8 忘れ去るべきもの③


「…………記憶とは何だと思いますか?」

「禅問答? くだらないことを言っていないで―――」

「そう、ただの情報データに過ぎない。しかし、世界そのものであるともいえる。この3つの空間次元に生きる我々はそれより上の世界を知覚することはできないし、仮にこの世界が別の世界の仮想世界だとしても我々はそれを自覚することもできない」


 そのとき仮面がふいに歪み、おぞましい笑みを浮かべるのをニアは見た。そして、それは決して錯覚でも幻覚でもないと確信する。


「ふふふ、はははは、記憶とはこの世界で何よりも純粋で何よりも価値のある万物の源なのですよ! 記憶とはその人物の歩んだ人生そのもの、つまりは他者の記憶を手に入れるということは人生そのものを我が物にするということ。ああ、なんて尊い、ああ、なんて背徳的なのでしょう…………」

「アンタ、いかれているわ」

「うふふふ、ニア様。私のお客様たちが依頼してくる消したくて消したくてたまらない、お客様たちにとっては悪夢そのものの記憶は私にとっては宝石よりも価値があるものですう。凌辱されるきおく、恐怖で震えて竦むようなきおく、失敗して周囲の人々の貌が凍り付くようなきおく、どれもどれもたまりません。ああ、すごく濃くて苦くてなんて素敵なのでしょう!」

「だから、あんたはアタシの記憶を狙ったの?」


 その変態的な言い分は全く共感できないが、ムジナが山本似愛の記憶を狙う理由は理解できる。山本似愛の記憶は言わばタイムカプセルだ。それも老人の所々欠落したものと違って一枚の絵のように鮮明な記憶。別の誰かの記憶を覗けるなら一目ぐらいなら見てみたいとも思う。


「はい、こちらに来るよう仕組ませていただきました。ふふ」

「アンタがAKIに情報が渡したのね」

「そうですそうですう」


 おかしいとは思っていた。いくら優秀なサポートAIとはいえ、裏世界同然の『顔無しの郷』の情報をどうして手に入れられたのか。いくら「記憶が消せる」とホームページに記載しているとはいえ、それを真に受けられるワケがない。ましてやAIがである。おそらくムジナはAKIの挙動を理解したうえで道のパンくずを撒くように情報を補強しつつ、周到に誘導したのだろう。

 そして、おそらくはニアとイーが初めて会ったあの夜の出会いも―――。


「…………まあ、いいや」


 こんな変態クソヤローに身を委ねるのは死ぬほど癪に障るし、これ以上ない屈辱だが、この世界で自分の中にいる山本似愛を殺せるのはコイツだけなのだから。

 ニアだって何度も自殺を考えた。それはもう数え切れないぐらいに。しかし、心と身体が石化するような強烈な死への恐怖と死んだところでまたあの男が生き返らせてしまうという疑いが自死を押し留めたのだ。


「もう何だっていいから、早くパッパッと消しちゃってよ」


 ニアはそう言うとベッドで倒れ伏した。刺された箇所は既にナイフが外れて、血が止まっていた。痛覚のSOSに応えて自己修復スピードが加速しているのだろう。バラバラの”パーツ”を無理やり繋ぎ止めるための副作用なのだが、ご苦労なことだ。


「…………本当によろしいのですか?」


 しかし、ムジナは先ほどの変態そのものだった状態から打って変わって怜悧な教団代表の貌に戻っていた。


「くどい。くれてやると言っているだろ」

「はあ、どうやらあなたは自分がどれだけ価値があるのか全くわかっていないようだ」


 照明が再び暗くなり始めると今度は先ほどよりも遙かに強烈な眠気が襲い、ニアの意識は一瞬にして断たれる。そして、それが最後の記憶になるはずだった。


「…………あの天狗たちが血眼になって探し求めたものがまさか自分から捨てに来るとは。まあ私は労苦もなく手に入れられるのだから有難くもらうだけだがね」


 …………えっ? それはどういう、

 僅かな疑問の波紋を残し、ニアの意識は消えた。

  


 浅いゆめを見ていた。

 寝不足で眠くて仕方がないのになぜか眠れなくて、とろとろと意識がまどろんでいるときにみるような夢だ。自分が夢を見ている実感はあるので俗に言う明晰夢なのだろう。

 ニアはゆめの中で天井を見ていた。

 来る日も来る日も天井を見つめている。視点は変わらない。ときたまベッドが床ずれ防止のために身体の位置を変える以外は何も変化することはない。

 ある日、□□は白い天井の中に僅かに染みがあることを発見した。

 ひどく嬉しかったことを覚えている。

 それからはいつもその染みを探していた。

 そして、染みを見つけられると心がすごく安心するのだ。

 それから眼球が動くことに気づいた。

 それから―――。


「おかえり」

 

 目の前に座る男はそう言った。

 意外に若いなと思ったが、何に対して意外だと思ったかはよく覚えていない。

 それからその男は毎日来るようになった。

 毎日診察するでもなく、他愛のない会話を少ししては帰っていく。

 □□はその男が来るのを楽しみにするようになっていた。

 明日は何を話してくれるのだろう。

 天井を見上げながらそんなことを思ったときだった。

 ふと何かを忘れていることに気づいた。

 天井には何か大事なものがあったのにそれが何かが思い出せない。

 そして、それはあの男が来るようになったからだ。

 言葉にならない重くて真っ黒な”染み”のようなものが頭の片隅に浮かび上がる。そして、それはいくら見ようとしても逃げ水のように遠ざかるのだ。


「君は幸運なニンゲンなんだよ」

  

 あの男がそう言ったのは光に満ちた中庭でのことだった。

 周囲には色とりどりの花が咲き乱れ、鼻をくすぐるような香りで満ちている。目の前をアゲハ蝶がひらひらと舞い、ミツバチがぶーんと低い音を出して耳の横を通り過ぎていく。

 楽園そのものの風景。

 生きることはなんと素晴らしいことだろう。


「―――ハッ」


 鼻から口から生温い生ごみのような空気が漏れるのを山本似愛は聞いた。

 なんて汚い。

 周囲に無数の死をまき散らすことが生きることの代償だというのなら。

 山本似愛は剪定ばさみ―――生と死を選別する傲慢の象徴―――を迷わず男の喉元に突き刺した。肉が裂ける感触とともに生温かくて粘度のある鉄の臭いのする液体―――きもちわるい―――が手から腕に流れ落ちていく。

 男はスローモーションのような世界の中でニアをじっと見ていた。


「おかえり」


 その顔には恐怖も驚きも悲しみもなく、


「君に世界の祝福あれ」


 喜色に満ちた表情で本気でそう言ったのだ。


 それが復讐の旅の始まり。

 世界の染みとなった少女の終わらないエピローグ。

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