第6話 十日後4
◆ 4
「えっルド? どうして……」
突然の承諾に余程驚いたのか、リュシエンヌは言葉が続かない。
あんなにサインをしてほしいと言っていたのに、まるで青天の霹靂とでも言わんばかりの表情だ。
「俺がいま、未来は変えられるという話をしたのに、君の表情は全然明るくならない。まだ不安でたまらないって顔してる」
「それは……」
「リュシの一番の不安は、明日この国に来るアレシア、そして俺の豹変……だろ?」
「…… 」
「アレシアに会ってしまったら、俺の気持ちが変わる……リュシはずっとそう思ってるよね」
一瞬、リュシエンヌは何かを言いかけたが、きゅっと唇を結んで小さく頷いた。
さっきより肩に力が入り、頬が緊張しているのがわかる。
彼女のこんな表情を今まで見たことがない。苦しくて胸が潰れそうだ。だからこそ、これを聞くしかない……。
「じゃあリュシ、一つ質問に答えてほしいんだ」
「……質問?」
リュシエンヌは緊張した表情のまま、俺の真意を探るように、少しだけ顎を引いてこちらを見た。
「うん、質問。君の返答がどんなものでも、この証明書にサインすることには変わらないよ。だから、気にせずに本当の気持ちを聞かせてほしい」
格好つけて言ってみたが、今度は俺の顔が不安で強張ってしまう。
彼女から発せられるかもしれない最悪の返答を考えただけで、喉がカラカラだ。
そんな俺を見つめていたリュシエンヌは、ひとつ瞬きをしてこくりと頷いた。
「さっきリュシは、俺に腹が立つと言ってたよね」
「それは……」
「リュシは俺のこと……もう嫌いになった?」
「え?」
「俺のこと嫌いになった?」
二度目の問いかけが終わると同時に、リュシエンヌは素早く顔を伏せた。
とうとう聞いてしまった……。
ずっと気になっていたのは、彼女が前回の出来事を反芻しているうちに、俺に対して腹が立ってきたと言ったことだ。
お互い嫌な思いをしないために! なんて言ってたけど、実はもう俺のことを嫌いになってしまったのでは? ふと、そう思ってしまった。
俺がリュシエンヌと出会ったのは、7歳から始めたダンスのレッスンだった。
貴族の子供達のほとんどは、王宮で長年勤めていたバイレ先生の教室へ、マナーとダンスを習いに行くことになっている。
そこは、社交界デビュー前に、友人や知人を作る場所にもなっていた。
今では親友になったクリストフやリカルド、それにセレーネとも、その教室で仲良くなった。
レッスンが進むうちに、一年早くレッスンを受けていたリュシエンヌがパートナーとして紹介された。
彼女を知れば知るほど惹かれていき、7歳になったばかりの俺は、あっという間に恋に落ちていた。
12歳を過ぎ、社交界デビュー以降も交流は続いた。
年を追うごとに聡明で美しくなる彼女に、自分も相応しい男になれるよう頑張り続けた。
そうだ、初恋からずっと、俺はリュシエンヌが好きなんだ。
その気持ちは今も、何一つ変わらない。
婚約が決まってからも、顔を合わせるたびに気持ちを伝えていたが、それに対してリュシエンヌはふふふと笑うだけで、今まで一度も「好き」と言われた記憶がない……。
目の前のリュシエンヌは、俺の問いかけに答えることなくうつむいたままだ。
これは最悪を考えなければいけないのか……。
そう思った時、リュシエンヌの耳が真っ赤になっていることに気づいた。
「リュシ?」
「……」
肩が少し揺れたように見えたが、返事はない。
席を立ってテーブルを回り込み、リュシエンヌの横に跪いた。
「リュシ? 返事を聞かせてくれないか?」
「嫌い……わけ……ないじゃな……」
「ごめん、聞こえない。何?」
俯いている顔を覗き込もうとした瞬間、栗色の髪がふわっと揺れた。
「もうっ‼ 嫌いなわけないじゃない!」
リュシエンヌがばっと勢いよく顏をあげた。頬を膨らませ、顔全体が蒸気してピンク色に染まっている。
続けて、二回目の「もう!」を言ったあと、口が少しだけへの字に曲がった。
膝の上で固く握られている手に、そっと手を重ねる。
赤くなっている顔と同じように、手全体がとても熱くなっていた。
「嫌いじゃないってことは、俺の事好き?」
うわー俺すごく面倒くさいやつみたいだ、でも、聞くのは止められない。
だって一度も言われたことがないんだ、この機会を利用するしかない。
「何よ、突然……」
「だって俺は君の事が大好きなんだ、いつも言ってるだろ? 婚約破棄証明書にサインをする前に、君の本当の気持ちを聞かせてほしい」
リュシエンヌの手にぐっと力が入った。
温かくなっている手がもっと熱くなり、既にピンク色だった顔はさらに紅潮していく。
これは、怒っているわけじゃないよな……照れている?
