炎は知っている

橋山直樹

浅羽柊介の憂鬱 1

 六ヶ月という長い試用期間を経て、ようやく本採用になったばかりというのに、浅羽柊介あさばしゅうすけの気分は浮かないままだった。


 本採用といっても当面は契約社員で、正社員のような社会的信用や、安定した収入は望めそうにない。とはいえ、そこにさほどの不満があるわけでもなかった。独り身で恋人もいない浅羽には、自分一人が暮らしていけるだけの給料があればいい。贅沢をしなければその程度の稼ぎはあったし、なにかと不景気なこの御時世に、たいした資格もない身で雇ってもらえただけでも、一応、幸運ではあったのだろう。


 採用後に教えてもらったところによると、募集一名に対し五人の応募があったという。たまたま職業安定所ハローワークで見つけた求人に驚き、興味本位で受けてみた自分が残ったのは、他の四名に対して申し訳ないという気持ちが、多少はわいてこないこともない。

 だからといって、辞退して無職生活を続けていくには、残りの蓄えが気になり始めていたのも事実だった。何よりも好奇心が上回っており、せっかくの機会なのだから、知らない業界を覗いてみたいという気持ちも強かった。


「まあ、やってみて性に合わないようなら、すぐに辞めてしまえばいいだけのことだ」

 そういう軽い考えで、浅羽は再就職先を決めてしまった。業務内容のせいもあるのか、いまいち定着率がよくないらしいという話も、すでに面接の時点で聞いている。先にそんなことを話していいのか、と逆に心配したくらいなのだが、そうした人員の入れ替わりの多さが、本社で正社員採用を渋っている理由の一つではあるようだった。


 ともかく、いささか都合よく解釈するのなら、浅羽が早々に辞めていたとしても、さほどの問題にはならなかったはずなのだ。落胆はされたかもしれないが、それも「よくあること」として片づけられていた可能性が高い。また、その後に会うことがほとんどない人たちにどう思われても、気に病む必要はないと思っていた。


 誤算だったのは、再就職から二ヶ月足らずで、やはり試用期間中だった先輩が本採用にならず、解雇くびを宣告されたことである。


 先輩といっても学生時代のように、年齢差も一つ二つですむとは限らない。また、自分の方が年上の場合だってあるのが実社会だ。新しい職場で、今のところ浅羽が最年少なのはただの偶然だが、双方でいらぬ気遣いをする必要がなかったことは、小さな利点とはいえたかもしれない。

 もっとも、仮に新卒でこの職を選ぶ物好きがいるとしたら、それはそれで将来を心配してやった方がいいのではないか、などと、余計なことも浅羽は思うわけだが。


 それはさておき、件の先輩は、頭の薄さが少々目立つ、五十がらみの中年男だった。人当たりはよく、不慣れな浅羽を気にかけてくれているのもわかったため、まさか本人も試用中だったとは思いもしなかった。てっきり、仕事もきちんとこなしているのだろうと思っていたが、職場のルールに従わず、勝手な行動をすることが時折あったのだという。自分のことに手一杯で、周囲を見る余裕が少なかったその頃の浅羽には、そうしたところが気づけていなかった、ということらしい。


 チームワークが要求される職場で、決まりを守れない人間はいつまでも置いておけない。それ自体は当然のことなので、自分の印象とは違っていても、浅羽に口出しできることではなかった。そもそも、そういう人間を入れないために面接するのではないかとも思ったが、まあ、誰にでも目が曇ることはあるだろう。一度の面接で何もかも見抜けるくらいなら、人間社会はもっと楽に回っているに違いなかった。雇う側にも雇われる側にも、失敗はつきものということである。


 ただ、その先輩が抜けた穴を埋めるために、残る浅羽たちにかかる業務上の負担が増したのは、さすがに勘弁してほしいところだった。


 まったく、試用中の新人に何をさせるつもりなのか。当たり前だが、一人辞めたからといって、翌日すぐに別の人員が手配できるわけがない。募集をかけても期待通りに集まるとは限らないし、それから面接、採用、勤務開始という手順を踏むなら、どう急いだとしても補充は二、三週ほど先になる。それまで、現場は通常より少ない人数でしのがなければならないのだ。


 折しも業界全体が繁忙期に入っており、ただでさえ減少傾向にあった浅羽の気力もガリガリと削られていく。ろくに暖房も効かない職場で、開け放した扉から容赦なく吹き込む寒風に、経験したこともないレベルで手指が荒れた。


「まいったなあ。どうも想像よりとんでもないところに来てしまったみたいだぞ」

 正直、すぐにでも辞めてしまいたいほどだった。しかし、徐々に表情を険しくしながらも、粛々と業務を遂行していく職場の面々を目の当たりにすれば、とてもそんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。気づけば、浅羽もすっかり戦力として数えられており、この状況を見捨てて一人だけ逃げ出すのは、いくらなんでも良心がとがめた。


