181 第六日、山ねずみたち


 眠りは浅かった。


 色々な夢を見たように思う。


 王宮で今まで通りに、豊かに、安らかに、楽しく過ごしていたり。

 怒号をあげる大群衆の前で首を吊される寸前になったり。

 空を飛び、グライルも飛び越えていったり。

 沢山の死者の間をひとりでさまよいながらご主人さまを探したり。

 ぼろ布をめくり上げて――中から超危険人物が出現したり。


「ん…………」


 目を覚まして――これが現実だ、と理解するまで少しかかった。


 天幕の中は暗かった。

 あちこちから寝息が聞こえている。とりあえず体と装備を確認した。


「……来い」


 至近距離から、声を耳に流しこまれた。

 小さく、ぶっきらぼうだが、柔らかな響き。


 頭の理解より先に胸が高鳴り、総毛立ち、鳥肌にまみれた。


 すぐ横に、くっついて、ぼろ布がある。


 それが持ち上がり、開かれている。

 自分を招いている。


 カルナリアはほとんど反射的に、潜りこんだ。


 温かい暗黒の中に、しっかりした、背の高い体と、いい匂い――豊かなふくらみと、長い剣があった。


 ぼろ布だけではなく、服の前も大きく開かれていて、引き寄せられ、谷間に顔を埋められ、頭を撫でられた。カルナリアはいっぱいに息を吸った。


 前にこうしてもらえたのはいつだっただろうか。

 たまらない幸福、とてつもない快感――だが。


「今日は、ものすごくめんどくさいことになるなあ」

「はい……」


 なりそう、ではなく――「なる」と。


「死ぬなよ」

「…………はい」


 このすばらしい行為は、死の前のなのではないか。

 そう思うと、喜びよりも、切なさがこみあげてきた。


「手を」

「?」


 意味がわからないでいると、フィンの手がカルナリアの手首を取って、引っ張ってゆき――。


 自分が顔を埋めている谷間よりも、さらに上。


 首に。

 あごに。

 手の平が、それに触れた。


 フィンの素顔に、触れている!


「…………!」


 思わず撫で回そうとしたが、その前に。


「っ!」


 指が、熱くぬめりのあるものに吸いこまれた。


 口に! と脳が炸裂しかけた次の瞬間。


っ!」


 強く、噛まれた。


 その後で、そこを、ぬるりと舐められ――痛いのにとてつもなく気持ちいい、異様な感覚に支配された。


「危ない時に、それが頭に浮かぶ」


 手が引き下ろされ、顔からも離されてしまう。


 しかし噛まれた指は――薬指だ――熱く、とてつもなく熱く、じんじんし続けた。


「まず、自分が、生きろ。主として命令する。お前は私のものだから、従え。それは命令の印だ」


「……はいっ!」


 カルナリアはあらためて抱擁され、背中を撫でさすられた。


 力に満たされる。

 熱が湧いてくる。


 幸せの中でカルナリアは思う。

 今日という日を、必ず乗り越える。

 何があっても。






「覚悟はできてるな」


 ゾルカンが、全員を見回して言った。


 空は憎たらしいほどの晴天である。白銀の山々がまぶしい。

 身を隠してくれる霧は期待できそうにない。


「今日は、とにかく進み続ける。に見つからないこと、見つかるような真似をしないこと、魔法を使わず血を流さずに山を越えること、それだけを頭に置いて、何が何でも足を動かせ」


 亜馬たちの荷物配置も変えられていた。

 今までのように、大荷物を積んだものと何も積んでいないもの、という交替制はやめて。

 全ての亜馬に、小さめの荷物が乗せられていた。

 全体の移動速度を上げるためだろう。


 カルナリアもファラも、今日は使わせてもらえない。


 視界の隅に入ったパストラを、カルナリアはちらりと見た。

 鎮静剤が効いているのか、とりあえず騒ぎ立てる様子はない。

 ミラモンテスたちも、距離を開けたところにいるが、憎々しげにパストラを睨むような真似はせず、神妙にゾルカンの話を聞いていた。


「まず、この山を下る。そこで小休止の後、『峠』じゃなく、『迷宮』の方に行く」


 案内人たちからうめき声があがった。


「やつが来た時のことを思えば、広々として隠れ場所のねえ『峠』じゃなく、誰かは隠れて生き延びられそうな『迷宮』だ」


 長の決定で、とりあえず場は静まった。


「じゃあ、ちょっといいですか」


 ファラが進み出て、ゾルカンに十数個の、チーブの筒を渡した。


「夜の間に用意した、魔法薬です。魔法で治すことはできないということで、これを配っておきます。この入れ物に入っている間は、みなさんがそれぞれ持っている魔法の道具、リャク扱いでいけるはずです。中身は強い魔力を帯びていますので、できるだけ風に触れさせないよう、飲む時は口に当てて全部一気に飲んでください」


