2 フルーツ味の豆腐③

「そう、だよね。う、寒い…………」


 冷たい北風が音もなく湯舟の上を通り抜けると、ニアはぶるりと震えて自分の肩を抱き寄せた、そのときだった。まるで風が尾を引くように、硫黄とは違う匂いがニアの鼻をくすぐった。

 その匂いは微かだったが、ひどく存在感があった。華やかで引き立つ燻煙の香り、それでいてくすぐるような甘さ。そして、何よりもひどく懐かしい。


「これは…………醤油?」


 そう呟いた途端にお腹がぐるりと鳴った。

 日本人なら自動的に食欲をそそるその香りの元を探してニアをお湯の中を立ち上がる。そして、くんくんと犬のように鼻を鳴らして風上の方向を探す。

 匂いはどうやら露天風呂の敷地内に建てられた東屋の中から漂ってきたらしい。東屋の中には源泉かけ流しの石風呂があった……はず。ニアは脳内で場内の地図を浮かべながらふらふらと石畳の上を歩いていく。


 …………客が自分以外にいるのだろうか?


 不安をふと覚えたが、好奇心と郷愁、それとほんの少しの人恋しさがそれを上回った。


「ま、取って食われるわけじゃあるまいし」


 東屋の柱の向こうに白い女の姿が垣間見えた。

 ほら、何も変なことは起きない。

 そもそも相手にしたら自分の方が明らかに化物だろう。皮膚の色がパッチワークのように異なるこの姿を見せたら怖がらせてしまうのではないか?

 しかし、全く異なる違和感がニアの足を止めた。

 石風呂の縁は崖に沿うように造られている。昼であれば視界いっぱいに丹沢の山々が広がっていたであろう。ひょっとしたら鍋割山の横に富士山の崩れた噴火口も見えたかもしれない。だが、今宵は満月。月光に照らされた石の縁が現世との境界のように白々と浮き上がっているのみ。その縁に少女は腰掛けていた。


「ふふ、ふふん~♪」


 すらりと長い両足をぶらぶらと宙に投げ出し、あまつさえ上機嫌に鼻歌を歌っている。

 ニアは全身の血が引いていくのを感じた。信じられない。石風呂の縁は当然のことながら水で濡れている。つるりといったらそのまま奈落の底にフリーダイブ、なのだ。

 頭がイカれているのか、コイツ。

 しかし、自分が近づいたことに驚いて落下死でもされてはこっちがたまらない。動くことも声をかけることさえできずに、ニアは彫像のように固まってしまった。


「…………」


 その瞬間を、ニアは一生忘れることはないだろう。

 腰まで伸びた髪が夜風に靡いている。色は透き通るような銀色。僅かに揺れる度に雪原のダイヤモンドダストのように煌めく。身体はお湯で桃色に染まり、命の輝きを惜しみなく晒していた。造形は完璧そのもの。四肢は長く、胸も腰も大きすぎもなく小さくもない一ミリの狂いもない黄金律。

 少女の顔がひどくゆっくりこちらを向いていく。

 花弁のような可憐な唇、その奥に覗くちろりと動く舌がやたらと艶めかしくて、ニアの身体の奥が熱を帯びていく。

 髪の下の右目がじっと見つめる。月の光を受けてプリズムのように輝く不思議な色。左目は存在しなかった。まるでそうあるのが当然であるかのように傷痕も眼窩すらもない。

 少女が手に持った小皿の上には白い立方体。緑色の刻みネギと生姜が振りかけられ、黒い液体に浸されたそれは―――。


「―――豆腐?」


 息を吐くように漏れたその声を聞いて、月光の生まれ変わりのような少女はにっこりと笑ったのだ。


「はい、お豆腐ですわ」

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