大好きな君と日付の書かれた婚約破棄書 ~信じてほしい、君以外なんてありえない~

群青こちか

第1話 青天の霹靂

◆ 1


「ルドウィク・エルンスト……私との婚約を破棄してください」

「え、リュシ? いま何て言った……?」


穏やかな春の日差しが降りそそぐエルンスト家の中庭。

目の前にいる婚約者、リュシエンヌ・パーヴァリから突然発せられた言葉に耳を疑う。


乾いた風は庭園の木々を揺らし、庭池の水面を輝かせている。

リュシエンヌの瞳は、まるでその水面のように、今にも零れそうな涙を光らせていた。


「リュシ……」

「突然ごめんなさい、でもどうしても今日話をしておきたくて」


リュシエンヌはきゅっと唇を結び、涙をこぼさないように一度上を向いて俺の目を見つめなおした。

濡れたまつ毛が、灰色に曇る青い瞳を覆っている。


え? 一体何が起こっているんだ? 全く意味が分からない。

16歳で彼女と婚約をしてからこの二年間、二人の間に何の問題もなかった。

それどころか、俺の思いは一段と強くなっていた。彼女も一緒だと思っていたのに……。


ああそうか、わかった、これはリュシのいたずらだ! 

いや違う、彼女は泣いている……。

いつも薔薇色の頬も、色を失い青白く見える。


無言のままこちらを見つめ続けるリュシエンヌの手を、俺は両手でそうっと包んだ。

こんなに暖かい日なのに、細い指はまるで氷のように冷たく、僅かに震えていた。


「どうしたんだ、何かあったのかい? 何か君を怒らせるようなことをしてしまったのなら教えてほしい」

「違うの……今はまだ……違うの」

「今は?」


リュシエンヌは小さく頷いた後、空を見上げた。つられるように一緒に空を仰ぐ。

春らしく抜けるような青空に、小さな雲が少しだけ浮かんでいる。

風に乗って街の中心部にある時計台から、午後を告げる鐘の音が聞こえてきた。

鐘の音の余韻が終わる頃、リュシエンヌが口を開いた。


「もうすぐ雷がくるわ」

「雷だって? こんなに気持ちの良い日なのに?」

「ええ」


俺の手をさっと離し、くるりと振り返ったリュシエンヌは、ゆっくりと空を見上げた。彼女が見上げた反対側の空は、いつの間にか暗雲が立ち込めていた。


「これは一体……」


湿度を帯びた風を、頬で微かに感じた瞬間、真っ青な空に稲光が放射状に走り、辺りに低い雷鳴が轟いた。

美しかった青空があっという間に暗い雲に飲み込まれ、大粒の雨が降り始める。

雨粒に打たれたリュシエンヌの体が見る見るうちに濡れていく。

俺は慌てて後ろから覆いかぶさった。


「リュシエンヌお嬢様っ!」

「ルドウィク様!」


屋敷から、ローブを持ったパーヴァリ家の侍女と、大きな傘をさした執事のヨハンが庭に飛び出してきた。

リュシエンヌはローブを掛けられ、4人で駆け込むように屋敷へ戻る。

屋敷へ向かっている途中、リュシエンヌは小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。


◆ 2


一気に冷えてしまった体を温めるため、執事が暖炉に火を入れた。

幸いリュシエンヌの体は思ったほど濡れておらず、暖炉の前で毛布に包まっていればすぐに乾きそうに見えた。


「ルドウィク様はこちらへ」


全身びしょ濡れになってしまった俺は、執事のヨハンに促され自室で着替えをすることになった。

リュシエンヌは暖炉の前で侍女に髪を梳かれながら、ぼんやりと火を見つめている。


「すまないリュシ。暖かいお茶を用意させるから、少し待っていてくれないか。着替えが終わったらさっきの話の続きをしよう」


後ろから声をかけると、リュシエンヌは暖炉の炎を見つめたまま頷いた。

俺は客間を出て、急いで自分の部屋へと向かう。


しかし不可解だ。目に涙を浮かべながらの婚約破棄の申し込み、浮かない表情……そして、彼女のいうとおりに起こった雷。

俺のことを嫌いになってしまったかと思ったが、どうやらそうではない?


部屋に入ると同時に、ヨハンが大きなタオルを頭から被せてきた。


「ルド坊ちゃま、しっかり髪を拭いてください」


ヨハンは、エルネスト家に長年仕えている執事だ。

父が子供の頃からこの屋敷に居るため、まるで家族のような存在になっている。そのせいか、未だに父のことをフレデリックではなく愛称のフレッドと呼び、俺のことは坊ちゃまと呼ぶ。

ヨハンに言われるがまま髪を乾かしていると、キャビネットの上に新しい着替えが用意されていた。


「さて坊ちゃま、私はお茶の用意を頼んでまいります。リュシエンヌ様はとてもお疲れのように見えたので、飛び切り美味しいお菓子も用意させましょう」

「ああ、ありがとうヨハン」

「では、失礼いたします」


満足そうに微笑み、軽くウインクをしてヨハンは部屋から出て行った。

やはり、ヨハンから見てもリュシの様子は普通ではないのか……。


たしか今月初め、リュシが三日ほど高熱を出して寝込んだことがあった。

見舞いに出向こうとしたら、手紙で断られた……。


あの熱の後から、元気がない日が増えたような気がする。

いや違うな、元気がないと言うより上の空だ。

ピアノの演奏会が近いせいかと思っていたが、実は何かに悩んでいたのか?