「おう、助かる」


 それから、客たちへの指示が出された。


 今日は、案内人の区別はしない。全員が声をかけてくる可能性がある。

 合い言葉だけだ。

「何かいたか」と訊ねる。「後ろ!」と答える。本当に後ろに何かいても、後ろ、後ろと二回。

 昨日、案内人と同じような毛皮の服を着た山賊を目の当たりにしている客たちは、全力で頭に叩きこんだ。


 今日の班分けは、ライネリオ一家が先頭の班に入れられ、アリタも入り、エンフがつく。現状で一番の危険人物となったパストラを暴力抜きで静められるのは、夫のライネリオと、同じ女性のアリタだけだ。


 二番目の班は、ミラモンテスたちに、アランバルリと従者、そしてモンリークとアルバン、オラースの二人が合流するという、貴族班が再結成されたものとなった。つく案内人は強面こわもての者である。


 もっとも、初日とまるで違い、貴族らしく荷物をほとんど持っていないのはまだ顔の紫色が残っているアランバルリだけで、モンリークもミラモンテスも、従者たちと何も変わらない荷をしっかり背負っていた。


「なんか、久しぶりに見た気がするな、あいつ」

「はい……」


 レンカとカルナリアは、モンリークを見てひそひそと言い合った。

 ゴーチェは不愉快に口を歪めている。


 今日は、ライズ班が最後尾とされた。


 獣人たちは、全員前方に配置され、行く先の異常を何がなんでも感知する役目。


 いつもは身軽に動く役目でほぼ手ぶらの彼らも、今日はある程度の荷を背負っていた。


 襲われ、ばらばらになっても、自分だけで生き延びられるようにということだろう。


 つまりはそのような状況になる可能性があるということ……。


 それがわかってしまい、カルナリアは今日の道行きにさらなる不安を抱き、自分の薬指の熱い部分を他の指で撫でさすった。






 出発する。


 先行の偵察班、牛獣人たち、亜馬隊という順番は変わらないが、それぞれ荷物が少なめにされたせいか、動きはこれまでよりも早かった。


 昨日の霧のせいで地面はややしっとりしている。しかし雨あがりの時のようにやたらと滑ることはなく、また粘体生物スライムの警戒もほとんどしなくていいのはありがたい。そもそも標高が上がり気温が低めなので、あまり棲息していないそうだ。


 天高くそびえる巨大な白銀の峰々を真正面に見据え、ともすればまぶしすぎるその輝きに目を痛めそうになりながら、一行は黙々と下っていった。


「グンダルフォルムは、あれに巻きついて、上の方から獲物を探すんだそうだ」


 ライズ班についたいつもの案内人が教えてくれた。

 ドラン、という名前をようやく知った。


「あんな、高い所にですか!?」


「ああ。ご先祖様が、そうしてるところを見たんだとか。人の足じゃとても行けない、一年中雪と氷に覆われてるあの上の方に、するすると簡単に登っていくらしい。そしてを見つけると、まっしぐらに飛んでくる。ものすごくでかく、長いものが、な……」


 言ってからドランは、自分たちが信仰する天の神に祈る仕草をした。


「頼むから、来ないでくれよ……わざわざ『迷宮』を行くんだ、その苦労をわかってくれよ……俺たち山ねずみなんか食おうとしないで、見逃してくれよ……」


「その、迷宮とは、どういうところなのですか?」


「ずっと広がる荒れ地の、そこら中にぼこぼこと穴が開いてるんだ。数百じゃきかない数。浅いのもあれば底がどこまであるかわからんのもある。通れる場所は網の目みたいになってて、起伏も多くて、すぐ道を見失う。しかも穴に住みついてるのが色々いる。水場どころか、休めるところさえろくにない、本当にやばい時でなきゃできるだけ通りたくないところなんだ」


「でも、そこを行くんですよね」


「ああ……峠は、氷の河に大きく削られた、通りやすいが隠れる場所もないところなんで、あれが来たら全滅しかないが……迷宮の方なら、小さな穴の中に逃げこんで、ひとりかふたりは生き残れる可能性があるからな」


「………………」


 カルナリアは背筋に寒気をおぼえた。

 グンダルフォルムとはどれほどの脅威だというのか。




 隊列は巨大峰の足元へ、ひたすら進んでゆく。


 見上げるだけでも、白銀の輝きが目を貫いてくる。

 生きている人間が手を触れたことは一度もないだろう、一年を通じて溶けることのない分厚い氷雪。


 これも見たことがないほど色の濃い青空の中に立つ、神々の住まい。

 その輝きが降り注いでくる中を進む自分たち。

 まさに、神々の足元をうろちょろする山ねずみでしかない。


 いや、この巨大な神々から見れば、自分たちはねずみどころか、さらに小さな、ねずみがエサにする豆粒が発芽したその先っぽの、白い芽にわずかにあるごくごく小さな緑色程度。


 喉に手をやった。

 この『王のカランティス・ファーラ』がいかに、人の世において偉大で、重要で、強力な魔法具であるといっても……この巨大なものたちの世界、人をはるかに超えたものたちの遊び場においては、どれほどのことがあろうか……。






