第2話 引っ越し
三月の寒い日。引っ越しを終えた私は学校のそばを歩き回っていた。
「アパートって、ここかあ……けっこうぼろいなあ……」
私は学校の近くの不動産屋が紹介してくれた一番安い物件、築五十年の二階建てのアパートの一室を借りた。家賃は4万7千円。シャワールームとトイレがついている1Kのアパートだ。一人暮らしには十分だろうと私は思った。
生活費は、父にもらったお金から学費を引いた残りと、高校生の間にアルバイトでためていたお金を当てれば当面は大丈夫だ。でも、なるべく早くアルバイトを決めたい。できれば収入の高いところがいい。
コンビニのバイトじゃ足りないけど、夜の職業ができるほど美人じゃないし、ガールズバーとかキャバクラってちょっと怖いし無理そう……とバイト探しで私は途方に暮れた。
大学の最寄り駅のそばの壁に貼られたフロアレディ募集のチラシを見ていた私に、男性が声をかけてきた。ちょっときれいなスーツを着ていて、なんとなく物腰の柔らかな大人の男性だ。年は30代前半くらいだろうか。
怪しがる私に、ちょっとうちの店で飲んでいかない? 顔色が悪いよ? と彼は言った。
「そういうの、大丈夫ですから」と断ったけど、彼は人懐こい笑みで言葉をつづけた。
「あ、君、アルバイト探してるの? うちも募集してるんだけど」
「……時給は?」
切羽詰まっていた私は、つい、ぽろりと口走ってしまった。
「1,600円」
私は時給を聞いて、話だけなら、と男についていくことにした。
駅のそばの細い路地の突き当りに、グレーの壁の小さなビルがあった。
ビルの地下一階にエレベーターで降りると、木でできた扉が見える。
男の人は扉を開けた。重くて分厚い扉は音もなく開いた。
薄暗い店内には遠慮がちな音でジャズがかかっていた。
「バー、有象無象。ここが私のお城」
「私?」
私は変な名前のバーだな、と思った。もっとも、バーの名前なんてよくわからないから、こんなものなのかもしれないとも思った。
「ちょっと準備するから待っててね」と男は去っていった。
ひとり店内に残された私は、店の様子を観察する。
カウンターには座り心地の良いシンプルなビロードっぽい深い赤色の椅子が四つ並んでいる。
奥に1つだけある四人掛けのテーブル席にはカウンターの椅子とおそろいの赤いソファが置かれている。
私はカバンを抱きしめて、カウンターの一番出入り口に近い椅子に腰かけた。
「おまたせ」
奥から出てきたのは、派手なメイクをした女性だ。
驚いている私を見て、けらけらと笑う女性。
「私よ、あんまりきれいになったから驚いちゃった?」
「……はい」
私は目を見開いていた。
目の前にいるドラッグクイーンのような、いや、ドラッグクイーンが小鍋を片手に何か作っている。
「はい、どうぞ。これ、あったまるわよ」
「いただきます……」
私は出された飲み物をじっと見た。あったかいカフェラテみたいだ。
「アルコールは飛ばしてあるから大丈夫よ」
私はまだ熱い液体を一口、くちに含んだ。
甘くておいしい。
ごくり、と飲み込むと、コーヒーのような良い香りと、ほろ苦さとコクが口に残った。
私はふうふうと息をかけながら、夢中でその液体を飲んだ。
「おいしい?」
「はい! とっても」
「元気、出たみたいね。これはホット・カルーア・ミルク」
「おいしいコーヒー牛乳じゃないんですか?」
驚いて彼女を見つめる。彼女は私を見て、にかっと笑う。
「アハハ、あんた面白いわね。名前は?」
「七海ななみです。酒井七海さかい ななみ」
彼女は自分のグラスに炭酸水とレモンの切れ端を入れて飲んだ。
「わたしは有三ゆうぞうだけど、ユウさんって呼んでね」
ユウさんが名刺をくれた。黒い名刺には赤い箔押しで『有象無象 ユウ』と書いてある。
「私、まだ18歳ですけど、大丈夫ですか?」
「ええ。最初は片付けや酔っぱらいの世話が中心になると思うけど」
「私も……こんなおいしいお酒がつくれるようになりますか?」
「努力次第じゃない? あ、でもセンスも必要だから……やってみないとわからないわね」
私は緊張して、ごくり、と唾をのんだ。
「どう? やってみる?」
「……はい」
こうして、私のバイト先が決まった。
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