40話 教壇から見える景色

 月曜日を越えて、水曜日になる頃には皆が短編の着手に入っていた。

 短編の制作時間は、かなりショートで、来週の五月末まで……金曜日だという。文芸部で皆がキーボードをカタカタと揺らしながら励みつつ、時折、雑談をするのが、非日常的だった。


 だけど、オレはというと、画面に文字を映し出す、消す。を何度も繰り返していた。小説を書いたことが無いのだから当たり前である。


 勿論、どんな話にするかは考えた。


 舞台は、昭和。質素な暮らしをする五人兄弟の長男が主人公。

 黒光りする学生帽を反対向きに被り、兄弟達の給食代を稼ぐため必死に近所の手伝いをこなす日々。自分は、給食代を払えないので、クラスメイト達からバカにされ、一人ポツンと先生の前で食べさせるのが日常だった。


 俺が兄弟達に嫌なおもいをさせないためにも……頑張らない、と。


 …………そのあと、どうなるかは、まだ未定。


 頭の中に、どんな主人公像か、どんな生い立ちか、は出てくるがどう物語を転がせば良いのか全く出てこない。


 恋愛話にするのか、ミステリーにするのか、将又家族愛を丁寧に描くのか……それも短く完結できる話。


 ふと、彼らを見ると、頭を抱えながらも各々閃いたように打ち込む。その姿は、登場人物と一緒に踠きながら進むパートナーのようである。

 自分の目線を下げると、キーボードへ置いた手は全く動かない。

 それを、見て。


 まだこの主人公のパートナーでは無いのだろうなと思う。

 


 ……集中が途切れたな。


 オレはスマホのボタンを軽く押して、時間を確かめると、一七時三十分。

 まだ、時間はあるか。


「悪い、ちょっと外出てくる」椅子を下げながらそう呟くと、皆顔を縦に揺らして了解してくれたので、オレは文芸部から出た。


 


 あの場所であのまま座っていても、時間だけが過ぎていっただろう。

 オレは、気分転換がてらに春の終わりを告げる風に当たりに行く為、グラウンドが見える窓へ向かう。


 鍵をくるっと回して、窓を開けると涼やかだがどこか草の匂いがした。

 陽射しは、オレではなく、運動に励む彼ら彼女らを照らす。

 淡白いはずの光は、降り注ぐも彼らの汗により熱気の籠った淡い赤になっているようにみえた。それほどまでに、心地良さそうに運動へ励んでいる。


 野球、サッカー、陸上。

 ウチの広大なグラウンドを何十人もが縦横無尽に走り回る。


 野球部が振りかぶった金属バットに上手いことミートしたのだろう、キーンと響く。

 サッカー部が声を出しながら、地面を駆け抜け、砂が舞う。

 陸上部が百メートル走をするのだろうか、スパイクをスターティングブロックに乗せ、前傾姿勢になる。全神経を研ぎ澄まし、合図を待つ。


 パン。


 銃声が鳴り響くなり、弾丸のように少女達が一直線に駆け抜ける。

 スタートダッシュが遅れた子はグングンと加速し、薙ぎ払うように最後まで突っ切った。

 

「……みんな、カッコいいな」開けた窓枠に突っ伏するような状態で呟いた。

 皆がもうすぐ来る夏へ向けて、走っている。

 勝負の夏に良いダッシュが決めれるように、春の終わりに兜の緒を締めているのだ。前回、好成績を収めたからと言って、今回も栄光をつかみ取れるという訳でも無い。


 それに、部活動の新体制になってからまだ日が浅いだろうしな。

 新しい伊吹が吹き込まれて芽がぐんぐんと育つような光景と匂いを感じながらもう少し浸っていようかと頭をゆっくりさせた。


 その刹那、弾んでいて瑞々しい声が響く。


「陸上部の健康的な身体を熱心に見てるところ、失礼します」


 丁寧だが、どこか冗談を含んだ言葉選びだ。

 オレは、その子に目を向けようと思ったが、横に来て、ニヒッと笑う。


 夏の香りと熱さに魅了されて、早めに咲き誇る橘のような美しい笑顔である。

 彼女のほっぺは、ほんのりと卵色になっていた。

 

