06
羊は大学生の頃からずいぶんと痩せていた。今でももうその姿に慣れたけれど、久しぶりに直接会った時には、羊を羊と気づかなかった。
「そういえば、猫は元気にしているのかい?」と羊は言った。
「死んだよ、ずいぶん前に病気で」と僕は答えた。
「そうか」
「君は、そこまで猫が好きなわけではないだろ?」
「何かがこの世界からなくなってしまうのは、それが自分が好意を寄せていないものでも、悲しさ」
「僕には、その感覚はないなぁ。病気で亡くなってしまったのだから、悲しさより、仕方のなさ、の方が強い」
羊は煙草に火を着けた。
「猫で思い出した。訊きたいことがあったんだ。少し面倒な話題だけれど、答えてくれない?」
羊は肯いた。
僕はそのこの日話したことを、本当は羊にするつもりはなかった。それは、結婚活動を、あるいはガールフレンドを探している誕生日にケーキを食べている太っている女性に、太っていることが異性に魅力的に見えないことを説明し、痩せるように説得するかのように、残酷だったし、不謹慎だからだ。
太っている女性ケーキを食べながら言う。
「でも、世の中には太っている人が好きな人もいるのよ。つまり、私はこの世界にいる、需要を満たされない人たちのために太っているの。それに、太っている人は少ないんだから、そういう人はきっと私のことを大切にしてくれるはずよ。ダイヤモンドみたいにね。ダイヤモンドってどうして希少で高いか知っている?どうしてみんな欲しがっているか知っている?数か少ないからよ。つまりね、私が太っていると、チャンスが自然に舞い込んでくるの」
僕は言う。
「君は内面が醜いから、外見も醜いんだね。内も外も醜いんじゃ、ボーイフレンドができなくて当然だよ。人って不思議だよね。内と外、そのどちらかを重視する人は、人格が破綻しているとか、内面に問題があると言われる。じゃあ、その両方を選ぶ人を褒めるかと言えば、そうではない。傲慢と言う。じゃあ、どちらも気にしないと言えば、尻軽とかヤリチンと言われる。何が言いたいかわかるよね?」
女性はケーキを食べ続けた。そして、皿を空にして、冷蔵から追加のケーキとコーラを取り出した。
「どうしてあなたは、私がケーキを食べるのを否定するの?私の人生でしょ?私の好きにさせてよ?私は、私の人生を歩んでいるの。何も言わないでくれる?」
僕は席を立った。
「君は、宇宙人て存在すると思う?」と僕は羊に聞いた。
「そりゃ、いるじゃないか。宇宙てのは、無限に広がっているんだろ?だったら、いないていう方が無理があるんじゃないかね?宇宙と統計のことは詳しくしらないからわからないけれど、たぶん、宇宙人が存在しないて主張は、ありえないほど確率が低くなるんじゃないかな」
「訊いていおいて、こういうことを言うのはあれだけれど、僕は、これってすごい馬鹿馬鹿しい議論だと思うんだよ。トロッコ問題とかにも言えることなんだけれどね。議論すべきなのは、宇宙人がいるかいないかじゃない」
「というと?」
「当たり前だけれど、まずは宇宙人を定義すべきなんだよ。つまり、宇宙人をどのように定義するかによって、宇宙は無限に広がっていて無限に近いほど星があるなら、宇宙人がいる確率が一に近づくし、それでもゼロに近くもなる。重要なのは、五人を殺す選択肢を選ぶか、一人を助ける選択肢を選ぶかじゃない。助けるのが、家族であるとか、死刑囚であるとかもどうでもいい。この問題を提唱した人がどのような意図があったのかも、どうでもいい。これらの議論で重要なのは、そこから得られる学びだよ」
「その学びとは?」
