エピローグ 月はまだそこにある ③

「うう、ひどいっ、ひどすぎるっ! 死後の世界から奇跡的に復活したいたいけな女の子を厳しい現実リアルの荒波に放り込もうとするのっ、あんたには人としての情や情けは無いのっ!? この人でなし!」


 夢破れてニートに食わす飯なし。哀れなるかな、浴衣から強制的に着替えさせられたニアは0Gボックスをガラガラ引きながら参道を下っていた。


「はいはい、どうせ私は人でなしですよ。ついでに言うなら今日から私もニア様も同じですね。うーん、この感じ。逃亡生活をしていた時分を思い出します」


 0Gボックスの上に跨ったムジナは背伸びをすると苦楽を共にした我が家を見回した。そして、ほんの少し寂しそうに微笑むと山に向かって小さく一礼したのであった。


「そういえばあんた、オーストラリアで裁判沙汰になって逃げてきたんだって? 何をやらかしたのよ? まあ別に全然っどうでもいいけどさー」

「なんか微妙に腹が立つ言い方ですね」

「ああ、わかった! 政治家や大司教の酒池肉林の記憶を漁ってそれで消されかけたんでしょ? 美少年を囲うのはいつだって権力者のロマンだものね! ねね、どうだった? やっぱりいいものなの?」

「はあー、あなたみたいな下衆と一緒にしないでください。そういう金さえ払えば手に入る記憶には興味がないのです。特にポルノは一生分の裸は見ましたのでむしろこっちがお金がもらいたいぐらいですよ。穴に突っ込むワンパターンの生殖行動のナニが楽しいのですか」

「むむっ、じゃあ血がドバドバ流れる系?」

「それもスラムや紛争地に行けばいくらでも無料でもらえますよ。試供サンプルより価値がないのです」

「それじゃ何なのよ?」


 ニアはイライラした口調で言った。元々、山本似愛はクイズもミステリーも嫌いだ。まどろっこしいたらありゃしない。ましてや変態の趣味嗜好なんかどうだっていい。


「善意、ですよ」

 

 モノノケが―――顔を見えない仮面で覆った―――ポツリと呟いた言葉を聞いたとき、ニアの脳裏に笹の葉から雪解けの水が一滴零れ落ちるイメージが浮かんだ。


「…………はっ?」


 なんだそれ。まるで予想外の答えに呆れて言葉を失ってしまう。さすがは変態というべきか、マニアックというべきか。いや、むしろ笑うところか?


「いやいや、そんなもの映画でもドラマでも何だってあるでしょ」

「所詮、それは作り物イミテーシヨンです。逆に言えば、本物が本当に素晴らしいからたとえ偽物でも欲しがるのです。仏陀が偶像崇拝を戒めたのに宗徒が仏像を造ってしまったようにです」


 車輪の動きが止まり、音がぴたりと止んだ。

 振り返ったニアの顔を夕陽の残り火めいた光が染めるのをムジナは見ている。


「ニア様、私はかつて神に仕える者だったのです」


 ニアは笑った。なんてひどい冗談だ。


「私は人間の中に善意があると信じていた。その中にこそ神は宿るのだと。そして、悪意や悪夢の中に私はたくさんの神を見つけました。たとえ駅で観光客から小銭をくすねようとする少年であっても、それはどんな宗教画よりも美しかった」


 暗がりのなかでムジナの貌は見えない。


「気がつけば、私は善意そのものに魅了されていた。私には宝石のように思えたのです。沢山の石くれのなかにほんの少しだけ存在するのも似ているかもしれません。そして、一度だけ誤りを犯しました。自分の中にもその宝石があると信じてしまったのですよ」


 そう言ってムジナは微笑む。それは明らかにまがい物であるのは明白であったが、ニアはあえて指摘しなかった。たぶんムジナと呼ばれる前の彼女、あるいは彼は―――。


「…………あんたも色々あったのね」


 それだけ言うのが今のニアには精一杯。そして、どうやら満更不正解ではなかったようで、顔を無くしたモノノケは少しだけ本物に近い笑顔を見せたのだった。


「ニア様の汚泥のような心にも宝石はありますよ…………たぶん」

「うるさいボケ」

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