第190話 「ちゅー……!」
早霧とベッドの上で家族ごっこ。
そんなドキドキしかないイベントが、めちゃくちゃ良い雰囲気から始まって。
「あなたー、起きてー! 朝ごはんできてるよー!」
「う、うーん……」
「もう寝坊助さんなんだから! 早く起きないと会社に遅刻しちゃうよー?」
「わ、わかったよ……」
それはまるで、子供の時に戻ったようだった。
俺と早霧の両手には、それぞれ動物のぬいぐるみを一匹持っている。
早霧がいつもこの部屋で見る羊のぬいぐるみで、俺はベッドの中にいた犬のぬいぐるみだ。
お互いがぬいぐるみを持ちながら、その動物になりきって家族ごっこをする遊び。
そう、これはつまり――おままごとだった。
「なあ早霧。流石にこの歳でおままごとは……ちょっと恥ずかしくないか?」
「えー? 昔はよく一緒に遊んだのにー? それと今の蓮司は犬さんなんだから、集中しないと駄目だよ?」
「す、すまん……」
今の俺は犬さんらしい。
ネーミングセンスがそのまま過ぎるけど、今の早霧の口から犬さんという可愛い言葉が聞けたので良しとする。
早霧が言う通り、早霧の身体が今よりも病弱で家から出れなかった時はこうして二人でぬいぐるみを使っておままごとをして遊んでいた。
懐かしい。
でも今の高校生になった俺がおままごとをやるのは、やっぱり恥ずかしい気持ちの方が強かった。
「今日はねー、あなたが大好きなお肉料理フルコースを作ってみたんだー!」
「あ、ありがとう……とっても嬉しいよ……」
でも早霧が楽しそうなので、少しぐらいの恥ずかしさは我慢する。
朝からお肉料理フルコースとかいう胃や腹に壊滅的なダメージを与えかねない愛の大きさはとりあえず無視だ。
「いっぱい食べてね?」
「うん、いただきます……もぐもぐもぐ……」
あ、駄目だ……やっぱり恥ずかしい。
自分の手で犬さんのぬいぐるみを動かして、もぐもぐもぐとアテレコするのは思ってた以上に恥ずかしかった。
「おいしい?」
「うん、おいしいよ……えっと、き、君も一緒に食べようよ!」
「ごめん私、草食動物だからお肉はちょっと……」
「あ、うん……僕の方こそ、ごめん」
変なところでリアルなおままごと、もとい家族ごっこだった。
名前のわからない推定羊さんは、草食動物だからお肉は食べられないらしい。
「あっ、あなた。お口にお肉がついてるよ?」
「え? どこどこ?」
「ほら、こーこっ! ちゅー!」
「んんっ!?」
すると突然、おままごとの途中で早霧の羊さんが俺の犬さんにキスをしてきた。
これはアレか? 口の横についていた食べ物をキスで取るアレか!?
でもお前の羊さん、草食動物じゃなかったのか!?
いきなり設定が破綻してるぞ!?
「えへへ、ごちそうさま……!」
「お、お粗末様……」
羊が肉を食べた。
愛の前では草食動物でもお肉を食べれるようになるらしい。
今更だけど、草食動物が肉食動物の口にキスをするってかなり危なくないか?
それこそ俺がこの犬さんのぬいぐるみじゃなくて、俺の部屋に居座っているオオカミのぬいぐるみ、レンジだったら大変なことになっていたかもしれない。
「じゃ、じゃあそろそろ仕事に行ってこようかな……!」
「あっ! あなた、待ってー!」
「え?」
いくらぬいぐるみとは言え、キスをすると夢中になってしまう前科がありすぎるので家族ごっこの物語を進める。
俺は持っている犬さんのぬいぐるみを遠ざけようとすると、慌てて羊さんのぬいぐるみが追いかけてきた。
「いってらっしゃいの、ちゅー!」
「うおっ!?」
そしてまた、早霧の羊さんが俺の犬さんの唇を塞いできた。
とんだキス魔な羊さんである。
「えへへ……気をつけてね、あなた!」
「あ、あぁ……いってきます」
「いってらっしゃーい!」
早霧の羊さんに手というか前足を振られながら俺の犬さんが仕事に出ていく。
この短いやり取りだけでも、将来は俺がこの犬さんの立場になるんだよなと想像してしまった。
けれどそんな未来に思いをはせる暇も無く、一瞬で仕事から帰ってきた犬さんはすぐに羊さんに迎え入れられる。
家族ごっこという幸せな世界に、労働という辛い仕事は存在しないんだ。
「た、ただいまー」
「あなた、おかえりなさーい! ちゅー!」
「んん……」
おむかえは、もちろん。ちゅーで。
流石にもう慣れたと言うか予想は出来ていたので驚かないけど、照れはする。
「ご飯にする? お風呂にする? それとも……ちゅー?」
「き、今日は汗かいちゃったから先にお風呂にしようかな!」
ヤバいと思ったので即座に思いついたアドリブでキスを回避。
家族ごっこもとい、おままごととは言え、今のセリフはかなりぐっとキてしまった。
「あぁ、さっぱりした……」
「はいあなた! もうご飯用意できてるよー! もちろんお肉のフルコース!」
「またか……じゃなくて、わ、わーい! 嬉しいなー!」
「でもその前に……ちゅー!」
「ち、ちゅー……」
誰か、早霧を止めてほしい。
いつもなら俺自身が早霧とキスをして夢中になっているけれど、こうして別の視点からキスを繰り返す羊さんと犬さんの姿を見ているとムズムズして仕方ないんだ。
ひょっとして草壁もこんな気持ちだったんだろうか……。
いや彼女はもっと純粋に邪な気持ちな気がする。
「ご飯中のちゅー!」
……ていうか。
「ごちそうさまでしたのちゅー!」
思ったんだけど。
「歯磨き後のちゅー!」
早霧の奴……。
「一緒にテレビ見てる時もちゅー!」
完全にキスのスイッチが入ってないか?
「ベッドに入る前もちゅー!」
流石に数が多すぎるっていうか。
「おやすみのぉ……ちゅー!」
……いや、待て。
「寝れないから、ね? ちゅー……!」
……これってさ。
「ち、ちゅー……!」
……もしかして、俺。
「蓮司……ちゅー……」
――誘われてないか?
「さ、さぎ、り……!?」
「ちゅー……」
俺は、キスをしまくる羊さんと犬さんから顔を上げる。
するとそこには手に持ってる羊さんじゃなくて、俺を見つめてくる可愛い親友の姿があった。
ベッドの上にペタンと座り込んで、少し上目遣いになるように瞳を潤ませて何かをおねだりするその仕草は、俺の意識を家族ごっこから現実に一気に引き戻した。
「れんじ……」
ゆっくり、ゆっくりと、早霧が俺に近づいてくる。
ベッドの上がギシリと揺れて、手から離れた羊さんが犬さんの上に覆いかぶさった。
けれど俺の意識は身体が重なり合ったぬいぐるみさんには向いていない。
もう、目の前にいる、早霧の綺麗な顔、そして唇に夢中で。
「――んぅ」
「――んっ」
ごっこ遊びを終えた俺たちは、自然と唇を重ねていたんだ。
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