8 忘れ去るべきもの①


    8 忘れ去るべきもの


「ニア様、時間です」


 モニターから顔上げると狐面が見下ろしていた。ウインドウズのエミュレーターを起動させていたので時間はある程度把握していたが、1秒のズレもなくお迎えに来たのはさすがとしか言いようがない。


「代表がお待ちです」

「アンタがムジナじゃないの?」

「いえ、私は違います」


 声だけでは違いは全くわからなかった。そうなると仮面を外した顔をぜひとも見たいところだが、狐面は既に入口で待っている。やはり現れたときと同じく、足音は一切聞こえなかった。


「やれやれ……よっこいしょっと」


 ゲーミングチェアから腰を上げると一瞬立ち眩みを起こしかけた。七号棟のPCルームで作業をしていたのはせいぜい1時間程度だが、全身が痛い。MR装置デバイスではなく、PCで触るのは死んで以来だ。BMIにすっかり慣れてしまうと今までよくこんな効率の悪い入力システムを使ってこれたのが不思議に思えてくる。


「その物理メディアをお預かりしてもよろしいでしょうか?」

「はいよ」


 恭しく差し出した両手にSDカードを置く。

 結局、時山の車内で見つかったSDカードにはそれらしいデータは見つからなかった。当時のデータ復活ソフトをどうにか見つけ出してみたものの、それも成果はなし。こうなるとムジナのデータ解析にかけるしかない。


「ねえ、イーはどうなった?」

「…………現在、目下追跡中です」

「ふーん」


 イーは時山の車に乗ると一人で行ってしまった。どうしてもムジナの掌中に帰すのが気に入らないらしい。まったく仲の悪いことだ。


「―――それであなたは独りで戻ってきたと」


 ムジナは少し呆れたように言った。着衣は斎服から白衣になっている。今すぐにでも”施術”を始めかねないその姿はあのときの言葉が嘘でも誇張でもないということだろう。


「まあね。SDカードは見つかったし、希望はゼロじゃないし」


 ニアは今、祭具殿の地下にある一室でムジナと対峙している。白一色の室内でムジナと椅子、ニアとベッドだけが浮き上がっている。まるで仮想空間みたいだなとニアは思う。


「残念ながら、あの物理メディアには大昔の地図データ以外には何も入っていませんでしたよ」

「えらく早いわね。ちゃんと調べたの? 特定の装置デバイスじゃないと意味を持たないデータとか映画やアニメだとよくあるじゃない」

「もちろん調べましたとも。過去に存在したあらゆる装置デバイスをエミュレートしてみましたが、結果はゼロです。それこそ電卓の毛の生えたようなPC黎明期のものも含めてね。たかだか8GBのデータです。月の光が地球に届く間に終わってしまいますよ」

「そっか……見つからなかったか…………」


 ニアは少しだけ残念そうな口調で言うと、小さくため息をついた。


「残念ですが、約束です。ニア様、これよりあなたの記憶を完全精査フルスキヤンさせていただきます。ご心配なく。あの場ではああは言いましたが、後遺症が出る確率はコンマ1パーセント以下です。それに記憶も消去させていただきますので、あなたは何も知らずに目覚めるでしょう」


 照明が暗くなり始めると同時にニアは不思議な眠気を感じ始めた。部屋やムジナの言葉に暗示効果があるのか、それとも空調に睡眠導入剤が混ぜられているのか、わからないがとにかく眠い。昼食を食べた後の午後の講義のようだ。


「…………ねえ、記憶はどうやって消すの? 施術の内容を事前説明するのがマナーでしょ」


 ムジナの形のいい眉の片方が少し吊り上がった。ニアが意識が失わないどころか、話し続けてられることに驚いているらしい。


「ほう、これは興味深い。21世紀の中頃までは常習的に向精神薬を使用していたというが、これはその耐性のせいかな」

「……五月蠅いわね。昔は今と違ってストレスが多かったのよ」


 ムジナは「ふむ」と呟くと狐面を被り、腕や顔をつねってなんとか眠気に耐えるニアを黙って眺めていたが、すぐに諦めたのか話し始めた。


「いいでしょう。このまま待ってもお姫様は寝てはくれないようだ」

「……こちとら死ぬほど眠いけど落とせない講義を潜り抜けているんだ。大学なめんなよ」

「ニア様、記憶を消すのではなく、正確には周囲の記憶を強化するのです。つまりは想起、思い出せないようにするのです」

「……それは時山から聞いたし、理屈もわかるわ。実際、私が生きていた時代も精神医療で使われていた技術だし。確か、認知行動療法だっけ?」


 狐面はゆらりとゆらりとかぶりを振った。

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