「リュシ、もし言いたくないのなら、首を横に振るか頷い……」
聞いている途中で、リュシエンヌがうんうんと二回頷いた。
「それは、わかったってこと?」
今度は首を横に振る。
「じゃあ、俺を好きってこと?」
またさっきと同じように、リュシエンヌは何度も頷いた。
これは、言葉では聞けなかったけど好きって言われたのと同じでいいよな?
俺の事好きなんだよな!
「リュシ! 大好きだ!」
嬉しさのあまり、重ねていた手を強く握る。
それに答えるかのように、リュシエンヌは一度だけ大きく頷いた。
良かった、腹が立つと言っていたけど、嫌われたわけではなかったんだ。
やっと少しだけ安心できた。あとは、俺が考えていることを聞いてもらえれば……。
「ありがとうリュシ。これで心配なくこの証明書にサインができるよ」
「でも……ルド、どうして」
「それは君を安心させたいからだよ」
「安心?」
リュシエンヌは、美しい目を大きく見開いた。
彼女の手をゆっくりと離して立ち上がり、テーブルの上の二つのグラスへ水を注ぐ。一つはリュシエンヌの前に、もう一つは自分で一気に飲み干した。
「君は今、俺のことが信用できない。でも、俺は絶対に君を裏切らないという自信がある。リュシ以外を好きになるなんてありえないと思っている」
「信用できないわけじゃ……ただ……」
「うん、わかってる。君が一度経験した未来の俺は、別人のように酷い男だったようだ。少し話を聞いただけで、俺も腹が立つ! 相手は自分なのに」
リュシエンヌは少しだけ頷くと、グラスに手を伸ばした。
「だからこれにサインをする。これは、君の気持ちを落ち着かせるお守りみたいなものだと思ってほしい。リュシ、俺にチャンスをくれないか?」
「どういうこと?」
「もし、リュシに嫌いだと言われたら、明日にでも婚約破棄証明書を提出してもいいと思っていたんだ。だって、一番大好きな人を苦しめるのが自分だなんて、考えただけでも悲しいよ。でも、君は俺のことを好きだと言ってくれた……よね?」
「……うん」
小さな声でリュシエンヌは答え、持っていたグラスに少しだけ口を付けてテーブルの上に置いた。
その華奢な手をもう一度掴み、改めて彼女の前に跪く。
「だから、チャンスが欲しいんだ。これから先、俺がアレシアに惹かれているとわかったら、この書類を提出して構わない。俺は君を愛してる、それを信じてほしい」
言い終えると同時に、リュシエンヌの手の甲にキスをした。
彼女は声にならない声を上げ、恥ずかしそうに微笑んだ。
「わかった……私のわがままを聞いてくれてありがとう、ルド」
「じゃあ、早速サインをするよ」
急いで立ち上がり、引き出しから羽根ペンと黒いインクを取り出した。
自分から書くと言ったものの『婚約破棄』と書かれている用紙にサインをするのは、とても勇気がいる。いや、こんなのは時間をかけても仕方ない、ようし。
気持ちを奮い立たせ、大きく息を吸い込んで一気に名前を書き上げた。
「はい、どうぞ。これは持って帰って構わないよ……あ、帰ってすぐパーヴァリ侯爵に渡すのは駄目だからな、俺本気で泣くから」
「大丈夫よ、私が急ぎすぎただけだから。今は信じてるわ」
「『今は』って……」
「やだ、ごめんなさい」
リュシエンヌが、肩をあげていつもと同じ笑顔を見せた。
その顔を見た途端、体の緊張が一気にほどけていくのがわかった。
きっと大丈夫だ、いつもどおりの二人に戻れる。
ただ、もうひとつ気になっていることがある……。
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