 ――白銀の巨人たちの足元どころか、まだ爪先も同然のところで、休憩となった。


 まだ午前中だ。だが消耗した者が出てきていた。

 さすがに案内人の中にはいないが、客に数人、動きを止めるなりへたりこんでしまった者が出た。


「きつそうな者には、これを飲ませて、横にさせろ」


 カルナリアとアリタに、フィンから容器が渡された。

 昨夜用意していたものだろう。

 簡易濾過ろか器にも似た、細長い筒と、下の方にある吸い口。


 栓を抜き吸い口から中身を吸わせるらしい。


 先にカルナリアが試しに飲まされた。

 どろりとしているが、たまらなく甘いものが出てきた。

 濃厚な、苦みを含んだ甘さのそれは、経験したことのない美味だったが。

 口を離してみると、透明な蜜ではなく、茶褐色に濁った泥のようなもので、薄気味悪く感じた。

 しかし体はすぐ熱くなり、汗が浮くほどになる。


「体の力を引き出すものだ。ひとり一口ずつぐらいしかない。多く飲むと寿命が縮むと言って、むさぼらせないようにしろ」

「はいっ!」


 二人は客たちの間を回り、くたびれている者に飲ませて回った。


 女性からの差し出しを断る者はほとんどおらず――。


「も、もらってやってもいいぞ、奴隷風情が!」


 モンリークが言ったが――。


「お貴族さま、どうぞ」


 カルナリアではなくアリタがスッと出てきて丁寧に差し出すと、モンリークは彼女に怒鳴ることはさすがにできず、従順に飲み口を含んで喉を動かした。


 あの飲み口は毒を消す布で入念に拭かないと、とカルナリアはひそかに思った。





 カルナリアでは色々悶着が起きそうな貴族たちはアリタにまかせて、案内人たちの間を回る。


 おおむね、快く受け入れられた。


 あのダンという者が、カルナリアの手を取ろうとして、ついてきてくれたレンカが抜いた刃に阻まれた。





「すまない。それは、あの方のものでも、だめ」


 バウワウとガンダには、渋く、丁重に断られた。

 犬の要素を含む獣人には良くないものであるらしい。

 多く飲むと寿命が縮む、という言葉に信憑性が生まれて、すでに飲んだカルナリアもなった。




「シャアアアアアアア!」


 ギャオルには、さらに強く拒絶された。


「お、俺を、狙ってるのか!? やる気か!? そんならやってやるぞ、くそう、やってやる、やってやるからな!」


「そんなつもりはありません。あなたこそ、どうして、そんなにご主人さまを嫌うのですか。あんな優しい方はおられないのに」


「やっ、優しいっ!?」


 ギャオルは豹の目を限界まで見開いた。


「お前っ、がっ、そう見えるのかっ!?」


 思えば、この豹獣人にはいつも威嚇され逃げられ、まともに会話できたことはなかった気がする。これはいい機会かも。


「どういうことですか? 私にとっては、世界で一番頼れる、大事な、ご主人さまですけれど」


「いやっ! あれはっ! あれがっ、優しいなんてっ!」


「……優しくない、どういうことをなさったのですか? 私が知らないところで何かなさっていたのなら、教えてくださると――」


「だから! あれは! この世のものじゃ――」


 ――レンカが動く前に、左右から、ふたりの犬獣人に押さえこまれた。


「ネコ系は、俺たちとは、ちがう」

「なにも、ない。おまえは、そのままで、いい」


「………………失礼しますっ!」


 何がなんだかわからないが、絶対に踏みこまない方がいい気配を感じたカルナリアは、身をひるがえした。

 こういう感覚に、何も知らない小賢こざかしい頭でああだこうだ理屈をつけて食い下がることこそ、死への直通路。

 そのことが、これまでの経験から、よくわかっていた。


「どういうことか、ご存知ですか?」

「あのひとが直接教えてくれるまでは、お前は一切知らなくていいことだ」


 レンカにも、犬獣人たちと同じようなことを言われた。


 一連のやりとりを見聞きしていたゴーチェの疑惑の目が、さらに深いものになった。






「行くぞ!」


 ゾルカンの声が飛び、隊列が動き出した。


 ここからは、あの九十九つづら折りの道と同じようなもの。

 最も高いところを越えるまで、長く休むことはない。

 途中の行動食も水も、歩きながら口にする。

 動けなくなった者を助ける余裕はない。

 邪魔をするなら、容赦なく処分する。


 案内人たちから殺気をおぼえ、カルナリアはうめいた。


 ここから先は、本当に、足手まといと判断された時点で首に縄が巻かれる。


 案内人たち自身が生き残れるかどうかわからない状況に踏みこむ。

 客の命を大事にする理由がどこにもない世界……。


「パストラが、こんなきつい目に遭うのはやっぱりあの小娘のせいだ、とつぶやいているそうです。お気をつけを」


 ゴーチェが教えてくれた。


 フィンが与えてくれたあの飲み物で疲れが癒えた者が、情報をよこしてくれたようだ。


 苦い思いとともにうなずいた。





【後書き】

生きろと命じられた。初めてのこと。それだけ危険だということ、この怪人をもってしても守りきれるかどうか危ういということ。ちっぽけな人間たちは小さくなってひたすら進む。次回、第182話「迷宮」。いよいよ難所へ。



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