第8話『身代わり』

 電話を切った直後に、美由紀はソファから立ち上がり、出掛ける準備を始める。


「美由紀?」


「そうよ……わたしがっ」


「おい、美由紀!」


 ふらふらした足取りのまま玄関へ向かう美由紀を隆信は慌てて追い掛けた。


「美由紀っ、どこへ行くつもりだ!」


 腕を捕まれ、朦朧とした目を夫に向ける。気づけば、部屋で休んでいたはずの梨花がうさぎのぬいぐるみを抱き締めたまま、リビングからこちらを窺っていた。もう小学五年生にもなるのだが、怖い映画を見た後や不安な出来事があったりした時は必ずそのぬいぐるみを抱いて離さない。


「梨花を守らなくちゃ」


「美由紀っ!!」


 夫の制止も聞かずに、美由紀は玄関から飛び出した。




 必死に走り、辿り着いたのはあの神社。


 辺りは薄暗くなり、あの日のように不気味な雰囲気が漂う。一瞬、恐怖心から足が竦む。しかし、迷う余地はない。美由紀は意を決して、箱へと向かっていった。


 震える手で紙と鉛筆を握り締める。そして、迷うことなく自分の名前を書いた。夢の欄には“梨花の代わりにわたしを殺して”と書き、箱の中へと投入する。


「千佳子……見てるんでしょ?」


 千佳子が埋まっている地面に向かって告げる。


「梨花は関係ない……だから、梨花の呪いは全部わたしが引き受ける!」


 跪き、涙混じりに懇願する。


「どんなに惨い死に方をしてもいいから、梨花だけは許して! お願いします!!」


 自分勝手な願いだと分かっていた。千佳子が受けてきた屈辱に比べたら、わたし達を殺したって怒りは治まらない。


「千佳子、ごめんなさい。本当にごめんなさい!」


 懺悔の言葉もきっと無意味だろう。


 あの日、自分を犠牲にしてでも千佳子を庇ってあげるべきだった。何がなんでも鐙子を止めるべきだった。それを後悔したところで、千佳子の死は変えられない。


 逃れられない絶望の渦の中で、美由紀は何度も何度も地面に向かって謝ることしか出来なかった。




 その日の夜、夢を見た。



 頭が割れるように痛い。体も激痛で動かなかった。目を開けても、何も見えない暗闇で自分がどうなっているのかも分からない状態。そして何より、美由紀の恐怖心を駆り立てたのは息が出来なかった事だ。


「うっ……ぁ、あっ」


 あまりの苦しさから、喉に爪を突き立て掻き毟る。


『どう? 苦しい?』


 何も見えなかった空間に、突然現れた千佳子の顔に美由紀は目を見開いた。自分が藻掻き苦しむ姿を見て、ケタケタと笑う。


『わたしの苦しみを味わって死ねばいい!!』


 凄まじい怒りと共に言い放たれた言葉で、美由紀は目を覚ました。空気を求めるように、噎せるぐらいの荒い呼吸を繰り返す。


「はぁっ、あっ……」


 体全身に滴る汗に気持ち悪さを覚えながら起き上がると、自分の手にベッタリと赤い液体が付いていた。ヒリヒリと痛む首に手を当てると、生暖かな汗とは違う何かが手のひらを濡らす。それが自分の血なんだと、美由紀はどこか冷静に悟った。


「本当にあの時、千佳子は生きてたのね」


 自分のしてしまった罪の重さに、小さく唸るような声を出しながら嘆く。


「ごめんなさい……ごめんなさいっ」


 そこで美由紀は梨花の事を思いだし、慌てて寝室から飛び出した。


「梨花っ!!」


ドアを開け放ち、まだ眠っている娘の体を抱き上げる。頭や首、口の中を確認したが何も傷らしきものは見当たらなかった。


「んっ、お母さん?」


 寝惚けながら目を開いた梨花の目が一気に引きつる。傷だらけの首から未だに滲み出る鮮血が次々に伝い落ち、美由紀のパジャマはほとんど赤く染まっていた。


「おかっ……血が」


「大丈夫、わたしは大丈夫だから……それより梨花は? 怖い夢は見てない?」


 梨花は震えながらも小さく頷く。美由紀は安堵の表情を浮かべ、我が子の無事に感謝しながら強く抱き締めた。


「良かった……本当に良かった」


「美由紀?」


 リビングのソファで寝ていた隆信が物音で目を覚ましたのか、恐る恐る部屋に入ってくる。


「美由紀! その血っ……お前っ」


 血塗れになった妻を目の前にして青ざめていく夫の姿に、美由紀は安心させるように微笑んだ。


「これで、いいの……梨花を守れたんだから」


 わたしが死ねば終わる。


「梨花が生きてさえいれば、わたしは十分……」


「美由紀、警察へ行こう」


「警察なんて行っても無駄よ」


 隆信の手が力強く美由紀の肩を掴む。


「諦めるな!! 全部警察に話して罪を償えば呪いだって消えるかもしれないだろ!」


「今さら警察なんて……意味ないわ」


「お前に死なれたくないんだよ!!」


 隆信の意外な気持ちを聞き、美由紀は言葉を詰まらせた。


「梨花のために……やれるだけやろう」


 きっと殺人を犯したわたしなど拒絶されて終りだと覚悟していたのに、思わぬ夫の優しさに触れ、美由紀は涙を零す。


「ありがとう」


「梨花だって、美由紀のおかげで無事じゃないか。だから何か方法はある……」


「そうね」


 自分の胸で泣きじゃくる娘の頭を撫でながら、改めて実感した家族の愛に笑顔を浮かべた。

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