 そんな後輩の服装を見ると、黄色と白を基調にしたスポーツウェアを見に纏い、下はぴっちりとした黒のパンツを履いている。

 その姿は、明らかに、運動部な装いだ。


「健康な精神は、健康な肉体を見て宿る……らしいからな」

「私を見ないでください」

 ジーっと見てくる。

「オレの体も見られてるが?」

「……不健康な精神に染まりそうです……ううぅ」

 嘘でしかない泣きポーズを終えると、オレ達は肩をおろして、クスクスと笑う。


「で、今から部活か?」

「はい。陸上部なんです。……あっ、でも今見てたピッチピッチの可愛い短距離走者ではなく、長距離のマラソンですけど」

「へぇ〜、長距離か……駅伝とかすんのか?」何気ない問いかけをする。


「そうですっ! 襷を渡すために必死で走る最高の競技ですよ」

 華奢な体つきなのに長距離か……イメージつかないな。

「そんな最高の競技の練習はいいのか?」


「……私の言葉を返してくる辺り、小馬鹿にされてる感じがします」ジーっと薄目で見てくる可愛い後輩にフッと笑みを漏らすと、『やっぱバカにしてます!』と言うので俺は、窓から離れて壁に背もたれて真っ正面で見合う。


「まぁ良いです。……今日は、日直で遅れたんです。近々、駅伝の大会があるので練習しなきゃなんですけど」

「……大会?」

「はいっ! もしかして、見に来てくれますぅ?!」

「ん?」

「今週の土曜日ですっ! 空いてます?」

「えっっと……」目力が強い……瞳にキラキラと輝かしい星屑が煌めいているように訴えかけてくる。


「……まぁ、今は急いでいるので、答えはLONEで教えてください。会場と時間とどのコース走るかはまたLONEでお知らせしますので。失礼します……あっ、よければ、こっから私を見てても良いですよ?」


「お前、絶対にオレを指差して、『さっき、あの人がみんなの事いやらしい目で見てたよ』なんて言うだろっ」

「……ふっ、そうやって、すぐ察するのは明智先輩の強みですか? ……それとも弱みですか?」


 オレよりか小さくて、クリクリとした後輩なのに、なぜか彼女の言葉には響くものがあった。温水で浸した浴槽の上に蛇口から水がぽちゃんと溢れるように心地よい音だ。


 だからだろうか、彼女が求めていた『恋』について言葉を出した。


「強みとか弱みとかがわかって、自分が支えたい、自分を支えてもらいたい、って思うようになって段々と惹かれていくのが恋なんだろうな。……でも、惹かれるのは必ずしも強みだけとは限らない。その人の弱さに惹かれるかもしれないから、人は、唐突に恋に落ちる」


 誰だって、自分の好きな人にはカッコよくあって欲しい、可愛くあってほしい、優しくあって欲しい、素敵であって欲しいと思う。

 往々にして、そんな想いを胸に人は恋をする。


 だけど、そうではなく、その人の弱さを知って、恋に落ちることもあるのだ。

 その時ばかりは、どうする事も出来ない。


 積極的な恋は自分で『恋』という理由を掴む。彼がカッコイイから好き。彼女が可愛いから好き。彼が優しいから好き。彼女が家庭的だから好き。

 恋する理由が、恋した理由が、あるのだ。


 だが、消極的な恋とは、苦しいものだ。悲しいものだ。 

 なにせ、自分が意図していないのに、進み出すのだから。

 心に向けて、止まれ止まれと叫んでも、坂道を転がるおむすびのように留まる事なく、恋が加速するのだ。


 自分がなぜ相手に向けてここまで恋心を寄せているのか、分からないのに好きなのだから。

 それは、本当に苦しいのだ。そして、胸が締め付けられるのだ。

 酸味が強い恋は、複雑怪奇で、言葉では説明がつかないのだろう。

 

 だから、人の弱さから恋を始めてしまうのは、酸っぱいのだ。

 理由を求めど、出てこないまま相手に惹かれていく。


 その酸っぱい時間から甘い酸っぱい恋へと変える方法は、一つしかない。


 ______________________________。



「まさか、こんな所で授業が始まるとは思ってませんでした……。先生、もしかして、私を堕とそうとしてます?」

「まさか……先生は教え子には手を出さない……当たり前だろ?」

 一歩前へ進みながら答えると、彼女はニヒリと笑う。

「でも、教え子は教師を好きになるかもしれませんよ?」

 橘も一歩前へと進む。挑発的な笑みに切り替わった。


「……それは幻想だ、と言うのも教師の務めなんだろうな」


「その時が来たら……務め……全うしてください、よ」


 そう懇願するような問いかけと瞳には、もう既に何かが彼女の中で進み始めている形跡を感じた。オレに襷ではなく、命綱のように、自分をしっかりと帰還させてくれ、と懇願するようにさえ感じてしまったのだ。


 オレは、橘に『頑張れよ』とだけ言い残し、文芸部へと足を進めた。


 その背後からの風がピシャリと止んだ気がした。

 恐らく、彼女が窓を閉めたのだろう。


 ……いや、もしくは、彼女が窓からの風景を眺め始めたのかも知れない。

 学生が興味本位で教壇へ立つように、その光景を目で触れておきたかったのかも知れない。


 先生はここで何を思いながら眺めていたのかと、逡巡するように。

 

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