 せめて自分の後にも誰かが入り、そこそこ使いものになってくれないことには、辞めるに辞められないではないか。


 妙なところで責任感を発揮する自分に、浅羽はげんなりした気分になった。根が真面目とはいえるかもしれないが、それで貧乏くじを引いていては先行きがどうも明るくならない。さりげなく、自分のことは「使いものになっている」と評価しているのだから、これで存外図太くはあるのだろうけれど。


 いくらか希望者はあったと見えて、忙しい合間に簡単な職場見学と面接が行われたのは、二月中旬のことだった。これで一息つけるかと思いきや、あろうことか、採用者がわずか二日の勤務で音を上げた。向いてないから辞退したい、との電話連絡一本を最後に、それきり出勤してこなくなった。


 冗談じゃないぞ、と浅羽としては思うのである。それは浅羽がしたくてもできずにいることであり、順序からいえば自分の方が先約に違いないのだ。


「俺が後腐れなく辞めるために、犠牲になってもらわなけりゃいけなかったのに、期待だけさせていなくなるってのは、どういう了見だ」

 これはこれで勝手な言い種なのだが、そんなことは百も承知で、浅羽は一人で嘆いたのだった。この際、当初の自分が冷やかしめいた軽薄な理由で志望したことは、山よりも高い心の棚に放り投げている。動機はいくらか不純だったかもしれないが、それを馬鹿正直に話したわけでもなく、他の誰にも知りようのないことである。責められる筋合いはないはずだし、現実に仕事は続けているのだから、予告もなく急にいなくなられるよりは、自分の方が何倍も偉いに決まっていた。


 どちらにしても、たった二日の勤務では、浅羽の好奇心は満たされていなかっただろう。そろそろいいか、と思い始めた矢先に様相が一変し、逃げ出す機会を見失ってしまった。あっさりいなくなった幻の後輩に怒りを覚えつつ、その決断の早さにだけは、どこかで感心もした浅羽なのである。人として見習っていい行為なのかはさておいて。


 結局、この問題が解決したのは、年度が替わった四月に入ってからだった。同じ支社の管轄内で復帰を望む元職員があり、その再雇用にともなう人事異動で、隣の市に通っていたベテランが、こちらに一人回ってくることになったのだ。


「せっかく辞めたのにもう一度この仕事をやりたいなんて、奇特な人もいたもんだ」

 相当に失礼なことを浅羽は考えたが、人にはそれぞれ事情もあるのだろう。再就職がうまくいかず、気の知れた古巣に戻りたい、ということなら、さほど不自然ではないかもしれない。経験が活かせるのは強みでもあるだろうし、どの業界でも、一から教えるより楽なのは間違いなかった。


 そういった次第で、人手不足はどうにか解消されつつあったが、浅羽の経験が一番少ない、という状況自体はまったく変わらなかった。これでは新人を生け贄にして抜け出すという、浅羽の目論見通りにいくとは言いがたい。それにこの数ヶ月の修羅場を体験した者として、すぐまた同じ状態に追い込んでしまうのも、さすがに後味が悪すぎると思った。


「しょうがない。もう少し落ち着くまでは続けるとするか」

 それがいつまでのことになるか見当もつかないが、ひとまずの性根を、浅羽は据えることにした。半年もの間勤めておいて、今さら「性に合わないから」が通用すると思うほど、浅羽は楽天的にできていない。それが許される期間はとうに過ぎていたし、そうした気まぐれが周囲に与える迷惑も、直近の反面教師のおかげで骨身に沁みていた。


 始めたときは「おもしろそう」だけでよくとも、角が立たないよう穏便に退くためには、自分と世間を納得させられる大義名分が必要になるようだ。とかくこの世は不合理で、めんどうくささに満ちている。


 かくして、疲労と諦めの混ざる二酸化炭素を吐き出しながら、浅羽は今日も今日とて出勤するのだった。職員用の駐車スペースに、くたびれた軽四自動車を乗り入れ、くたびれた体を引きずり出すと、くたびれた目に飛び込む春の陽射しが、憎たらしいほどにさわやかだ。大型連休まっただなかで、絶好の行楽日和だというのに、浅羽の精神はそうした明るさとは無縁のところにあった。


 それも職場の性質を考えれば無理もないだろう、と浅羽は思う。プライベートでは愉快に笑うことがあっても、この敷地に一歩足を踏み入れたなら、自然と神妙な心持ちがわいてくるのが、まともな人間の感性というものではないだろうか。


 節柄せちがら市営中央斎場。


 浅羽の通う職場の名前である。市内でも最大の規模となる、それは火葬場だった。

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