「別に、そんな難しいものじゃない。シンプルだよ。宇宙人だったら、自分と相手の宇宙人に対する認識が違うことを理解できる。僕が思うに、宇宙人をいないという人は、ホモ・サピエンスみたいな生き物がいない、ということを言っているのだと思う。もしくは、人間くらい賢い生き物がいない、と言っているのだと思う。ホモ・サピエンスのサピエンスは賢い、て意味だからね。賢さを人の証さだと考えるのは、別におかしくはない。宇宙人がいるという人たちはたぶん、猿とか猫を含めて、あるいは人と同等、もしくは以上、以下の生物も含めて宇宙人はいると言っていると思う。僕の今言った考えに反論がある人はいるだろうけれどね」
「つまり、実は宇宙人はいるかいないかの話をしているんじゃなくて、何をもって宇宙人としているかを実は話しているかってこと?」
「もっと、本質的な事を言えば、自分と異なる考えを受け入れられるか、ということになる。勿論それは、駄目な話や論理的に破綻している意見も全て受け入れるべき、という話にはならない。これって、当たり前のことに聞こえるし、みんなそうやって生きていると思うだろ?全然そんなことない。むしろ、逆だ。人と人は、文化や生まれ、価値観が違うから、相手は自分の意見を本当の意味で理解できないし、自分も相手の意見を本当の意味で理解できない。だから、そういう人を議論をするのは時間の無駄だから、そういう人は無視して、このことに気づけているあなたは優秀だから、自分の能力を高めてその人より優秀な人になればいい。そうすれば、あなたは今より幸せになれる。ここまで単純な言い方をしてはいないけれど、その分たちが悪い。何より問題なのは、こういう考え方が広く受け入れられている。ありとあらゆる分野と場面でね。つまり、人とは異なる考えを受け入れるのでもなく、理解しようともしていない。自分と相手の考えの違いを生み出している違いを明らかにしようとせず、表面的な議論しかしていない。
今の時代さ、多様性とかって言われているけれど、僕から言わせれば違和感しかないんだ。
何かを受け入れられない人がいるなら、それも多様性の名の下で受け入れられるできだろ?それどそんなこともない。意見を受け入れらない人、マジョリティが可哀そうとか、差別を受けている、みたいな感じなる。どう考えても矛盾している。けれど、誰もそのことについて考えないし、指摘しない。どうして、受け入れられる人とそうでなない人がいるのか、その本質的なところまで踏み込まない。誰も、それをどうにかしようとしない。つまり、宇宙人から差別まで、誰も本気で自分とは異なる人を、わかりあおうとしていないと思うんだよ」
羊の良いところは、こういう事を言っても、手放しに僕のことを褒めないところだ。
「じゃあ、どうすれば人と人はわかりあえるんだ?」
「………。それがわからないんだ」
この後、僕と羊はこの話題について話のだけれど、ただの成人男性二人には、あまりにも重すぎる話題だったため、結局のところ、何も話していないのと同じだった。
「彼女が妊娠しんだ」と僕は話題を変えた。
暗くてよく見えないが、たぶん羊は目を見開いて驚いた。煙草が焼ける音がした後、羊は羊の身体を巡る血液の中にある空気を全て吐き出すかのように、煙を吐いた。
「そりゃ、気の毒だね。まさか、彼女が浮気をしてたなんて。正直、なんて言葉をかければいいかわからない」
「いやいや、そうじゃない。いや、その可能性はゼロではないけれど、僕の子供だよ。心あたりもある」
「なんだよ。妙な言い方をするなよ。君は子供なんていらないって、言ってたじゃないか。ついこないだまで、父親になるぐらいだったら死んでやるって言ってたじゃないか。僕はロクな大人じゃない。そんな僕が父親になんてなったら、子供にどんな悪影響を与えるかわからない。だったら、たっぷりと保険をかけてから死んだ方がいいって」
「………。まあね」
「おめでとう」
「‥‥‥‥。彼女は、子供をおろしてもいいと言ったんだ」
僕は、缶ビールを一口飲んだ。
