第30話 過去の牢獄-1

 気づけばわたしは、くすんだ夕陽が差し込む電車の中心に立っていた。


 またわたしの知らない古い電車だ、と言うのはすぐにわかったが、クーラーがくっついてるので、前にわたしが乗った赤い丸ノ内線や、香織を迎えに来た時の茶色い古ぼけた電車よりは多分ずっと新しい電車なんだろう。

 車窓の向こうには、架線柱に混じって水平線のように映る茶色の高架線と、その下に無秩序に次から次へ建物を並べた箱庭のような街の遠景が広がっている。


 間違いない。ここはリングバーンだ。


 新宿駅の境界から、わたしとお母さんは環状線に直接乗ってしまったのだ。

 早くどうにかしなければ。とわたしはお母さんを探す。

 お母さんはすぐ見つかった。わたしの居たところからそう離れていない席席で、電車の椅子に座って虚ろな目で横を向いていた。

 わたしは両手をパーカーのポケットに手を突っ込み、右手で銀の車掌鋏を握り、左手で切符と改札鋏を探り当てる。

 この状況に何も慌てなかったのは、多分わたし自身がリングバーンに慣れすぎてしまったせいかもしれない。

だけど、そんな平静は一瞬で焦りに変わる。


「切符、切符!」


 焦りが口から言葉として漏れるがまま、左ポケットをまさぐり回すわたし。

 リングバーンから帰る『市内四拾銭』の切符がパーカーのポケットに無い。


「ああ、そうだ!」


 わたしは、自分自身の致命的なミスに膝を打った。

 切符自体はポケットの中に確かに余分に入れている。でもそれは制服のブレザーのだ。

 千里さんの『マホカツ』の提案を受けて、朝出る時に最低限の行き帰りの二枚だけ抜き取ってきたのを思い出し、自分を呪った。

 じゃあどうすればいいか、わたしは目の前のお母さんを見下ろしながら、荒い深呼吸と共になんとか冷静になるように自分に言い聞かせる。

 そうだ、と切符の代わりに自分のスマートフォンを鞄から取り出す。

 すぐさまラインを呼び出して『橿家まりか』のタイムラインに『お母さんと環状線の電車に乗せられました。切符ありません』と打ち込む。

 見返すと滅茶苦茶な文章だったが、これで通じると信じたかった。


 すぐにスマートフォンが震えた。


『環状線の電車にそのまま乗ってしまったんですね』

『はい』

『ならおそらく誘われたのは貴女のお母様かと。灯里ちゃんはついでです』


 どうやら、意味自体は伝わったらしかった。


『なんでお母さんが乗せられたんですか』

『境界を開けたのは貴女の市獣の所業でしょうが、電車に乗ってしまったのはお母様当人の心の在りようです。自我を取り戻せるかどうかはお母様次第かと』


 茉莉伽さんのライン越しの分析は、さっきまであったはずのわたしの余裕をガリガリ削ってゆく。

『切符をアリスちゃんに持って行くよう伝えます』

『市獣は貴女ではなくお母様を狙っています。それを承知して下さい』


 わたしは「はい」とだけ打ち込んでスマートフォンをポケットに再びしまう。

 そして、右手の銀の鋏を拳銃に変えて取り出す。

 純銀色の小さな拳銃は焦りでいっぱいになっていたわたしに、重みと安心感を与えてくれた。

 乗客達は以前二度見たリングバーンの電車同様、皆血色のない頬で重苦しい顔をして下を向いている。

 そして、お母さんも今はその一人だ。


 まだお母さんのほっぺは血が通って赤い。

 でも電車に乗り続けていたら、いずれリングバーンに記憶も、意思も、感情も、心全部が食べられる。周りの乗客のように青白い色の頬の構造物になる。

 お母さんがリングバーンに囚われてしまった理由、そんなの一つしか思いつかない。


「お母さん、やっぱり悩んでたんだ……多分、わたしのことで」 


 わたしが眼鏡のことや、当てつけみたいなカラオケの話をしたから、こうなった。

 最近は二回も遅い時間に出歩いたわけだし、明日は眼鏡を買いに行くと宣言した日だ。


「それならわたしが悪いってこと……」

 わたしは俯くお母さんに視線を向け、そこまで口にしてから「ううん」と首を横に振る。

 全部自分のせいにしちゃダメ。香織にも、アリスにも、茉莉伽さんにも言われた言葉を思い出し、銃のお尻の、銀のピースを引く。

 薬室に差し込まれたのは、くすんだ金色をした真鍮の薬莢にはめ込まれた、薬莢よりもっと鮮やかに輝く金色の弾丸。止まった心の時間を動かす、わたしの魔法。

 結論は千里さんを迎えに行った日に出していた。お母さんはわたしのことで悩んでるんじゃない。お母さん自身の『過去の何か』を怖がってる。

 きっとそれがお母さんの時間を止めている。

 なら、わたしがもっかい動かせば良い。

 両手を添え、お母さんの胸に向かって、ゆっくり腕を伸ばし拳銃を構える。

 香織の時のように時間を動かせれば。目を細めて照門と照星を胸に合わせた。


「なんで」

 わたしの口が、また焦りの言葉を勝手に漏らす。

「この黒いぐちゃぐちゃ、何? お母さんの心、何にも見えない」


 照星の向こうに浮かぶお母さんの胸の内側は、黒いぐちゃぐちゃしたものに阻まれてる。

 香織の時は灰色の止まった心が、撃ち抜くべき場所が見えた。

 けれどお母さんのそこは真っ黒な線状の何かが複雑に絡み、心を何重にも覆って、何も見えなくなっている。

 植物質とゴム質が混ざりあった、ラタンと電線の間の子のようなそれは、お母さんの心を固く守って、内側を絶対に見せまいと閉ざしているのだ。


「お願い……!」


 わたしは一縷の望みをかけて、引き金を引く。

 電車の立てる金属音を切り裂き、ぱぁん。と乾いた音が車内に響き渡る。

 銃口から出た弾丸は香織の時と同じ様にお母さんの胸に飛び込もうとする。


 けれども、駄目だった。


 お母さんの心を覆う黒いぐちゃぐちゃに、弾丸はぱきん、と弾き返され、砕けた。

 砕けた弾丸が電車の床に落ちた途端、わたしは膝をついて、今まで見下ろしてたお母さんの服を掴み、叫び、揺さぶる。


「お母さん! お母さん、起きて! 起きなきゃダメだよお母さん!」


 唯一わたしが出来ることだった時間の魔法が砕かれてしまった今、こんなことしても意味ないってわかっているのに、わたしはお母さんの名前を呼びながら、揺さぶり続ける。

 と、灰色の頬の乗客達がわたし達の方を向いたり、互いに互いの顔を見合わせてから、誰もがぶつぶつと不満げに呟き、軽蔑の視線を車両の端に向けた。


「クソ犬、なんでこっち来るのよ」


 わたしの隣で肩を落として吊革を握っていた、灰色の頬をしたリクルートスーツの女性が、至極迷惑そうに言い放つ。


 あいつだ。

 わたしは拳銃のお尻のピースをもう一度引く。

 先端の弾丸は金でなく赤銅色なのを確認し、こくん、と唾を飲む。

 今わたしの銃に込められているのは心を動かす魔法じゃなく、あいつを倒すための魔法。

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