第23話 24日の論戦ダイジェスト

森川氏:クリスマスというものを祝う習慣は、日本においてもすでに明治期からないわけではなかった。欧米諸国からの圧力でキリスト教禁止が撤廃されたことも大きいわな。

 まして昭和の戦後、アメリカ文化の影響を受けてさらにその習慣は日本全国に広まったのは言うまでもない。それも一つの、文化の均質化というものであろう。新聞に始まり、ラジオ、映画、そしてテレビとマスメディアの媒体が進化していくにつれ、それは顕著になった。

 その一方で、そのような風潮に反発する層が増えたのも必然である。

 他でもない、米河君のような言動をする人間も、そりゃあ、出てくるわ。


2000年前の中東の一神教のセクトのおっさん、ねぇ。


 選りにもよってキリストに対してそんな悪態がつけたものだとは思うが、それもよつ葉園での経験が良くも悪くも影響を与えていることは間違いなかろう。 

 毎年そもそも論としてクリスチャンでない者が云々とのたまってくださった大槻君も大したものだったが、米河君はそれをはるかに凌駕する表現をなされておいでであるとしか申し上げようもない。

 とはいえ、大槻君のように子どもと生活を共にする仕事をしているわけではないのであるから、そのような表現を述べるのも、無論言論の自由の範囲内である。

 選りにもよって、さらに選って、こんなのが2人も、私の作った場所に現れるとは、のう~(苦笑)。


 ここで一言申し添えておくが、わが日本は八百万の神のまします地である。

 キリスト教と言えども、その一神教の神たるものは、日本にかねておいでの神々の間に入れば、その神の一として迎えられはするものの、その神々を独裁者のごとく支配する立ち位置に至ることなどできない。

 米河君流に申せば、ローマ教皇が土下座しても無理と言ったところかのぅ。

(両者爆笑)

 さらに申せば、神道の神々、日本神話の主人公各位とて同じ。

 せいぜい、明治憲法下の内閣総理大臣が他の国務大臣と比して「同輩中の首席」という扱いだったのと同じようなものであって、天皇こそ上にいただくものの、実はその内閣自体が、陸海各軍等と同列の中での主席者のひとりに過ぎなかったが、キリスト教の神にしても、日本国という地においてはそれと同じ程度に至るが精一杯であると。

 ここは、そういう国なのですよ。もっともこれは価値判断の問題ではないが。

 しかし何じゃ、明治憲法が天皇と国民との関係では欽定憲法であるが、神々との関係においては英国のマグナ・カルタにおけるジョン王と貴族らの関係同様、協約憲法の要素を持った点においてと相似している側面があるというのは、大いに興味深い指摘とは思う。何、英文で読んだこともある? ほう、たいしたオカタよ。

 じゃが、いささか米河大先生御自身の御博識をここぞとばかりにおひけらかしになっておられる感が強いのは、気のせいではなかろうなぁ(両者爆笑)。


 米河君のクリスマス会という行事が八百万の神の日本という国に生きていることを実感するための行事という御指摘は、さすがです。私も生前、そのくらいのことを大槻君にビシッと言ってやればよかったかもしれぬ(苦笑)。

 理論に強い者はさらに強い理論を出す者に弱いという公式じゃな、ここは。


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米河氏:森川先生御指摘の通り、私の言動がひねくれ評論家のそれであることは、認めます。私こそが絶対で全うであるなどと述べるつもりはありません。

 ただ、よつ葉園での経験から、あの手のイベントは、どうも「子どもだまし」感があって、私はどうも今もってあまりいい思い出ではないですね。それで何か身についたことでもあるかと言えば、さしてあるとも思えません。

 自分で身に着けたものではないですから。所詮は、その場限りのお遊び。

 ここまでかなり悪態付き放題やってきましたが、しかし、そんな経験においてもここの出来事を辿ってみれば、そこになにがしかの糧があることも確かです。もっともその「純度」は、かなり低いと言わざるを得ませんけどね。

 クリスマスが世俗の習慣と化していることについては、日本という国が多神教の権化と言ってもいいほどの地であることが最大の理由かと思われます。それはカボチャ祭のハロウィンも同様。


神々の相対化。


 これこそが、八百万の神のおられる我が国の最大の特徴のひとつ。八百万の間においては、キリスト教と言えども相対的な神々の一に過ぎない。これはよいとか悪いという価値判断の問題ではありません。あくまでも、日本国の特質に基づいて述べておるまでのことです。

 その点において、森川さん御指摘の明治憲法の構造における内閣や軍部の位置取りとよく似ているという御指摘は、なるほどと思われます。その八百万の神の上に立つものというのが何なのかという議論になれば、それは何なのかはわかりませんが、明治憲法下の天皇の位置取りにある神というものがあることを想定して解釈すれば、なるほど、大日本帝国憲法は八百万の神を何とかするためにできたものとも言えないことはないかと、そんなことを考えさせられました。

 明治憲法は確かに君主によって制定された欽定憲法であり、民定憲法とはお世辞にも言えないかもしれない。しかしながら、神々と世俗界の神たる天皇との協約憲法であるという側面、そうですね、1215年に制定された英国のマグナ・カルタと類似する点が見て取れるようにも思われました。


 そうか、そういうことでしたら、よつ葉園のクリスマス会という行事は、ある意味において八百万の神のいる国に生きているということを再確認するにあたっては意義のある行事だったのかもしれませんね。


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 次回論争は、12月31日から1月1日にかけて、某所ホテルにて行われることとなりました。

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