第23話 全裸だけど

 あの不快な微笑みは何だ。

 パリスの微笑みと違い、植村のものとも違う。

 ただひたすら、虫唾が走る。


「キズナ ユキトさんの講演会にお二人も参加してはいかがですか?」


 中年教師だ。


「僕たちはこれから用があるので、これで失礼します」


 俺はそう言い残すと踵を返し、歩き始めた。

 中年教師が俺の背中に向かって何か言っていたが、それに耳を傾けずに職員室から立ち去る。



 校内はすっかり無人となり静まり返っていた。

 俺たちは裏口に向かって歩いていた。


「西松、あのキズナの野郎の顔を見たか?」


「うん 遠くでよく見えなかったけど」


「そうか。奴は俺を見て勝ち誇ったような笑みを浮かべていたぞ。胸糞悪い」


「けっこう距離あったと思うけど、よく見えたな」


「俺にはよく見えた。あいつと眼が合った」


「考え過ぎじゃないのかー」


 と西松は言った。

 俺たちは校舎の裏口から出て、裏門を抜ける。

 そしてどちらから言うまでもなく、旧校舎の方を目指す。



「無い」


 学生らの言う通り、旧校舎は無かった。あったはずの場所は住宅地であり、しかもどの家屋もそれなりに古さを感じる。

 入間川高校へ行く時は風景に馴染み過ぎて気がつかなかったのであろう。


「旧校舎が最初から無いって風景だよね。これならお前が言う地下通路は無くても不思議じゃない」


「ああ、そうだな」


 辺りはすっかり陽が暮れていた。


「これからどうする」


 と西松へ問いかけた時、俺の腹が鳴った。


「腹が減った。俺は結局、あれからコーヒーを飲んだだけだったな」


「そういえばそうだったね」


「もうこの際、何でもいいから食わせてくれ。一旦、所沢駅の方へ出よう」


「うん それがいいね」


 と西松が返事をした後、俺たちは大通り沿いにある入間川高校最寄りのバス停を目指して歩き始める。

 行きは入間川駅から徒歩で来たからな、俺も西松も敢えて提案することもなく、所沢駅へバスで行く方を選んでいた。



「おい、なんだよ。これ!」


 西松が素っ頓狂な声を上げた。

 その驚きには俺も共感だ。


 大通りが車で埋まっているのだ。

 片側二車線道路の両側がきっちり等間隔で、まるで駐車場のように車が整列しているのだ。

 しかも車のエンジンは切られているのか静まり返っている。

 停車している車の中を覗き見ると、どの車も人が乗っていて、ただ駐車させているようには見えない。


「これって人乗ってるし、渋滞してるってこと?」


 西松だ。


「そのようだな。どの車もエンジンを切り、等間隔で並んで待っている。

 こんなに行儀の良い奴だけが集まっているのか?」


「…考えられないよね」


 そんな中、車の列の先の方からエンジンの掛かる音が聞こえた。

 その音が伝播するかのように広がり、俺の目の前に停車している車のエンジンが掛かる。

 そして目の前の車がゆっくりと進む。自家用車一台分進むと車は止まり、同様にしてエンジンが止められた。


「なんだよ、これ。凄い渋滞なのかな」


 西松は驚きに細い眼を見開いていた。


「そのようだな…、こんな渋滞の中、バス待つのかよ…」


 気が遠くなるような思いで辺りを見回すと、俺たちが乗ろうとしている所沢行きのバスが、それほど遠くない位置にまで来ているのが見えた。


「バスが来ているぞ。あれに乗ろう」


 と言うと、俺は早足でバス停へと向かう。


 早足でバス停に向かう必要はなかった。

 かれこれバス停で10分は待っているのだが、渋滞の車列はあれから1ミリたりとも動こうとしない。


「どれだけ待つことになるんだろう」


 と西松はボヤく。


「わからんが、それでも入間川駅まで歩くよりはマシだろう」


と俺の返答に西松は口を尖らせて頷く。



 それから5分ほど待つとバスが停留所へ到着した。

 バスの真ん中辺りにある乗車扉が開き、俺たちはバスに乗り込む。



「こいつら何やってるんだ」


 その光景に俺は思わず呟いた。

 車内は信じられない光景が繰り広げられていた。

 路線バスの車内には乗客は10名ぐらい、そいつらは皆、席に着かず立っている。


「どうぞ、お座り下さい」


「いえいえ、私はいいですから貴方こそ座って下さい」


 老若男女問わず、乗客同士が席を譲り合っているのだ。この乗客の数なら全員座れるのだが、誰もが座ろうとしない。


「どうぞ、お座り下さい」


 乗車扉近くにいた男が俺たちを見て、席へ誘導するかのように手を振る。

 俺は何も言わずに、その男が促してきた席に座ると、西松も俺の後ろの席に着いた。


「こいつらどうしちゃったの?」


 俺の後の席から西松が囁いた。


「わからん、意味がわからんよ」


 俺たちが座った後も動かないバス車内で、この光景は繰り広げられていた。



 バスに乗って、どのくらい時間が経ったのだろうか、1時間は経った気がするのだが、バスはあれからほとんど進んでいない。車内は相変わらず、席の譲り合いが続いている。

 寝息が聞こえたので後ろへ振り返ると西松は眠っていた。

 そうだな、西松の選択は正しい。

 陽は暮れているし、ただ座って待っていても、渋滞でバスが進まないのだから仕方ない。