羊は吸った煙を直ぐに吐き出しながら言った。
「‥‥‥‥。君は、子供をおろしたいと彼女に言ったのかい?」
羊は煙草の煙を深く吸った。。
「いや、言ってない。昨日、突然言われたんだ」
僕はビールを飲み干し、缶を潰した。音が響いた。
羊は、煙の中にあるニコチンを全て血液に融かすようにしてから、煙を吐き出した。
「それってつまりどういうことなんだ?」
「彼女は僕に、自分に忠実であって欲しいのだと思う」
「忠実?」
「そう、忠実」
「君は、自分に忠実に生きていないのかい?」
僕は、ビールを開け、それをゆっくりと飲み、言葉を考える時間を稼いだ。
適切な言葉は思いつかなかった。小説家の彼女だったら、こんな時、どんな言葉を使うのだろう。小説家の羊だったら、どんな言葉を使うのだろう。
「君は、僕のことを恨んでないのか?」
僕は、取り繕うことはせず、一番始めに思いついた言葉を言った。
「君を恨む?そんなわけないだろ。どうして僕が君のことを恨まなければいけないんだ?君が自分に忠実に生きることと、僕が君を恨むことにどんな関係性があるんだ?」
「僕は、君との約束を現在進行形で破っているじゃないか」
「‥‥‥。そういうことか。でも、それは約束を破っているとは言わないよ」
「僕はもう、何年も絵を描いていない。まったく描いていないわけじゃないけれど、大学生の頃に比べらたら、明らかに腕は落ちているだろうし、勘を取り戻すのにも時間がかかると思う。それに、体力ももうない。あの時みたいに無茶はできない」
「子供を育てるのには、これまで以上に金が必要だろ。確かに売れたら、子供の養育費なんてどうとも思わないくらいの大金が入るかもしれないけれど、言われなくてもわかっていると思うと思うけれど、そんなの現実的じゃない。大金を手に入れるクリエイターなんてほんの少しだし、自分を食わせることができているクリエイターもそれほど多いわけじゃない。就職すれば、安定して食っていけるだろうけれど、目指しているのはそこじゃないだろ?。だから、恨むなんてない。夢に向かって走るより、地に足つけて歩いた方がいいに決まっている。家族のためにも、自分のためにも」
「金じゃない。金の問題じゃないんだよ。僕のガールフレンドは君が知っての通り、超売れっ子作家だから。それに、彼女も僕も本と映画代以外にまったくお金を使わないから、円が紙くずにでもならない限り、曾孫の大学費まで払える貯蓄がある。金銭的なことだけを考えれば、僕が働く必要はないんだ。だから、今の仕事を止め、ゲーム作りに従事するのは現実的に可能なことなんだよ」
「‥‥‥。確かにお金は問題じゃないかもしれないけれど、世間体ていうのがあるじゃないか」
「君からそんな言葉、訊きたくない」
「…‥‥。悪い」
「そうじゃない。…‥‥。そうじゃない。どうして君は怒らないんだ?」
「怒ることじゃない」
「怒ることじゃない?僕たちの約束はその程度のものだったのか?あれはそんな簡単に済ませられるものだったのか?」
「父親になってからでも、僕たちなら良いゲームを創れる」と羊は言った。そして、続けた。
「夢を追い続けることだけが幸せじゃない。途中で走るレーンを変えたって、ルール違反でもなんでもない。誰も君を責めりゃしない。みんなそうやって走っているんだから。常に走り続ける必要もないし、常に、全力で走り続けるのも当然、無理だ。だから、途中で休んでもいい。ゲームをしたっていいし、ガールフレンドとデートをしたっていいし、子供と観覧車に乗ってもいい。それが人生ていうマラソンだろ」
「‥‥‥‥。君の方が、いい父親になれそうだな」
僕は、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、一本を羊に渡した。
「明日、彼女と結婚する」と僕は言った。
