いていた灯理が言葉を返す。
「あのねアリス。アリスのお父さん、わたしのお母さんにかけた電話で、『俺が本物のハンプティ・ダンプティになる前に、娘を助けてくれ』って言ったんだって」
だからさ、と彼女は続ける。
「アリスのお父さんは最後の瞬間までハンプティ・ダンプティになんかなってなかったし、ハンプティ・ダンプティもアリスのお父さんを食べられなかったと思う。ハンプティ・ダンプティはきっと、アリスのお父さんが本当は嫌ってた、ニセモノの自分の姿の市獣。そいつが食べられなかったお父さんの代わりにアリスをしつこく追い回してるんだ」
へへ、と苦笑いしながら首を傾ける灯里。西日の光が、彼女の顔に大きな影を落とす。
「わたしもそういう自分を真似されて、香織やお母さんを巻き込まれたし」
ああ、確かに。
『アリスとダニエル』のハンプティ・ダンプティの悪事はいつもいつもとても生々しく、憎々しげに書かれていた。まるで自分が加担した罪を憎むように。
灯里の言葉に、ぼくの脳裏にまだ消えずに残っていた父さんの姿が思い浮かべる。
くしゃくしゃのダンガリーシャツ姿で、煙草を吸いながら、難しそうな、寂しそうな顔でメモ帳と灰色のノートに万年筆を手に向き合って、暫くしてノートを持って『アリスとダニエル』の新しいお話をリビングで聞かせてくれた父さん。
ぼくは夕陽の海に影を落として浮かぶチェストに目をやる。一番上の鍵のかかった引き出しの中、あそこに『アリスとダニエル』の灰色のノートは入っている。
父さんを嫌いになり、何度捨てようとして捨てられなかった、その度にめくってしまったノート。
幼いぼくにはすらすらと物語を読み聞かせてくれたけど、本当は濃紺の細いペン先で、何度も文字を塗り潰しては書き直した跡が生々しく残っていたノート。
あの物語は、絶対にハンプティ・ダンプティなんかには書けはしない。
「……それに『鏡の国のアリス』のハンプティ・ダンプティも正体は猫だもん。あいつの言葉や格好や記憶をほじくり返す言葉に惑わされないで……自分やお父さんじゃなく、あいつだけに全力でその想いを叩きつければ良い」
うん。と頷くぼく。
一旦スポーツドリンクを飲み干し、ぼくは改めて灯里の方に向き直る。
「脚が治ったら今度こそあいつを――ハンプティ・ダンプティを倒す」
その決意だけは絶対に変わらない。それどころか、余計に強まった。
ぼくがあいつの呪縛から逃れるためにも。父さんの最後の願いを叶えるためにも。
ぼくは深呼吸の後、覚悟を決めてその一言を口にした。
「だから、灯理にも手伝って欲しい」
「もちろん」
灯理はこくりと頷く。
彼女の眼は最初に会った時の怯えたぼんやりとした眼とは程遠い、意志の光に満ちていた。それはきっと夕陽の反射のせいなんかなじゃないはずだ。
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