 俺も寝て待つことにしよう。腕を組み、瞼を閉じた。



「おい、風間。風間」


 遠くで誰かが俺を呼ぶ。

 誰かが俺の肩を揺すり、その振動で俺は目覚める。

 西松が俺の名を呼び、肩を揺すっていたようだ。俺は後ろへ振り返る。


「なんだよ。所沢へ着いたか?」


「まだだ。それよりもあれを見ろよ」


 西松は前方を指差した。

 西松が指差したのはバス前方、フロントガラスの方だ。

 そのガラス越しに見える、交差点では奇妙な光景が繰り広げられていた。

 青信号なのにどの車も進まず、運転手は皆、窓から顔を出し、“どうぞ、先に行ってください”と道を譲り合っているのだ。


「ずっとあれで、かれこれ30分はここに足止めだよ」


 西松が困惑しきった顔で言った。


「バスの客だけじゃなく、車を運転する奴らまでこれなのか」


 俺たち以外のバスの乗客たちは相変わらず、席の譲り合いをしている。


「今、何時だ?」


 西松は俺のその言葉でガラケーを取り出し、画面を開く。


「9時ちょっと前ぐらい」


 西松のその言葉に、俺の怒りが一気に沸点へと達し、


「人がいいのも大概にしろよ」


 俺はそう呟くと席を立ち、バス運転席横へ行く。


「おい、何やってるんだ。信号が青なのに何故進まない」


 俺のその言葉に運転手はにこやかな笑顔を浮かべ振り向いた。


「お客様、何よりもお互いの譲り合い、奉仕の精神が大事なのです」


「譲り合い?奉仕の精神?時刻通りの運行はどうでもいいのか?」


「はい、そうです。私たちは皆様への感謝の気持ちを忘れずに、奉仕と譲り合いの精神をもって、安全に穏やかにお客様を終点までお連れすることが仕事なのです」


 運転手はにこやかな表情で、朗らかに言った。その目には一点の曇りも無ければ、嫌味ったらしい言葉の響きも無い。

 こいつは本気だ。

 俺は外や通りの様子を見て、ここから所沢駅へは徒歩で行けなくもない位置だと知る。


「わかった、もういい。ここで降ろしてくれ」


「お客様、それは出来ません」


 バス運転手の返答は予想通りだ。

 俺は車内、真ん中辺りの席に座る西松の下へ行き、


「西松、降りるぞ。この辺りからなら駅へは歩けなくもないぞ」


「そうだね、もう降りよう」


 俺の言葉に西松は立ち上がった。

 バスの車内、真ん中辺りにある乗車扉付近に、赤い線で囲まれた非常コックの表示を見つけた。

 俺はその赤線で囲まれた箇所が蓋であることを知り、その蓋を力任せに開ける。


「お客様!危険です!おやめ下さい!」


 運転手は俺の行為をミラー越しに見ていたようだ。

 しかし、そんなことは知ったことではない。どの車も信号が青であっても進もうとしないのだ。

 蓋の中にはレバーがあった。

 俺はそのレバーを掴み、一気に引っ張る。

 すると作動音と共に乗車扉が開いた。


「行くぞ、西松」


 そう言いながら、俺がバスから降りると、西松もそれに続いた。



 その交差点から先の所沢へと続く道には、渋滞で停車する車の姿は無かった。

 交差点で信号無視してまでの譲り合いが渋滞の原因であったのだ。

 何故そこまでして譲り合うのか、それによって渋滞に巻き込まれて腹が立たないのか。俺には不思議でならない。

 ここまでの“人の良さ”は俺に言わせると病的だ。



 俺の見立ては間違っていた。

 所沢駅辺りまで徒歩で20〜30分と見ていたのだが、1時間半近く掛かった。

 しかし、その間に俺たちの横をバスが通り過ぎることは無かった。

 それどころか、車一台も通り過ぎなかったのだ。

 未だに、あの交差点で譲り合いをしている、ってことなのか…


 所沢駅近くにやっとの思いで辿り着いたのはいいのだが、俺たちは疲れ果てていた。

 西松は自宅へ帰る手段を失い、俺はそもそも自宅へ帰る気になれなかった。

 そんな状況下、西松は駅近くのビジネスホテルに空き部屋を見つけた。

 一室だけの空きで、ツインベッドだということで、俺たちはコンビニで食べ物を買い、そこで一泊することにした。



 俺たちはコンビニで買った、くそみたいな健康食品もどきを平らげた後、うつらうつらと睡魔がやって来た。

 明日どうするかは明日に考えようという事で、俺たちはそれぞれベッドへと入った。



 何か物音がし始めた。

 衣類が擦れるような音だ。

 灯りを消したばかりで目が慣れていないせいか、何が行われているのかわからない。


 闇の中、さらに半覚醒状態の朧さの中、何か白いものが浮かび上がった。

 その白い影のようなものは俺に近付いてくる。

 目が慣れていくに従って、その白い影の正体が掴めた。

 その白い影の正体で睡魔は消え去る。


 西松だ。西松の野郎が何故か全裸になっていた。


「西松!お前!何だ、それは!」


「全裸だけど?

 ごっ、誤解するなよ。俺は全裸じゃないと眠れないんだよ」


 狭い部屋の限界ギリギリに設置された、ベッドとベッドの間を全裸の西松がやってくる。

 その白い全裸はまるで幻影のようだ。

 西松は自分のベッドの方へと潜り込む。

 全裸でないと眠れないだと、そんなルーティンは自宅のみでやってくれ…

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