その何かとは、俺が原因……? 全く心当たりがない。


熱を出したと聞いた翌日、彼女が好きな花と果物を届けた。

回復してからも、週に一度以上は会っている。毎週末は必ずお茶に招待して……。

ん? 待て、今月お茶の誘いを二度断られた……。

パーヴァリ家での用事や習い事の為と聞いていたが、よく考えれば今までそのようなことはなかった。

もしかして、避けられていたのか?


「ルド坊ちゃま!」

「ああ驚いた、どうしたんだヨハン」


振り返ると、ヨハンが腰に手を当て、首を横に振っていた。


「どうしたのはこちらのセリフでございます。お茶と菓子の準備をして戻ったら、着替えが全く進んでないではありませんか」


そう言うヨハンの右手には、ヘアブラシが握られていた。


「すまない、考え事をしていたようだ」

「大事なお嬢様を待たせてはいけません。さあ早く」


鏡の前に座らされ、キャビネットに置かれていたシャツを手渡される。髪を整えられながら、急いで着替えをすませた。

もし、彼女に避けられていたのならば、なぜ今日のお茶は断らなかったんだろう? 

それに、なぜそんなに婚約破棄を急ぐのか……。


ちょっと待ってくれ、今、最悪のことが頭に浮かんだ……。

まさか、俺以外に好きな相手ができたのではないか⁉


「さあ坊ちゃま」


ヨハンはヘアブラシを戸棚に片付けると、笑顔で部屋の扉を開けた。

部屋を出る自分の足が、信じられないほど重く、震えているのがわかった。


そんな最悪なことがあるのか? でも、そう考えると今日の様子にも納得がいく……。

いや、俺は納得しない! 早く話を聞かなくては! 

俺に駄目なところが、あるならすべて受け入れよう。

彼女の笑顔がもう見られないなんて、自分の未来にリュシエンヌが居ないなんて考えられない。


「ようし」


客間へ続く廊下を、いつもより大股で力強く進んだ。

もう足は震えていない。

足早に進む俺の横を、ヨハンが慌てるように追い抜き、客間の扉をノックした。


「はい」


中からパーヴァリ家の侍女の声が聞こえた。

我慢できずに自分から部屋へ飛び込む。


「リュシ!」


扉を開けた途端、部屋の中から、苺のシロップ漬けのような甘い香りが漂ってきた。


「あ……」


暖炉の近くの小さなテーブル。

そこには薔薇色の頬を膨らませて、ケーキを頬張っているリュシエンヌがいた。

俺の姿を見た瞬間、みるみる頬が赤く染まっていく。


「すまない、急いでしまった」

「……んン、大丈夫です」


リュシエンヌは両手で口を押えて答えると、侍女が継ぎ足したお茶を飲んだ。

ヨハンは見ていないふりをしながら、深々と頭を下げている。


テーブルの上には、果実がたっぷりと入った紅茶と薔薇の花びらの砂糖漬け。

焼き立てのビスケットにはちみつとクロテッドクリーム。

他にはオレンジのパウンドケーキと、小さなテーブルが見えないくらいの菓子で埋め尽くされていた。


ティーカップのお茶を飲み干したリュシエンヌは、執事と侍女の顔を交互に見ながら照れ笑いをしている。

なんて可愛いんだ。

そういえば、こんな表情を今日見るのは初めてだ。

そして、まったく俺と目を合わせてはくれない……。 


ヨハンはちらりと俺を見た後、リュシエンヌに紳士らしい微笑みを返すと、一礼をして一歩後ろに下がった。


「では、ルドウィク様、リュシエンヌ様。一旦失礼させていただきます。ご用の際はそちらの呼び鈴を鳴らしてお申し付けください」

「ありがとうヨハン」


リュシエンヌは、にっこりと微笑みながらヨハンに応え、パーヴァリ家の侍女に目くばせをした。

侍女はそれに気づいて小さく頷いた後、俺に深々と頭を下げ、そのままヨハンの後ろへ着いた。


「では、失礼いたします」


二人はそう言うと、客間から出て行った。


まるで果樹園のような香りが、部屋中に立ち込めている。

その爽やかさとは対照的に、重い沈黙が二人の間にのしかかった。

居心地が悪そうな表情をしたリュシエンヌの正面に座ると、まるで俺をさけるかのように俯いた。


さっきまでは、あんなに微笑んでいたのに。

やはり俺が駄目なのか、彼女は他に好きな相手が……。

緊張で指先が冷たくなっていく。


「リュシ! さっきの婚……ん、あの話だが、理由を聞かせてくれないか? 俺は君が好きだ、説明が欲しい」

「ええ、説明しなきゃいけないのはわかってる。でも……」

「もし、君に好きな相手ができたのなら……もう死にそうなほど辛いけど、でもそれで君が幸せになるとい……」

「えっ? ルド、ちょっと待って! どうしてそういう話になるの?」


リュシエンヌは慌てたように顔を上げた。前髪が少し乱れている。

睫毛の音が聞こえそうなくらい目を見開き、何度も瞬きをした。


「だってこんな話おかしいじゃないか……婚約……破棄だなんて」

「他に好きな人ができるのは……あなたよ」

「え? 俺?」

「そう、あなたよ」


彼女の言ってる意味が分からない。俺? 俺が?

呆気に取られていると、リュシエンヌは一房だけくるんとはねた前髪を抑えながら、灰青色の瞳を俺に向けた。


「ねえルド。いまから私が話すこと、何も言わずに最後まで聞いてほしいの……」


突然の真剣な表情。

彼女の美しい瞳は、全く揺らがない。

さっきとはまるで違う雰囲気に、俺はただ黙って頷いた。


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