「それがいい」と羊は言った。
「怒らないのか?」
「怒らないよ」
「恨まないか?」
「恨まないよ。ゲームと子供の命。どう考えても命の方が大切だよ」
「…‥‥。本当に?」
「くどいな。いい加減ウザいよ」
「君は、彼女のことが好きだったんじゃないのか?」
「‥‥‥。どうして?」
「理由を求められても困る。感、てやつ」
「僕は、別に彼女に興味はないよ」
「初めデートをした時、僕はてっきり、君が僕にメイド服を着せたみたいに、彼女は小説を書くための取材だと思っていたんだ。どうやら、彼女は君の家に泊まったことがあるみたいだっし、君の寝起きの悪さと寝相の悪さを知っていた。要するに、僕は君たちはデきていると思っていた。当然君は、僕がそのことに気づかないほど馬鹿でも、その情報に辿りつけないほどコミュニケーション能力がない人間なんて思っていない。つまり、人の女に手を出す人間だと思っていない。だから、得体のしれない男とのデートをしたし、君はそれを許したんだと思っていた」
「僕は、別に彼女に興味はないよ」
「殴られたいのか?」
「僕と彼女は付きあったことはないし、ましてや肉体関係もない」
「そりゃ、知っているよ。だって―」
「だっての後はいいよ。生生しい」
「少なからず、彼女は君に好意があった。それが恋愛的なものなのか、一人の人間としてなのか、クリエイターとしてなのか、あるいはその全てが混ざったものなのか、僕にはわからないけれど。君は、それに気づかないほど鈍感じゃないし、少なからず君だって彼女に性欲以外の好意を抱いていたはずだよ」
「何が言いたい?」
「僕は、君に何も与えれていない。酒や煙草とか、缶詰みたいに、お金でどうにかできるものしか、君に与えれてない。なのに、僕は、君からかけがえのないものばかり奪ってしまっている。夢も人も。僕は、君に奪ったものを返す義務みたいなものがあると思う。君が両方返して欲しいと言うなら、僕は両方とも君に返すつもりだ。それだけのことを、僕は君にしている。なのに、君は僕に何も言わない。恨んでもいない。僕は、不安だよ。なぁ、どうして君は僕に何も求めないんだ?」
「僕は、十分幸せだからね」
「幸せ?」
「売れてはいないけれど、小説家にはなれたし、憧れの人にも会えた。それに、僕には何時でも頼りにできる友達がいる。それなのに、これ以上を求めるのは、強欲て奴だよ。傲慢と言っていい。そんな僕が、他人の幸せを奪ってまで何かを得ようとするのは、もはや搾取だよ」
「‥‥。君は、本当に、優しすぎるよ」
そして、鈍感だ。君はいつも、僕が求めている言葉を言ってくれない。いや、それも優しさなのか。
それからもう少し話したけれど、語る必要が感じられないから、語らない。
缶ビールを四本飲んだあたりで、僕は帰る支度をした。
付き合いたてのカップルみたいに、羊は玄関まで僕を見送りにきた。
「一つだけ、僕は今日嘘をついた」
僕は、彼のその言葉に期待した。救われる期待をした。
「彼女と僕の間には、肉体関係がある」
「…‥‥は?」
「僕はクズ野郎だからね。彼女が寝ている時に、何度か彼女の胸を揉んでしまったんだ」
「…‥‥。それで?」
「それでも何も、それだけだよ。寝ている女の子の乳を揉む。最低だろ?」
僕は、笑ってしまった。その笑いと共に、心臓に穴が開いた気がした。
「彼女には内緒にしておくよ」と僕は言った。
「そうしてくれると助かる」と羊は言った。
「じゃあ、僕はそろそろ帰るよ」
「ああ。気をつけなよ」
「君じゃあるまいし大丈だよ」
「‥‥‥。またくるよな?」
「君がここに入ればね」
「そうか。‥‥・。じゃあ、またな」
「おう、またな」
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